第1話 目覚め

 揺ら揺らと水面が揺れる。その部屋の3分の1を占めようかという大きな水槽に満たされているのは清浄な霊力に満ちた謂わば霊水。本来は眠る存在を護る為の不凍液だった。けれど100年の長きに亘りその者たちを包んでいたそれは、生命維持以上の役割を持つようになっていた。

 部屋は異様な雰囲気に包まれていた。忙しなく動く白衣の医療関係者たち。黒や灰のモノトーンのスーツに身を包んだ役人たち。そして、水干や狩衣を纏った神職たち。

 彼らが見守る中、霊水が輝きを放ち、彼らの視界は桜色に染まる。それは刀剣男士が顕現する際に現れる桜吹雪だった。

 桜の花弁が消えると、其処にはこれまでいなかった2人の姿があった。否、2人ではなく2振。水の中で眠る存在を護る為に人の身を解いて傍に在った2振の名刀。初期刀歌仙兼定と懐刀薬研藤四郎。

「主、そろそろ目を覚ましておくれ」

 柔らかな声で歌仙兼定が水の中で眠る少女に呼びかける。

「たーいしょ。早くしてくれねぇと俺っちも待ち草臥れちまうぜ」

 そっと近づいてきた神官から衣を受け取り、薬研藤四郎が囁く。

 2振の声に触発されたかのように、水槽の中で長い微睡みにあった彼女が目を開く。揺ら揺らと水中で揺らめく黒髪は全身を覆うほど長くその白い肢体を覆い隠し、黒瑪瑙の煌きを持つ瞳は遥か遠くの世界を見通すかのように潤んでいる。

 神々しい神子の目覚め。神官たちの胸が震える。伝説の審神者が今目覚めたのだ。

 ──そう彼らが神秘の幻想に浸っていられたのも、その瞬間までだった。

 グボッ、バシャバシャ、げほっげほっげぇげぇ。

 バシャバシャと激しい水音を立てながら、少女は水槽の縁を掴む。ぜぇぜぇと息を切らし、顔を上げた少女に歌仙兼定は呆れたような視線を送る。

「全く、目覚めた早々雅じゃないね」

 呆れたような口調は、愛しさに満ちた声音だった。

「雅なことは判らんっていつも言ってるでしょ。おはよ、歌仙、薬研」

 少女は花のように笑い、己の愛刀の名を呼んだ。

「ああ、おはよう、大将。さて、まずは目の毒なそれを仕舞ってくれや」

 薬研が少女に衣を差し出す。それを纏いつつ、少女は漸く己の体を見た。そして。

「うわー、30歳は若返ってるね、私!」

 審神者制度黎明期に活躍した乙種審神者、号を右近。この日彼女は100年の眠りから目覚めたのだった。




 事の始まりは約100年前。右近は更にその数十年前に過去の時代から時を超えて召喚された審神者だった。

 この【歴史保全戦争】が始まった当初、審神者選考の基準は現在に比べて非常に厳しいものだった。抑々の根幹である眠れる物の思いを呼び覚まし使役する『審神者の霊力』は国民の半数近くが保有していたものの、実際に数十の刀剣男士を保持するほどの力を持つ者はその半数程度。しかも『審神者』に要求されるのはそれだけではない。前線の指揮官として、末席とはいえ神の傍に侍るものとして、共同生活の管理者として、審神者には様々な能力と資質が要求される。これらの資質と能力と霊力を合わせて審神者の適性の有無が判断されるが、適性を持つ者は審神者の霊力保有者の10分の1にも満たなかった。年齢などを加味すれば審神者就任可能な者は更に限られる。とても当時の適性者だけでは戦線を維持することは困難だった。

 しかし、太平洋戦争の頃のように国民を強制徴集するわけにもいかない。明確な人権の規定のなかった明治憲法下ですら特別な法律、国家総動員法を制定して徴兵は行われたのだ。国民の人権を重視する現憲法の下では国家による強制徴兵は重大な憲法違反となる。飽くまでも審神者は自主的に職業として選択されなければならない。審神者を志望する者全てが政府が望む適性者ではない以上、審神者は不足した。

 その厳しい状況を打破する為に当時の政府は過去の人間にも助けを求めた。勿論、当人は基よりその子孫に歴史に影響を与える人物や出来事との関わりがないことを精査されたうえでのスカウトだった。

