目の前でモハッレジュ男爵家の庶子であるラーケサが何やら喚いている。言っている言葉の言語学的な意味は解るが、その主張を何故するのかがファラーシャには全く理解できなかった。
(これが高位貴族と庶民の認識格差、というものかしら)
頬に片手を当て、首を傾げる。そんなファラーシャにカティーブは苦笑しているが立ち位置がおかしい。カティーブはフルサーン侯爵家の嫡男でタフリール公爵家の次女であるファラーシャの婚約者だ。ならば自分の隣にいるべきなのだが、カティーブはラーケサの一歩斜め後ろにいて困ったように、或いは呆れたように苦笑している。
ずっとファラーシャに喰ってかかっているラーケサは平民にありがちな学院の『平等』を履き違えているようだ。確かに学院は『平等・公平・公正』を謳っている。しかし、その言葉には『学びを得ることに関しては』という但し書きがつく。学院は社会に出る前の修練の場でもある。つまり、貴族として社会に出て社交したり仕事をする上で己の立場を弁え、何をしてよくて何をしてはいけないかを学ぶ場でもあるのだ。要は身分制度はがっつりときっちりとしっかりと存在するのである。
(確か、ラーケサ嬢はまだ正式に男爵家の籍には入っていないはず。これは卒業を待たずに市井に戻されることになりそうですわね)
ラーケサは己をモハッレジュ男爵令嬢だと自称しているが、それは間違いだ。現段階ではモハッレジュ男爵家当主の庶子というだけである。貴族籍には入っていない。学院卒業時の状態を見て、正式に男爵家の籍に入るかどうかが決められるのだ。
このカヌーン魔導王国において、王侯貴族の籍に関してはかなり厳格に定められた法律が存在する。それが王家典範と貴族籍法である。過去に様々な醜聞やら国家存亡に係る出来事があったため、カヌーン魔導王国は厳格な法治国家となっているのだ。
その貴族の法によって、庶子は学院卒業までに貴族たるに相応しい教養と人格を持っているかを審査され、それで漸く正式な貴族の子と認められる。現在のラーケサは一応貴族に連なる者ではあるが厳密にはまだ貴族ではない。
尚、貴族として生まれた者は審査されずにそのまま貴族であり、庶子の貴族審査の厳しさと比して王国議会や国政執行官たちの間でどうにかしないといけないのではと時折話題に上る。尤も、貴族に関しては『王国特殊法』の存在もあり、貴族足りえぬ者は自然と淘汰されるので、現状は特別な措置は取られていない。
ともかく、公爵家の娘であるファラーシャに無礼を働くラーケサはほぼ十割の確率で貴族となることはないだろう。ラーケサの教育が足りないのは現在ファラーシャに突っかかっていることもそうだが、己を『モハッレジュ男爵
尤も、そんな貴族としての常識も人としての常識も欠けているラーケサだからこそ、こうしてファラーシャに直談判できるのだ。『カティーブとの婚約をさっさと解消して、カティーブを解放して』と。
「まず、お尋ねしますわ。貴女はどなた? 許しも得ずにわたくしに話しかけてくるということは、公爵位以上の家の方ですわよね? 王家にも大公家にも同年代のご令嬢はいなかったはずですけれど」
ファラーシャは間接的に無礼を咎める。タフリール公爵家よりも上位ともなれば、王家と王弟の大公家しかない。同格の公爵家が五家。そのどこにもファラーシャと同年代の娘はいない。王家の子と世代が違うため、この世代は少ないのだ。
「なっ! 失礼な人ね! あたしはモハッレジュ男爵令嬢のラーケサよ! 知らないはずないでしょ。あんたの愛しい婚約者のカティーブが溺愛熱愛しているんだから」
学院の平等を理解していないのか、そもそも身分制度の厳しさを理解していないのか、ラーケサの言動はあり得ないものだ。周囲に人がいないのは幸いだ。いや、いないからこそこうして会話することを許しているのだが。
今、ファラーシャたちがいるのは魔導学院のサロンの一室である。サロンは王家と公爵家にそれぞれ割り当てられており、タフリール公爵家のサロンで婚約者と昼食をとる予定だったのだ。そのため、この部屋にいるのは部屋の主であるファラーシャ、その婚約者のカティーブ、給仕をするためのファラーシャとカティーブの侍女と従僕、そして何故かカティーブとともに乱入してきたラーケサだ。
「わたくし、貴女に入室の許可どころか、発言も、頭を上げることすら許してはおりませんのよ。不敬ですわ。カーデマ、警備の騎士を呼んでちょうだい」
溜息を一つつくと、ファラーシャは侍女のカーデマに騎士を呼ぶように指示する。訳のわからぬ主張をする狂人はさっさと官憲に突き出すに限る。その後は騎士団なり法務省なり貴族の籍を扱う治部省なりが対応するだろう。
「なんで騎士なんて呼ぶのよ! 大体学院内は平等でしょ。不敬とかそっちのほうが馬鹿なんじゃないの」
