王太子ウルリコはこの婚約が不満だった。幼いころに読んだ絵本のように、物語のように、己が見染めた姫と結婚したかったのに、勝手に両親に婚約者を決められていた。今日はその婚約者との顔合わせだ。
婚約者は王国きっての大貴族カルファーニャ公爵家の令嬢だという。どうせ高位貴族令嬢にありがちな我が儘娘だろう。大貴族の権力ごり押しで自分の婚約者に収まったに違いない。ここでウルリコは失念している。
ウルリコは幼馴染で従妹のバンキエーリ侯爵令嬢アッスンタと結婚したかった。アッスンタとともにそのつもりでいた。物語のように自分が見染めた姫はアッスンタだと思っている。だが、母である王妃はアッスンタの伯母だ。アッスンタがウルリコと結婚すれば二代続けてバンキエーリ家出身王妃となる。それは権力の偏りを招き良いことではない。だから、アッスンタは初めから婚約者候補には入っていなかった。それを聞かされていたはずだが、ウルリコは完全に聞き流していた。
不機嫌さを隠しもせず、ブスっとした表情でウルリコは目の前のカルファーニャ公爵令嬢エウフェミアを見る。見た目は悪くない。柔らかな金の髪は艶やかで、大きくちょっと垂れ気味な目は愛嬌がある。その瞳はカルファーニャ家の象徴でもある晴れ渡った春の空の色をしている。ウルリコよりも三つ年下の七歳だが、落ち着いた所作は流石は公爵令嬢といえるだろう。既に高位貴族令嬢らしく、アルカイックスマイルを身に付けてけているようだ。それも気に食わない。アッスンタは天真爛漫でくるくると変わる表情が愛くるしいのに。
ウルリコは不満ばかりで心の中で文句ばかりを付ける。が、そんなウルリコは己の思い上がりをつきつけられることになった。
「私との婚約がご不満そうですわね」
幼い子供らしい高めの声でエウフェミアはウルリコに尋ねた。自分がずっと睨みつけていたのだからそう思われるのも当然なのに、ウルリコは己の不満を見抜かれたことに驚いた。
「あっ、当たり前だろう! 俺は自分で婚約者を選びたかったのに、お前と違って親に決められたんだ。不満に思って当然だろう!!」
貴様は自分で強請って俺の婚約者になったのだろうから満足だろうがな! 心の中でそう毒づきながらウルリコは言う。だが、返ってきた返答は予想していなかったものだった。
「わたくしだって、望んで殿下の婚約者になったわけではありませんわ。どうして殿下だけが不本意な婚約だと思いますの? わたくしだって断れるものなら断りたかったですわよ」
フンっと鼻息荒くエウフェミアは告げる。その内容にウルリコは愕然とした。だって、アッスンタが言っていたのに。アッスンタが婚約者になれなかったのはエウフェミアがカルファーニャ家の力を使って王家に頼み込んだからだと。
「殿下と年の近い貴族の子息は多いですけれど、何故か令嬢は少ないのですよね。十二歳から五歳の殿下の妃になれそうな令嬢は十人もおりませんわ。その分、令息は多いのですけれど。ここまで男女の比率がおかしいのは何故なのでしょうね」
エウフェミアはコテンと首を傾げる。男女の産み分けなど天の差配でしかないこの王国では、余りの女児の少なさに天が何らかの警告を発しているのではないかと密かに噂されたほどだ。本来ならば男児誕生は家を存続させるうえで大事なので喜ばれることだが、余りの女児の生まれなさに王国の王侯貴族は頭を抱えた。
それでもウルリコの一年後にはドニゼッティ公爵家に令嬢が生まれ、彼女が実質的にウルリコの婚約者となっていた。王族は十歳で婚約者を決めるのが慣例になっていたため、ウルリコの婚約者は内定はしているものの確定はしていない状態だった。だから、ウルリコはアッスンタを婚約者にしたいなどと思っていられたのだ。
エウフェミアもまさか今更自分が婚約者になるとは思っていなかった。年の離れた二人の兄と二人の姉がいる末っ子三女のエウフェミアは好きな相手と結婚していいと言われていた。勿論、貴族という条件はあるが。対立する派閥もない穏健派のカルファーニャ家ならば、何処の派閥の子息であっても問題はないからと。なのにここにきていきなりの王太子の婚約者である。エウフェミアは実は泣いて嫌がった。両親も兄姉もエウフェミアの婚約を何度も辞退してくれた。しかし、婚約者候補となれる令嬢の中で一番身分が高いのはエウフェミアだ。ドニゼッティ公爵家は昨年醜聞を起こし、次期王妃の実家となるには問題ありとなってしまったのだ。
カルファーニャ家が断れば次の候補はバンキエーリ侯爵家で、二代続けての同じ家からの王妃は権力の偏り的にも血の近さからも忌避されるものだった。
「うるさいっ! 俺はお前なんかと結婚しないからな! なんで俺ばかりが嫌な結婚をしなければならないんだ!」
ウルリコは唯一の王妃所生の王子だ。側室の生んだ王子は複数いるが、基本的に問題を起こさなければ王妃の息子が王位に就く。更に権力欲の強い王妃の実家は絶対にウルリコ以外の王太子を認める気がない。そのせいか、ウルリコは自分が唯一の王位継承者で王太子の地位は揺るぎないものだと思い込んでいた。それは傲慢さに繋がっているし、他の王子に比べて怠惰で愚かだった。
「お前は王太子妃になって、王妃になれるから満足だろう! 女なら皆王妃になりたいもんな」