 審神者候補が調査されたのは霊力や歴史背景だけではない。当然ながら人柄や信仰・嗜好や性向まで調べられた。2200年代、つまり当時の『現代』における審神者候補は数回に亘る面接で調査が行われ、過去の時代の審神者候補は態々過去から時を超えて任官してもらうのだから、それに相応しく優秀な人物をとの思惑もあり神祇局職員・内閣官房室参与・歴史保全省職員による数か月にも及ぶモニタリングが行われたほどだった。

 そういった審神者候補の気づかぬ篩にかけられ、右近は審神者にスカウトされ、2003年から2210年へと時を超えたのだ。

 結果、右近は常に戦績上位に位置する有能な審神者となり、戦績優秀かつ円満な本丸を運営し続けた。尤もこれは右近に限らず20世紀で社会人経験を積んだ審神者殆どにいえたことでもある。彼らは1日8時間の出陣と遠征を行い、それを当然のこととして本丸を運営していたのだ。決して無理な出陣をするわけではない。シフトを組んでローテーションで部隊を編成していただけだ。きっちりと週休2日も取り入れ、中には刀剣男士に有給休暇を与えている本丸もあった。

 その頃から判明していたことだが、刀剣男士は顕現する審神者に強く影響を受ける。つまり勤勉な審神者の刀剣男士は職務に忠実で勤勉であり、怠惰な審神者に顕現された刀剣男士は怠惰になる。怠惰な本丸のへし切長谷部は勤勉な本丸の明石国行よりも働かないと判明したときには本霊たちも頭を抱えたものだった。

 そういった様々な事象が判明しつつも政府と審神者、刀剣男士が力を合わせ、歴史修正主義者テロリストと戦っていた、歴史保全戦争初期に右近は審神者として生きていた。

 けれど、彼女が間もなく審神者就任20年を迎えようとする頃、転機が訪れた。審神者は年に1回必ず健康診断が義務付けられている。其処で彼女の体が病に蝕まれていることが判明したのだ。

 医学が進み癌は風邪と同等に簡単に癒える病となり、脳が生きてさえいればどんな怪我でも完治するとさえ言われた23世紀の医療を以てしても彼女の病は原因の判らぬものだった。そして、彼女は余命1年を宣告された。

 そんな彼女に1つの提案をしたのは、歴史保全省開発局の技術主任と神祇局副局長だった。悩んだ末に信頼する初期刀歌仙兼定に相談し、彼女はその提案を受け入れた。即ち、この病を根治させる術が見つかるまで、冷凍保存され眠りに就くという提案に。

 この頃、政府の歴史保全戦争政策には翳りが見えていた。戦争は既に30年の長きに亘り継続し、最早日常となってしまっている。戦争は非日常であるからこそ緊張感を持つことが出来る。しかしそれが日常になってしまえば、それは惰性に繋がり、やがては腐敗していく。

 しかし、ことは人類の、世界の存続に関わる重大な戦いだ。腐敗し堕落することなどあってはならない。故に政府の一部の心ある者──志はあるが良識的とは言えないかもしれない一部が約100年後、腐敗してしまっているであろう政府や審神者制度を改革する為に、その要となるものを未来へと送ろうと画策したのである。

 この当時、時を遡行することは出来たが、未来へと時を超える技術は開発されていなかった。故に、冷凍保存コールドスリープという手段を用いて未来に現代の有能な審神者や役人を送る策が取られたのである。勿論、当人たちには意図を説明し、了承を得たうえでのことだ。右近の他に神薦審神者である万年青おもとをはじめ数人の審神者と歴史保全省の役人数名が眠りに就くことになった。その中には右近と同様、現代医療では完治出来ぬ病を患っている者も少なくなかった。

 右近が眠りに就くことを決めた後、彼女は己の刀剣たちに先の道を選ばせることにした。とはいっても刀解し本霊に還るか、人の身の顕現を解き審神者が目覚めるまで眠りに就くかの二択であり、所属する全刀剣男士が後者を選択したのだが。

 その中でも彼女の相棒パートナーともいうべき初期刀の歌仙兼定と懐刀である薬研藤四郎の2振は右近が眠る機器の中で共に眠りに就くこととなった。審神者である彼女の護衛である。

