審神者としては基本中の基本事項なので、何を今更……と思うかもしれませんが、実は審神者や政府職員の間でも多かれ少なかれ認識相違のあることなので、ここで触れておきます。
刀剣男士
刀剣男士とは刀剣に宿った付喪神に願い、審神者が現身を与えた分霊のことを言います。つまり、分霊が刀剣男士であって、現世の護歴神社に祀られている刀剣に宿っている付喪神は刀剣男士ではありません。付喪神の本霊を刀剣男士と認識している審神者や候補生もいますが、それは間違いです。これは護歴神社及び宮内庁神祇局、歴史保全省が揃って示していることです。
刀剣男士は刀剣の付喪神そのものではありません。本来神道において本霊と分霊という場合、その存在(神格・能力その他)に相違は一切ありません。伊勢神宮に祀られている天照大御神も他の神社に祀られている分霊も等しく同じ天照大御神です。ですが、刀剣の付喪神(本霊)と刀剣男士(分霊)は完全に同じ存在ではありません。
刀剣男士は審神者の霊力によってその現身を造り出します。本霊であれば自ら肉体を得ることも不可能ではありませんが、刀剣男士はそれが出来ません。それは刀剣男士の神としての力がそれほど強くないからです。刀剣男士はその性質・性格・記憶は本霊と同じものを持っています。戦闘力は本霊のほうが当然ながら強い(神としての力が強いため)ですが、能力値として示される数値は同じだと聞いています。ですが、神格・神力は桁違いに劣っています。それは人間が体を与え、人間に制御できるギリギリまで力を落としているからです。刀剣男士とは本霊から神格と神力を大幅に削った、言葉は悪いですが劣化コピーなのです。少なくとも、当本丸の刀剣男士には本霊と分霊の違いを確認した際にそのように説明をされました。
刀剣男士はこの戦いのために人間の願いによって作られた存在なのです。
神か、付喪神か、刀か
では、刀剣男士という存在に、人間はどのように接すればよいか。
一部の政府役人や一般人には『刀剣男士は刀という道具』と認識している者がいます。決して間違いではありません。
一部の宮内庁神祇局員や神道関係者には『刀剣男士は神様』と認識している者がいます。これも間違いではありません。
或いは『刀剣男士は付喪神』と認識している者もいます。これもまた間違いではありません。
それぞれが決して間違いではありませんが、正解でもありません。
刀剣男士は、それら全てを併せ持った『刀剣男士』なのです。神であり、道具であり、付喪神である刀なのです。
刀剣男士は人の姿を持ち、人間と同じように感情を持ち、個性を持ちます。ゆえに『人』として扱う者も少なくありません。けれど、『人間』ではないということを忘れてはいけません。
そもそも感情を持っているから人型を取っているから『人』というのは乱暴ではないでしょうか。記紀や風土記を読めば判りますよね。天津神も国津神も多くの神々は人の姿を取り、感情をお持ちです。
刀剣男士に対して他人に接するのと同じように、その感情を、考えを理解し尊重しようとすることは間違いではありません。それは意思を持ち感情を持ち理性を持っている彼らに対して当然の態度であり行動です。
けれど、彼らを『人間と同じ』とするのは間違いです。彼らは神であり付喪であり、刀という武器です。つまり、人間とは全く異なる理の中で存在しているのです。それを忘れてはなりません。
また、極端に刀剣男士を神扱いすること、或いは道具扱いすることも推奨されません。何かに偏った扱いをすることは『刀剣男士』の本質を歪めかねません。
神扱い
刀剣の付喪神の本御霊は護歴神社に祀られ、戦神となっています。紛れもない神です。刀剣男士もその分霊ですから神であることには間違いありません。けれど、神よりも遥かに格下の存在である人間が制御できるように神としての力も意識もかなり抑え込まれています。
そもそも神とは本来傲慢な存在です。神の慈悲は気まぐれなものです。神の愛は自分勝手なものです。それは記紀を読めば判ります。けれど、慈愛に満ちた存在でもあります。刀剣男士は『付喪神』の性質を持ちますから、特に人間に対して好意的であり慈愛に満ちています。これは付喪神の発生に『人間の想い』が必要不可欠だからです。