プリプリと見た目だけは愛らしい様子でラーケサはファラーシャへ更に噛みつく。尚、この間にカティーブはファラーシャの斜向かいの席にさっさとつき、侍従の入れてくれたお茶を飲んでいる。
「カティーブ、どういうことか説明してくださる?」
「ああ、私から言っても全く理解してくれなくてね。だから、ファラーシャに丸投げしちゃおうと思って」
ファラーシャに問いかけられたカティーブは悪びれもせずあっさりと答える。
「愛人の管理はご自分でなさって。後始末まできちんとしてこその女遊びでしょう」
ファラーシャは呆れも隠さず、溜息をつく。
学院でカティーブが物珍しさからラーケサと距離を縮めていたことは知っていた。そして学生時代限定の戯れの恋をしていることも。そもそもカティーブは事前にファラーシャに学生時代に遊ぶことの許可を取っていたし、途中経過も報告していたのだ。
「ねぇ、カティーブ、どうしてその女の横にいるの? あたしを愛してるんでしょ? その女は政略で無理やり婚約させられただけじゃない! 愛し合ってるあたしたちが婚約して結婚するのが正しいのよ!」
ラーケサには目の前の光景が信じられなかった。ファラーシャとカティーブは政略で決められた婚約だという。本人の意思を無視して無理に結ばれた、カティーブにとって不本意なもののはずだ。そんな偽りの関係は間違ってる。愛し合っているカティーブとラーケサが結ばれることこそが正しいのだ。そして自分は侯爵夫人になり、妾ですらない遊び女の娘と馬鹿にした義母や異母兄弟を見返してやるのだ。
「あら、カティーブ、婚約解消したいの? だとしたら、お父様と侯爵で話し合っていただかないと」
「するつもりは欠片もないよ。私の妻はファラーシャだし、次期侯爵夫人になるのもファラーシャだけだ。大体私たちの婚約がなくなったら、両家派閥の婚約や婚姻関係の組み直しが必要になる。私たちの婚約を解消するメリットは何一つないし、そもそもする必要は全くないよね」
学生時代の女遊びはファラーシャにもその家族にも了承を得ている。飽くまでも『遊び』の範囲内に収めることが前提だが。そのうえでファラーシャとカティーブは将来の夫婦として良好な関係を築いているし、信頼関係も構築している。婚約者としては誠実に対応してきていたのだが、最後にちょっと面倒な女に引っかかってしまった。
そもそもの前提として、カティーブはラーケサを『愛して』はいない。出会った頃は身近にはいない天真爛漫を装った奔放さに惹かれ恋をしたが、暫くするとその恋情も薄れた。恋人になって数か月しか持たない薄情な恋心だった。カティーブは高位貴族の後継者らしくある種の冷酷さを持っている。だから、わずか数か月で恋は終わり、何も考えなくていい気楽な遊び相手として付き合っていたに過ぎないのだ。
ラーケサはカティーブの言動にショックを受けていた。学院で出会って、端麗な容姿に惹かれ、侯爵家の跡継ぎだと知って近づいた。晴れて恋人になれて、それからはまるでお姫様のように大事にされた。肉体的接触は精々口づけ程度だが、それも紳士的に大事にしてくれているからだと信じていた。実際には仮にも準貴族といえる女の純潔を奪ってしまえば面倒になるから手を出さなかっただけである。
結婚や婚約を仄めかせば『素敵だね』とは言うものの、それ以上は何も言ってくれなかった。婚約者がいることは知っていたし、貴族らしい政略結婚なのだと思っていた。相手は格上の公爵家できっとごり押しされて断れなかったのだろう。市井にいるときに読んだ恋愛小説はいつもそうだったのだから、きっと間違いない。
だから、ラーケサは自分たちの幸せな未来のために、邪魔者のファラーシャを排除しようと思った。が、冤罪で苛めを捏造しようとしたが、出来なかった。ありもしない苛めをカティーブに告げようとすると何故か声が出なくなる。実は魔導学院に掛けられた冤罪捏造防止魔法が発動した結果なのだが、真面目に勉強していないラーケサはそれに気づかなかった。
だったら直談判するしかないとカティーブに無理やり同行し、ファラーシャに突撃してきたのだ。
「カティーブ、貴方の女性関係の尻拭いはこれで最後にしてくださいませね。もうすぐ卒業して婚姻するのですから」
「勿論。私も貴女も後継を作るのに何ら不具合はないと鑑定結果が出ているからね。婚姻後に愛人を作る必要もないし、貴女と家族としての信頼と愛情を育んでいくことを誓うよ」
魔導王国では過去の様々な不祥事から、婚姻前に不妊検査を男女ともに受けることになっている。これは貴族の後継者限定だが、愛と出産の神ウィラーダによって作られた聖魔道具によって検査が行われるのだ。その結果、婚約関係が見直されることもある。貴族の後継者にとっては家を繋ぐことが最重要であるからだ。