 残りの刀剣男士は全て顕現を解いたうえで、右近とその刀剣男士が政府で最も信頼する担当官丙之五へのごに預けられることとなった。丙之五が退職すればその後はその後任が代々引き継ぎ、右近が目覚めれば彼女に刀剣を返還することになっていた。

 そして、約100年の時が過ぎ、右近は目覚めたのである。




 右近の座る車椅子を歌仙がゆっくりと押す。その隣に薬研が並び、あれこれと世話を焼きながら嬉しそうに話しかけている。無理もない。100年以上傍にいながらも言葉を交わすことなど出来なかったのだから。

 右近らを先導するのは、歴史保全省の役人の一人と医療関係者だった。歴史保全省対策局審神者管理部部長の肩書を持つ仲弓ちゅうきゅう(当然ながら役人としてのあざな)と右近の主治医となる守宮記念病院の医師・耕庵である。彼らに先導されて右近はそれまで100年の時を眠って過ごした歴史保全省技術局の庁舎から病院へと移動しているところだ。何しろ100年もの間液体の中にぷかぷか浮いていたわけである。時折電流による刺激を与えることで筋肉が完全に萎えることは防いでいたとはいえ、それは完璧ではない。よってこれから約1ヶ月を目途にリハビリテーションをすることとなったわけだ。体の復調具合によっては期間が短くなることも逆に伸びることもあるだろうが、差し当たっては1ヶ月が目途というわけである。

「入院そのものは検査が済み異常がなければ直ぐに退院となります。退院後は此方が用意した宿舎で過ごしていただくこととなります」

 壮年から中年へと移行する年代の役人・仲弓が右近に言う。審神者管理部の部長だという彼が当面の間右近の世話をするらしい。とはいっても実際に面倒を見るのは歌仙と薬研だが。100年の眠りから覚めた歴史保全戦争初期の審神者の存在は、歴史保全省でも一部の役人しか知ることはなく、重要機密扱いなのだという。抑々このコールドスリープで時を超えるという策自体が100年前の一部の暴走した善良なる官僚たちの極秘作戦だ。それを100年の間継続してきたのは時を重ねながらその意志を継いできたごく少数の役人たちだ。その中心となっているのが、この仲弓という役人だった。右近の事情を知る役人やその関係者とはこれから顔を合わせることになるだろうが、一先ず目覚めたばかりの今日は病院に移動してその後は刀剣たちと過ごすことになっている。

 車椅子を歌仙に押してもらい、庁舎を出ると病院の名前の入った車が出迎えに来ていた。それに乗り込み、官公庁街を出る。すると、其処は見慣れぬ街だった。元々2200年代の街に出ることも少なかったし、それから更に100年が過ぎているのだから見慣れぬのも無理はないとはいえ、右近も歌仙も薬研も何か違和感を覚えていた。否、其処に満ちる空気に違和感がないことが違和感だった。

 元々審神者も刀剣男士も本丸以外は万屋街・演練場程度にしか出かけることはない。そのどれもが現世からは隔離された亜空間に存在する特殊な場所だ。当然ながら其処は現世とは明らかに異なった場所だった。それと同じ印象を右近たちは受けたのだ。

「お気づきになられたようですね、流石です。此処は現世ではありません。城下町と呼ばれる亜空間に存在する都市です」

 不思議そうに窓の外を見遣る右近に仲弓が説明をする。今から50年ほど前に当時の技術の粋を集めて作られたのが、この城下町と呼ばれる亜空間都市だった。其処は4つのブロックに分かれており、1つがこれまで右近たちがいた政庁エリア。此処には歴史保全省の対策局(右近たちの時代は歴史改竄対策局)と技術局、宮内庁神祇局の庁舎と、陸軍歴保特殊部隊の駐屯地、それから演練アリーナと大会議場がある。そしてこれから向かうのは居住エリアであり、其処には他のエリアで働く職員の居住地と審神者や役人の一時滞在施設である簡易宿泊所、審神者専用の病院などがあるらしい。他の二つのエリアは元の万屋街と学術エリアと呼ばれる審神者養成所のあるエリアとなる。

 100年の間に随分変わったものだと感心しながら、右近は仲弓の説明を聞いた。歌仙も薬研も興味深そうに聞いている。

 そうして街を眺めているとほどなく車は目的地に到着した。明治時代の洋館を思わせる瀟洒な煉瓦造りの建物が連なる一角だった。門には『守宮記念病院』と額がかけられている。