けれど、人間が必要以上に刀剣男士を神として崇め奉り刀剣男士に仕える立場を取ると、刀剣男士はそれに合わせて『神』としての一面を強く持つようになります。
するとどうなるのか。『刀剣』としての面が弱くなり、最悪の場合消えてしまいます。何故なら、刀剣(道具)としての性質と神としての性質は本来相容れないものだからです。道具は人間に使われることこそを望みます。使用者である人間が主で道具である刀剣男士が従です。刀剣男士が最も強く持っている意識はその名の通り刀剣(道具)の性質です。ゆえに刀剣男士は審神者を『主』としてその指示に従い、尊重してくれます。
しかし、人間が彼らを神として扱えば、それが逆転します。審神者は主(指揮官)ではなくなり、刀剣男士は刀剣(部下)ではなくなります。神と神に仕える贄という、役割の逆転が起きます。そうすると、審神者を主とするという本霊と政府との契約が破棄されてしまいます。それによって、刀剣男士だったものは審神者には制御不可能な存在となり、刀剣の戦神の分霊という存在から逸脱してしまうのです。何故か必要以上に神として扱った審神者の刀剣男士は神としての傲慢で自分勝手な面ばかりが強くなります。男神だからなのかもしれませんが、女神に多い慈愛の側面を殆ど持たぬ神となっているケースばかりです。
それは人間にとっても刀剣男士にとっても不幸でしかありません。人間は贄となって神の玩具となり下がり、刀剣男士だったものは『刀剣の付喪神』というその存在の核であったものを失います。本来であれば刀剣男士としての役目を終えた分霊は本霊に戻り融合します。(一般にこれを『還る』といいます) しかし、神としての面が強くなり過ぎたモノは本霊から『自分の分霊』とは認知されず、還れません。仕えていた審神者擬きという存在を失った刀剣男士だったモノはその存在の拠り所(信仰心)を失い、消滅することになるのです。
神として敬うことが間違いなのではありません。神として敬いつつ、刀剣男士は武器(道具)であるということも忘れなければよいのです。
道具扱い
実はこの道具扱い、刀剣男士にはさほど影響は与えません。勿論、過剰な道具扱い=使い捨てなどすれば、影響しますが。そうなる前にこんのすけが監査などに連絡し、審神者のカウンセリングや再教育が行われますので、問題はありません。
実は審神者の中にも道具扱いしている審神者は一定数います。けれどそれが問題にならないのは『愛用の道具』として大切に扱うからです。道具の性能を十二分に引き出し長く使うためには手入れが欠かせません。この手入れは傷を直すだけではなく日々のメンテナンスという意味です。そして、人型を取りヒトと変わらぬ生活が可能となった刀剣男士のメンテナンスとは、ただ依代のメンテナンスをするだけではなく、十分な食事と休養、適度なコミュニケーションも含まれているからです。
また、道具扱いする審神者の場合、刀剣男士を『自分の所有物』と認識するので、実はこれが刀剣男士に喜ばれています。特に武器意識の強い者、不本意な主替えを刀剣時代に経験している者には喜ばれるようです。ただ、『自分の所有物』という言い方をすると、それに噛みついてくる審神者もいます。『刀剣男士にも心があるんですよ!それを無視してモノ扱いするなんて酷い!』と。なので、発言する場所や言い方には気を付けましょう。
因みに私も時折『あなたは私のモノ』的なことは言います。具体的には『私の歌仙兼定』とか『私の加州清光』とか。これを言ったときには誉桜が舞います。彼らが特に道具意識が強いとか、私が道具扱いするとかではありませんが、彼らの『道具=誰かの所有物として使われる物』としての側面が、そう言われることを是とし、喜びとしているようです。
なので、道具扱いは実は刀剣男士には嬉しいことだったりもするのですが、絶対に審神者として許せない道具扱いする者もいます。それが、道具=使い捨てという認識の者です。これは政府役人、特に中間管理職や審神者部以外の職員に多いです。そう、多いんです。