勘違い王子であるウルリコは自分の価値観だけでエウフェミアを責め立てる。それにエウフェミアはカチンときた。公爵令嬢らしい淑女教育を施されているとはいえ、エウフェミアだってまだ七歳の子供だ。エウフェミアだってこの婚約は嫌だ。だが、国のためにと説得されてしぶしぶと受けたのだ。
「何故か殿下ばかりが我慢を強いられて、わたくしは何の苦労もなくただ贅沢をして遊び惚けるような言い様ですわね?」
王妃という地位にそれほどの価値を見出していないエウフェミアにしてみれば、ウルリコの言い分は納得できる要素は皆無だ。
「当たり前だろう! 俺は王太子教育を受けて必死に勉強しなくちゃいけないのに、お前は俺の婚約者というだけで権力を持ち贅沢が許されるんだからな!」
ウルリコの王太子教育がろくに進んでいないことをエウフェミアは知っている。長兄の友人が王太子教育の講師の一人で、兄に愚痴っているのを知っているからだ。側室腹の王子たちのほうが余程教育は進んでいるそうだ。なお、講師は友人の妹が王太子の婚約者になると聞いて、王太子の現状を教えてくれたのだ。教えているうちに愚痴が止まらなくなったらしい。
「わたくし、殿下の婚約者に選ばれてしまったせいで、学ばなければならない内容が三倍以上に増えましたの。殿下の婚約者にならなければ必要のない教育を、殿下が学院に通う五年後までに修めなければならなくなりました。時間が足りないとかで、日の出から深夜まで勉強漬けになりますのよ」
王宮から知らされた王太子妃教育のカリキュラムには家族皆が目を見開いた。現状色々と足りないウルリコを補佐するために、ウルリコが苦手な分野、やりたがらない分野をエウフェミアが
カルファーニャ公爵家の面々は末っ子のエウフェミアを溺愛している。そのため、外に嫁に出す気は本当は皆無といっていい。将来的には今仲の良い公爵家騎士団長子息(子爵家の次男)と結婚させ、公爵家の持つ子爵位を与えて公爵家敷地内に別邸を立てて住まわせるつもりでいるのだ。公爵令嬢として恥ずかしくない淑女教育は施しているが、その他はのびのびと過ごさせている。ウルリコの尻拭い要員としての王太子妃など受け入れられるものではない。カルファーニャ家はなんとしてもエウフェミアのこの婚約を白紙に戻すつもりだった。
「殿下はわたくしと婚約したからといって勉強内容が増えるわけではありませんわよね? 元々王太子なのですもの。婚約者が誰であれ、殿下の勉強量は変わりませんわ。でも、わたくしは殿下が婚約者にならなければやらなくていい勉強を今の三倍、しなくてはなりませんのよ。何方が苦労しなくてはならないのでしょうね」
しっかりと言い聞かせるような強い口調でエウフェミアはウルリコに告げた。お前との婚約なんざ望んじゃいねぇんだよ、てめぇのせいで苦労しなくちゃいけねぇんだよと内心では下町の破落戸のような言葉で吐き捨てた。因みに下町の破落戸たちとは幼馴染の騎士団長子息とこっそり出かけて知り合った。乱暴者で口は悪いが根はいい人たちだった。なお、探しに来た騎士たちに捕まり帰宅したエウフェミアたちは両親と兄姉、騎士団長や教育係たちにみっちりと叱られた。
「殿下だけが不本意な婚約だと思わないでくださいませ。わたくしにとっても大いに不本意でわたくしにだけ負担の多い婚約なのです。今からでも白紙にしていただきたいほどですわ」
不敬だろうが知ったことではない。今きっちりと釘を刺しておかなければ将来苦労するのは自分なのだから。苦労だけならまだマシだ。このままでは蔑ろにされ馬鹿にされる未来しか見えない。だったら、子供だからと許される年齢のうちにしっかりと言いたいことを言っておいたエウフェミアだった。
その後、ウルリコはエウフェミアの無礼を母である王妃に訴えた。王妃は当然、国王にエウフェミアの不敬を訴えた。しかし、国王は逆に二人を叱った。王妃から告げられる前に茶会の席に侍っていた侍女やメイド、従僕や護衛騎士から報告が上がっていたのだ。そして、エウフェミアが言ったのはウルリコの現状では言われても仕方のないことだった。ゆえに国王は先に公爵令嬢を侮辱したのはウルリコであり、反撃されても仕方のない言動だったと認めた。エウフェミアは七歳で正式なお茶会デビューもまだの子供であることから、無礼と不敬は不問ということになった。
そして、ウルリコは王太子教育の進捗が芳しくないとのことで十五歳までに必要なカリキュラムを一定以上の成果を以て修めない限りは立太子を取り消すということになった。同年齢の第二王子にも同じく王太子教育が為され、ウルリコが廃太子された場合には彼が改めて立太子することになる。
勿論、エウフェミアとの婚約は白紙撤回された。余りにも相性がよくないというのがその理由だ。幸い婚約したとはいえ正式な公表はしていない状態だったため、混乱は特に起きず、醜聞にもならなかった。
それから十数年後、エウフェミアはカルファーニャ公爵家からカルジーニ子爵位を与えられ、幼馴染の騎士と結婚した。その時の王太子は第二王子であり、かつての王太子ウルリコはバンキエーリ侯爵令嬢アッスンタと婚姻し、王領の中でもど田舎の小さな領地を与えられ伯爵となったのだった。