「主に審神者様方の為の病院です。任務中に怪我を負った歴保特殊部隊員や神祇局員も利用します。この戦争の前線に立つ人間の為の病院ですよ」

 説明したのは今後右近の主治医となる耕庵だ。因みにこの病院の名になっている『守宮』は『もりのみや』と読み、第一号審神者であった白菊の御称号である。

 既に入院手続きは済んでいるらしく、右近はそのまま病室へと案内された。病室は一人で使うには余りにも広く、医療ドラマで見る貴賓室や特別室、そういったVIP用に見える豪華な調度の揃った部屋だった。これは右近を下手な職員には接触させられないが故の措置だった。

「では、検査は明日から始めます。何かありましたら、ナースコールボタンを押してください。右近様のお世話は刀剣男士様がなさるでしょうから、基本的に検診でなければナースは此処には近づかないことになっておりますので、ご安心ください」

 そう告げて耕庵は職場へと戻っていった。残るのは仲弓だけである。

「リハビリ後のことは退院なさってからお伝えします。が、本日は如何してもお一人だけ、会っていただきたい方がいらっしゃいます」

 仲弓は穏やかに笑みながら言うと、閉じられていた扉を開き、一人の男性と一振の刀剣男士を招き入れた。

「右近女史、久しぶりだな」

 そう言って笑った青年の顔に、かつて親しくしていた老年の審神者が重なった。




「万年青さんはもう起きていらっしゃったんですね」

 右近は自分を訪ねてきた青年にそう語りかけた。眠る前からの知り合いであり、尊敬しかつ頼りにもしていた先達、それが嘗ての彼である。審神者制度黎明期に任命された審神者。天津神々の神託を受けて審神者となった、『神のめぐし子』である神薦審神者の一人だった。素戔嗚尊の加護を得た彼は『三貴子きし審神者』として天照大御神の加護を持つ白菊、月読命の加護を受けた白木蓮と共に全審神者の頂点に位置していた。右近が眠りに就く3年ほど前に老齢に依り引退するところをコールドスリープによって時を超えたのだ。

「ああ、15年ばかり前にな。そうしたら体が60歳ほど若返っておってなぁ。15歳の紅顔の美少年だったぞ」

 カラカラと笑いながら万年青は言う。

 右近だけではなくこの万年青も若返っていたという。その理由については既に耕庵から説明を受けている。右近たちは当時の医学では治療方法のない病に侵されていた。だから、冷凍保存されることになったのだ。そして、治療法が見つかったから目覚めた。が、その治療方法は病巣摘出や病巣の消滅を図るものとは異なっていた。体細胞全てをその病の原因となる因子が発生する以前まで若返らせるというものだったのだ。それ故に彼女たちは若返ることになった。実際に右近の体は16歳にまで若返っている。何この水を弾く肌! と右近が感動したのも無理はない。眠る前はアラフィフだったのだから。

「自分で紅顔の美少年とは、主も大概図々しいよね」

 万年青の言葉に彼の初期刀である加州清光が苦笑する。この加州清光もまた、万年青共に眠り共に目覚めた。万年青の刀剣男士もまた、右近の刀剣男士と同じく全員が主と共に眠ることを選んだのだ。

「五月蠅いぞ。15にまで若返ってしまったからな、その後は審神者高等学校とやらに入学して卒業後に審神者に就任して、12年目になる。それなりに戦績は残しておるから、嘗てほどではないにしても発言権はあるぞ。だから、困ったことがあったら儂を頼るとよい」

 70代の頃ならいざ知らず、30代の若い姿での万年青の言葉遣いは違和感を伴う。それでも、その声音は嘗ての彼のまま、頼り甲斐を感じさせるものだった。

「助かります、万年青さん」

 右近にとってこの時代には知り合いなど一人もいない。尤もそれは審神者になった当初と同じではあるが。それでも『審神者』としてだけではなく、嘗ての同時代に生きた役人たちの願いを背負っている身にすれば、同じ役目を担う先達の存在は心強いものだった。