刀剣男士にはレア度があります。これは本霊との契約難易度・依代を作るための術式の難易度によって決定しています。同じ国宝でも三日月宗近とへし切長谷部のレア度が違うのはこのためです。国宝の厚藤四郎よりも重要文化財の数珠丸恒次のほうがレア度が4つも高いのはこのためです。決して刀剣そのものの価値が高いからレア度が高いわけではありません。ぶっちゃけて言うと、刀剣男士の本霊と交渉した役人の役職が高く、その役人が贔屓していて、更に気難しい刀剣の付喪神を本霊とする刀剣男士がレア度が高くなっているのです。
政府の役人の中にはこのレア度こそが刀剣男士の価値と思っている馬鹿がいます。レア度が高いものが神格が高いと思っている馬鹿もいます。刀剣男士に能力の差はあれ、存在の格に違いはありません。そもそも刀剣男士は神格を持ちません。持っているのはその源である本霊であり、本霊たちも等しく『刀剣の付喪神』であることから神格は同等です。但し、存在した時間の長さで力の強さは決まりますので古い刀剣ほど力は強いですし、人気のある(知名度の高い)刀剣や地域密着型の刀剣ほど信仰心を集めやすいため力は強くなります。
レア度こそ指標と思っている役人たちは当然レア度の低い所謂『コモン刀剣』を馬鹿にする傾向にあります。確かに『コモン』と呼ばれてしまう彼らは鍛刀でもドロップでも依代入手が容易です。だからといって粗雑に扱っていいはずはありません。人の願いを聞き入れてくれた本霊が遣わしてくれた大切な仲間であり武器です。粗雑に扱う理由などありません。
それでも『まぁ、確かに俺っちたちは出易いからな。人間にもいろんな奴がいるから、そう思う奴がいても仕方ない。だがそれ以上に俺たちを愛してくれる人間がいるんだ。まぁ気にするな』と某短刀詐欺の本御霊が仰ったそうで、本当に感謝しかありません。
人間に力を貸してくれている
審神者同士の交流掲示板などで『刀剣男士は人間の起こした勝手な戦いに力を貸してくださっている』という話題が出ます。
間違いではありません。けれど、完全な正解でもありません。
確かにこの戦争に人外の敵兵が確認されたとき、当今陛下は天照大御神に祈りを捧げ道をお示しくださいと願われました。そして、神々は刀剣の付喪神を武器として授けると神託を下されました。つまり、人間が刀剣の付喪神を願ったのではありません。神々がこの戦争を終結させるための策として刀剣の付喪神を遣わしてくださったのです。
審神者は刀剣男士を顕現する際、この戦いに力を貸してくださいと願います。刀剣男士はそれに応えて顕現します。だから、刀剣男士が人のために力を貸してくれていることに間違いはありません。
ただ、刀剣男士にも力を貸す理由があります。一方的な人間の都合によって力を借りているわけではありません。
刀剣は人間が作り出したものです。刀工がその刀剣を生み出さねば、刀剣の付喪神は存在しません。
その刀剣を振るった人間がいなければ、刀剣の付喪神は存在しません。
人々がその刀剣を愛し存在を繋ぎ、語り継がねば刀剣の付喪神は生まれません。
つまり、人の歴史が変われば、刀工は刀を打たないかもしれず、刀が使われることもなく、或いは途中で折れて逸話がなくなるかもしれず、付喪神が生まれないかもしれません。
人の歴史が変わるということは、それに付随して現在存在するモノが消えてしまう可能性もあるのです。
ゆえに刀剣男士たちはこの戦いに参戦しているのです。人に力を貸すことで自ら戦う力を得て、自分たちが存在している歴史を守ろうとしているのです。人間と同じように自分たちが存在する今を守るために彼らも戦っているのです。
決して人間の身勝手な戦いに、何の利もない戦いに一方的に刀剣男士を巻き込んでいるわけではありません。刀剣男士にも戦う理由があるのです。それを理解していれば、刀剣男士が歴史改変を望むのではないかなどという的外れな不安を抱くこともないでしょう。
勿論、人間の起こした戦いのなのだから、人間だけで決着をつけるのが本来の戦いだと思います。人間の戦いなのだから責任を持つのも人間です。それを忘れてはなりません。だから、力を貸してくれている刀剣男士や本霊に感謝するのは当たり前のことです。けれど、罪悪感を抱く必要はありません。