「ねぇ、カティーブ、無視しないで。あたしのこと愛してるんでしょ? あたしのこと好きだ、可愛いっていってくれたじゃない! 愛し合ってるあたしたちが結婚することがいいことなのよ! 愛してない、親が決めた結婚なんて間違ってるわ!」
ラーケサはカティーブに訴える。恋愛関係にある自分たちが結ばれることこそが正しいのだと。親の決めた婚約なんて間違っていると。それは平民の中でも富も権力も持たない者たちの理屈だった。
カーデマの戻ってくる気配を感じつつ、ファラーシャは三度溜息をついた。面倒臭いことこの上もないが、しっかりと貴族の常識を伝える必要がある。理解するとは思えないが、これもまた下位貴族を導かねばならぬ高位貴族の義務だろう。本来ならカティーブが言い聞かせるべきだが、ラーケサはカティーブの言うことは全て上位の公爵家への忖度・遠慮から本心ではないと思い込んでいるらしい。
「ラーケサさん、貴女が仰っているのは平民の理屈ですわ。貴族の婚姻は全て政略です。平民には恋愛は生活の一部かもしれませんけれど、王侯貴族の恋愛は潤いを与える余暇の行いに過ぎません。貴族は家を背負い、領民を守るために婚姻を結ぶのです。感情で婚姻を結ぶのではなく、信頼と利益によって結ぶのです。結婚という意味が王侯貴族と平民では違うのですよ」
王侯貴族とて恋愛しないわけではない。しかし、それが結婚には結びつかない。ごく稀に恋愛によって婚姻する者がいないわけでもないが、必ずそこには貴族としての利益が絡む。不利益にはならないという程度であったとしても。
「それに、仮にカティーブと貴女が結婚するとして。貴女が将来のフルサーン侯爵夫人になることはありません。貴女との結婚を決めた時点でカティーブは廃嫡され平民となります」
これも様々な過去のあれこれから厳密に決められている。王侯貴族の婚姻は身分差・格差に制限がかけられる。王家であれば国内の公爵・侯爵家及び他国の王族でなければ婚姻できないし、貴族は原則上下二爵位以内でなければ婚姻できない。
更に二爵位以上差がある場合、必ず上位爵位の者が下位爵位の家へと婿入り・嫁入りすることになる。大きな爵位差がある場合、下位爵位から嫁いだ(婿入りした)者が多大な苦労をする、もしくは身の程を弁えない行動をするケースが多かったことから定められた決まりだ。能力の高い者が低い者に合わせることは出来るが逆は出来ないため、このような縛りが設けられている。
つまり、カティーブがラーケサとの婚姻を選んだ場合、ラーケサはこのままでは平民になるためカティーブは侯爵家から出て平民となることになる。どうやってもラーケサが侯爵夫人になる未来はないのだ。
ファラーシャが話している間、ラーケサはずっと『嘘よ』『そんな……』『どうして』『いやよ』と譫言のように繰り返していた。魔導学院に入って三年、貴族としての常識を一切理解していなかったらしい。ラーケサのような庶子を対象として貴族の常識や王国特有の法律を学ぶ授業が設けられている。当然ラーケサも受講していたはずだが、授業を受けたからといって理解できるとは限らないのだ。特にラーケサのように自分の知ることこそが全てだと思い込んでいるような、視野の狭いお花畑な頭をしている者には到底理解不能だろう。
愕然として座り込んだラーケサを一瞥し、ファラーシャは既に控えていた騎士に彼女を連れていくよう命じた。ラーケサのような庶子は学びの期間ということで学院在学中の不敬については多少の減刑措置がある。恐らく貴族籍を認めず王都追放になるだろう。男爵家は領地を持たないため行先に苦労はするだろうが、そこは男爵家が何とかしなければならない。男爵家にも保護管理責任者として責任が問われるため、王都から離れた地に就職先なり嫁入り前なりを見つけるだろう。
「本当に面倒臭いことに巻き込みましたわね、カティーブ。誠意を期待しますわ」
「承知しておりますよ、姫君。代々受け継げるような宝飾品がいいかな。貴女から娘、娘から孫へ。そんな品を贈らせていただくよ。そして、婚姻後は誠実な夫になることを貴女の父君と兄君と弟君に誓おう」
貴女の父君とご兄弟は貴女を溺愛しているからね。カティーブはそう笑って告げ、ファラーシャは呆れたように苦笑した。
そして、二人は遅くなった昼食を穏やかに楽しむことにしたのだった。
今回は特殊法案件ではありませんでした(笑)。
舞台となった国では明確に色々と決まってるんですよーと設定したら、それならカヌーン魔導王国にすりゃいいやwと思って、そうなりました。あの国は『過去のあれこれで、王侯貴族に関する法律メッチャ多い』ですからね。
いっそのこと拙作のほとんどは魔導王国及びその属国或いは後継国ってことにしようかしら。