「それでな、儂がお前さんに会いに来たのには顔合わせ以外の理由があってな。白木蓮殿からの伝言があるんだ」

 万年青から出たのは彼と同じく三貴子審神者として審神者の纏め役だった女性の名だった。

「かの御仁はな、お前さんにその名を継いでほしいそうだ」

 その意外な申し出に右近だけではなく歌仙も薬研も驚いた顔をする。それも当然だった。元々審神者の名は自身で決めるものだ。しかし、万年青たち神薦審神者は違う。その加護を与えた神に依り授けられた名前である。名を与えることに依りその加護はより強くなるのだ。その名を譲られることは、それは白木蓮の意思だけではなく、その後ろ盾でもある月読命も了承していなければ無理なことだ。

「それは……主が月読命様の加護を受けることになるということかい?」

 付喪神の分霊である自分たちも主である右近を守る為に本霊に願い、加護を授けてはいる。とはいえ、神としての力を殆ど持たない分霊に過ぎぬ自分たちの加護など大したものではない。それが、天津神の、しかも三貴子の加護を受けられるのであれば、それはどれほど心強いものだろう。何しろ自分たちの主は己の身にはかなり無頓着で無理をしがちだ。主曰く『ワーカホリック仲間』である戦績上位審神者が多数存在した時代ですらそうだったのだから、審神者や刀剣男士の戦争意識が著しく低下している筈のこの時代においては主が如何するか察するに余りある。それに役割柄、主が何らかのトラブルに見舞われる可能性も嘗ての時代の比ではないだろう。それがある故に、かの女性審神者は名を譲ることで主に加護を授けようとしたのだろうと歌仙たちは考えた。

「ああ、『白木蓮』の名そのものに月読命様の加護がある。彼女ほどの加護は得られぬにしても、刀剣男士たちが授けるよりは余程強い」

 天津神の加護など、錚々得られるものではない。右近が名を継いだとして得られる加護は白木蓮が得ていた加護の万分の一程度のものだろう。しかし、仮令僅かなものであったとしても、『月読命様の加護』を持つという意味は大きい。

「とても有難いお話ではありますけど……すっごく畏れ多いですし、滅茶苦茶プレッシャーです」

 白木蓮の心遣いは有難い。彼女は冷凍睡眠の対象外だった。だから、右近に名を継がせることで役目を負った彼女の助けになるようにと願ってくれたのだろう。だが、天津神の加護を受けることもそうだが、何よりかの女性の名を継ぐということに気後れしてしまう。あの時代にあって白木蓮は当代一の貴婦人と言われた女性なのだ。貴婦人なんて死滅したような時代にあってそう言わしめた女性である。その容姿だけでなく、立ち居振る舞い全てが美しい女性だった。美に五月蠅い歌仙や蜂須賀虎徹をして『存在そのものが美しい』と言わしめた女性なのだ。

 右近が言外に言いたいことが判ったのだろう、万年青は苦笑している。

「まぁ、右近女史の言いたいことも判る。それは白木蓮殿も予想していた。だから、新たな名を提案していたんだ。『更紗木蓮』、これを新たな号にしてほしいとな」

 更紗木蓮は白木蓮と類似性の高い植物の名だ。そう名乗ることで白木蓮と関係のある者だと示すことになるというわけだろう。誰に? 神々に、だ。つまり、この名も月読命の加護があるのだ。

「如何あっても白木蓮殿は主に加護を授けたいということだね」

 右近が断るだろうことも予想したうえで別の名まで用意しているとは、それだけかの女性が未来に渡る右近を心配してくれていたということだろう。

「白木蓮殿は儂が女史よりも先に目覚めるだろうことも予測したうえでこの名を伝えてきた。正確には遺言を残していたんだがな。この名を伝えるか如何かは儂の判断に任されておったんだ。月読命様の加護がなくとも心配ないのであれば、女史にはそのまま馴染んでいる右近を名乗らせればいい。けれど、状況が厳しくなるようであれば、白木蓮もしくは更紗木蓮を名乗らせてほしいとな」

 そして万年青は名を継ぐことを勧めた。それほど、この時代の審神者制度には問題があるということだろう。改革の為に過去から送り込まれた自分たちが神の加護を受けておかねばならないくらいには。

 そのことに気づいた右近は深く息を付くと、真っ直ぐに万年青を見つめた。

「そういう状況なんですね。判りました。流石に白木蓮は畏れ多いので、更紗木蓮を名乗ることにします。万年青さんと白木蓮様のお心遣いに感謝します」

 自分はただの一審神者として行動することになっている。けれど、嘗ての同志たちが懸念していた事態になっているのであれば──万年青がこの提案をした時点でほぼそうなっているのではあろうが──刀剣男士たちを安心させる為にも、加護を受けるに越したことはないだろう。何しろ自分の刀剣男士たちは歌仙を筆頭に過保護が多い。

「ああ、それとな。今は実感が湧かないかもしれんが、色々と変わっておる。だから、もう1つ提案しておく」

 真剣な表情を崩さず、万年青は言葉を継ぐ。

「この時代は刀剣男士と審神者の契約が昔に比べて緩くなっておる。詳しくはまた後日話すがな。だから、お前さんたちの絆を強くしておくに越したことはない。其処でだ、お前さんが自分の刀剣に名をつけろ。まぁ、字と考えればいい」

 万年青の次なる提案に右近は目を見開く。刀剣男士は審神者を主としているとはいえ、その関係は審神者を主、刀剣男士を従とした主従関係ではない。確かに刀剣男士は審神者を主と呼ぶが、それは『主君』というよりも『所有者』という意味合いのほうが大きい。仮にも刀剣男士は付喪神とされているのだ。審神者制度が始まって以降、正確には刀剣男士システムが始まって以降、刀剣の付喪神は神の一柱とされている。その神を人間が従えることなど出来ない。故に当時の政府は『主従関係ではない』と明言していた。

 しかし、『名』を与えるとなると、それはまた異なってくる。古今東西、魔術師や術者が人ならざる物を従える伝承や物語はある。或いは神々が魔を従える伝承もある。それらにおいて共通しているのは、使役する神霊や精霊、妖や魔に名付けるということだ。名を与えることで己の支配下に置く。それが古から伝わる他を従える1つの呪法になっているのだ。それを行なえと万年青は言っているのである。

「それは……歌仙たちを私に縛れと仰っているんですか?」

 右近はこれまでずっと刀剣男士を部下として扱ってきた。それは自分が前線指揮官であり、刀剣男士はその指揮下で戦う戦士だという認識からだ。政府からそうあれと指令を受けていたからだ。公においては部下であり、わたくしにおいては家族であり友人。それが右近のスタンスだった。決して刀剣男士を己の臣下でありしもべだと思ったことはないし、己が彼らの主君であると驕ったこともなかった。

「まぁ、抵抗があるだろうとは思う。が、縛るというのとは違う。人間の儂が言っても説得力がないかもしれんから、実際如何感じておるのか、儂の加州清光から説明させよう」

 万年青も同じ時代を生きた(正確には生まれた時代は100年ほど違うが、審神者として在った時代は同じだ)故に右近の戸惑いは理解出来る。自分も初めは抵抗があったのだ。けれど、それを払拭してくれたのは他ならぬ刀剣男士だった。

「主もだけど、右近も人間の作った伝承や物語を信じすぎ。確かに低級の妖や魔なら名を与えられれば縛られることもあるだろうし、強制的に従えさせるには強力な力を発するよ、名づけってのは。でも、俺たちの場合、前提が違うんだ」

 そう言って加州清光は説明を始めた。

 既に右近とその刀剣男士には深い信頼関係とそれに基づく絆がある。何しろ何時目覚めるか判らぬ冷凍睡眠に入る右近を全振が躊躇わずに待つことを選択したほどだ。仮に右近が冷凍睡眠を選択せず死去していれば刀剣男士たちは本霊に戻ることなく右近の死出の旅路の供をしたのではないかと万年青たちは考えている。それほどの信頼関係が築かれているのであれば、今更縛るの縛られるのなど些細なことでしかない。

 けれど、『名』を与えることが無意味ではない。無意味ならば初めから提案などしていない。右近と刀剣男士だけで見れば、名を与えようが与えまいが関係性に大きな影響はない。けれど、刀剣男士と他の審神者や術者の関係で考えれば、これは大きな違いとなる。

 右近の刀剣男士は本来の刀剣としての名以外に己が認めた主から授けられた名を持つことによって、『刀剣男士の歌仙兼定』から『歌仙兼定を本霊とする右近の刀剣男士〇〇(右近の名付けた字)』となるのだ。一般的な他の刀剣男士とは別の存在となる。例えば政府の術者が全歌仙兼定に何らかの術を発動したとしても、右近の歌仙は『歌仙兼定』の部分ではその影響を受けるだろうが、〇〇の部分は術の影響を受けずに済む。つまり、歌仙たちは名付けられることによって主である右近以外からの不本意な命令や術に縛られることがなくなるのである。

「主、僕は君に名をつけてほしいな。以前話したことがあっただろう? 僕を歌仙兼定たらしめているのは忠興様が僕に『歌仙』の名を与えたからだと。君が僕に名をつけてくれれば、僕は歌仙兼定の中でも特別な君だけの歌仙兼定になれる。それはとても嬉しいことだ」

「そうだぜ、大将。俺も他の薬研藤四郎と違う大将だけの薬研藤四郎だって示す名が欲しい」

 刀剣男士の意思を縛ることなく、魂を縛ることなく、それでも特別だと示すものが右近の与える名なのだと言われれば、右近も断る理由はない。況してやそれを彼ら自身が嬉しいと感じ、望んでくれるのであれば猶更だ。

「歌仙、漢和辞典と古語辞典と古今和歌集と新古今和歌集と……あとは皆の来歴が判る書物が欲しいから準備して。下手な名前つけたら怒るでしょ。歌仙もだけど蜂須賀とか宗三とか絶対文句言うし」

 そう告げることで右近は歌仙たちに名づけを受け入れたことを示す。名前を考えるのは大変そうだ。特に真作に拘りのある蜂須賀虎徹や基本的に斜に構えている宗三左文字は五月蠅いだろう。雅に拘る初期刀も、格好良いことを身上とする初太刀だっている。逆に短刀やへし切長谷部あたりはどんな名でも受け入れそうで別の意味で怖いが。

「雅な名前を付けておくれよ、主」

「俺っちは雅じゃなくていいぜ。大将がつけてくれるんなら、よっぽどじゃない限り文句は言わねぇよ」

 名づけを受け入れた右近と刀剣たちのやり取りに安心したように笑いながら、万年青は言葉をかける。

「因みに刀剣たちにしてみると主からつけられた名前は特別らしいからな。自分と主以外は知らんという奴も多いな。まぁ、兄弟では教えあったりしているようではあるが」

「そーだね。俺も主からもらった名前は安定にも教えてないし。あー、でも懐刀の平野は知ってるか。俺も平野のは知ってるし」

 部外者(この場合審神者とその刀剣男士以外)には知られぬほうがいい。力の強い術者であれば直接名付けたわけではなくとも名を知れば何らかの影響を齎すことは不可能ではないからだ。けれど、仲間内であれば問題はない。主が自分にどんな思いで名をつけてくれたかを知れば自慢したくなることもある。

「51振分考えるの大変ですよね。まぁ、楽しみでもありますけど」

 20年近くを共に過ごしてきた大切な家族に今更別の名前を与えるというのも不思議な気がするが、それでも彼らが喜ぶのであれば、名前を考える苦労も苦労ではない。

「さて、そろそろ儂らもお暇するか。明日からは検査だろう? 退院したらお前さんの仮住まいを訪ねることにしよう。この時代のことも話しておかねばならんしな」

 そう言って万年青は立ち上がる。

「事前知識が必要な状態、ってことなんですね。その時はよろしくお願いします」

 ただ審神者として生きればいいのであれば、態々万年青が事前情報を与えようとする筈がない。恐らくこの時代の審神者や刀剣男士、この制度は自分たちが戦っていた時代とは大きく異なってしまっているのだろう。気を引き締めなければならない。

「何、基本的にやることは変わらんさ。取り敢えず今日のところは100年ぶりの再会で喜んでおる其処の2振を存分に甘えさせてやれ」

 何処か楽し気に笑い、万年青は部屋を出ていく。

「だって。甘える? 歌仙、薬研?」

 万年青の言葉に笑い、右近は残された自分の刀剣2振を見遣る。歌仙は何処か憮然とした表情をしているが、薬研は楽し気に笑っている。

「じゃあ、遠慮なく抱き着くぜ、たーいしょ!」

 弟たちがいる前では決して見せない表情で飛び込んでくる薬研を右近は両手を広げて抱き留める。この懐刀は昔から自分と歌仙しかいない所では結構な甘えん坊になっていた。それは眠っていた間も変わってはいなかったようだ。

「全く、雅じゃないね。さて、じゃあ、僕はお茶でも入れよう。それからゆっくりと主と薬研との時間を満喫しよう」

 100年前と変わらぬ主と懐刀を見、歌仙は莞爾として笑った。