もう無理。もうダメ。
リンセは深く深く溜息をついた。
今日は学院が休みの週末。そして、婚約者ハバリーの家から指示されている彼との二人でのお茶会の日だった。
けれど、たった今、ハバリーの従僕が申し訳なさそうにハバリーが今日は来られないと連絡に来た。可哀想なくらいに何度も何度も頭を下げていた。
それも当然だ。既に予定の時間から二時間も遅れている。そして殴り書きのような約束キャンセルを伝える手紙。
そこには詫びの一言もなく、事実を伝えるのみ。文字だって相手を気遣った丁寧なものではなく、片手間に走り書きしたようなものだ。
それを持ってきた従僕は彼に非はないのに、恐縮しきっているのが逆に申し訳ない。けれど、彼がそうなるのも無理はない。こうして約束を反故にされるのは初めてではないのだから。
婚約して約二ヶ月。二人の仲を良好にするためハバリーとは毎週お茶会をすることになっていた。侯爵夫妻の配慮でリンセが緊張しないリンセの自宅でのお茶会をすることになっていたのだ。
その後関係が進めば、一緒に出掛けたり、侯爵家に招いたりするはずだったが、そこまでの親交はまだない。
それも仕方のないことだ。毎回あちらの都合で土壇場になってキャンセルされているのだから。いつも時間の直前か、酷ければ約束から数時間後にハバリーから今日は行けないと連絡がある。その理由は毎回同じだった。
そのため、七回のお茶会は一度も開かれたことはない。ハバリーが詫びに訪れることもない。従って二人が顔を合わせるのは学院だけだ。そしてそこで言い訳にもならない言い訳を聞かされる。因みに言い訳はするが謝罪はない。
その理由が正当なものだと思っているのはハバリーだけだ。両親も彼がさも当然のように語る理由に呆れかえっている。
これが同格の伯爵家、或いは下位の貴族家であればとっくに婚約解消している。だが、相手は格上の侯爵家。しかも婚約者の姉レオーネは王子妃となっていて王家とも深い縁のある家だ。
こちらからはとても婚約解消を願い出ることなどできない。婚約者に明確な瑕疵、犯罪行為でもなければ、身分を考えて伯爵家からの婚約解消を願うことは難しい。高位貴族であり、婚約者とその理由以外は問題ない家なのだ。
そもそもリンセとハバリーとの婚約は、ハバリーの一目惚れから結ばれたものだった。決してリンセが望んだものではない。
リンセはほのかに恋を抱く相手がいた。なんとなくその想いが一方通行ではないことにも気づいていた。ただ、彼の身分から想いを伝えあうのは中々に困難で、親しい学友として言葉を交わす以上のことは出来ていなかった。
「学院の卒業までには何とか道筋をつけるから、待っていてくれないか」
そう彼から言われた。リンセ個人としては頷きたかったが、そう簡単なことではない。貴族の結婚は家同士のつながりを求めるものが殆どだ。だから当主である父が決めてしまえば、リンセに拒否することは困難だ。
それでもリンセは待ちたいと思った。だから、正直に家の決定次第では待てないかもしれないが、自分は待ちたいと伝えた。彼はそれでもいいと笑ってくれた。
なのに、侯爵家からの婚約申し込みがあった。そして父はそれを二つ返事で受け入れた。父も母も自分がほのかな恋情を寄せる相手がいるとは思ってもいない。彼の身分からそうそう簡単には口に出せなかったのだ。けれど伝えておけば良かったと思った。
リンセは第二王子妃であるレオーネと交流があった。五年制の貴族学院での先輩後輩にあたる。四つ年長のレオーネとは一年間しか学院生活を共には出来なかったが、とても可愛がってもらったのだ。
弟しかいないリンセにとってレオーネは憧れの女性であり『お姉さま』だった。名の通りに凛々しく美しいレオーネは学院全生徒の憧れの存在だった。
レオーネの卒業後もありがたいことに交流は続き、王宮内の
そんな中、姉を訪れたハバリーがリンセを見初めたのだという。直接対面はしていない。影から覗き見たらしい。正直覗き見など気持ち悪いと思ったが、上位貴族に対してそんなことは言えない。
ハバリーは貴族学院の同学年だが、今までにリンセとの交流はない。レオーネの弟が同学年にいることは知っていたが、特に彼を意識したことはなかった。
学院最終学年になっても婚約者が決まらない状況に頭を悩ませていた侯爵夫妻は、ハバリーが望んだ婚約を熱心に進めた。今考えればやたらと押しが強かったし、打診から正式な婚約まで異常な速さで事が進んだ。
あれはこういうことだったのか。
そして、婚約打診があったことを知ったレオーネは
『無理はしなくていい』
『断って構わない』
『両親が文句をいうならわたくしが黙らせる』
と婚約には反対していた。そして、秘められた恋の相手にさっさと行動しないからと憤ってもいた。
だが、リンセの両親は格上の侯爵家からの打診に大層喜んでいたし、リンセとしても侯爵家とのつながりが出来れば、跡を継ぐ弟のためにも領地のためにもなると特に断る理由は思いつかなった。自分の心の部分以外では。
なので、この婚約は結ばれた。
するとレオーネは
『何かあったらすぐにわたくしに相談してちょうだい』
『我慢する必要はなくてよ』
とリンセの手を握って、いやに真剣にそう言った。
あれはこういうことだったのか。
「レオーネ様はこういう事態を想定なさってたってことよね」
リンセはレオーネに面会希望の手紙を書き、返事が来た翌日、青藍宮を訪ねたのだった。
リンセは既に顔馴染みとなっている青藍宮の侍女に案内されて、レオーネの許を訪れた。いつも案内される私的な応接室だ。
待つこと数分、宮の女主人であるレオーネが現れた。いつ見ても凛々しく麗しい女性の姿にリンセは感嘆の溜息をつく。容姿だけなら婚約者と似ているが、その雰囲気や佇まいは全く異なる。
「お待たせしたわね、リンセ」
「お招きありがとうございます、妃殿下」
立ち上がりお辞儀をし、招待の礼を述べる。レオーネはにこりと笑い、着座するよう勧める。給仕係がお茶と菓子をサーブし、部屋を辞すと、そこからは身分差を気にすることなく、友人として接する。それがレオーネが望んだ距離感だ。
「さて、話は愚弟のことね?」
「はい、ハバリー様のことでご相談がございますの」
ずばりとレオーネは切り込んできた。リンセの相談事など現状では弟との婚約のことしかない。
「この二ヶ月、約束していたお茶会は一度も御出でになっておられませんの。毎回今日は行けなくなったと従僕が連絡に参りますわ」
約束の時間前に連絡があればまだいいほうだ。婚約した当初は約束の時間前に連絡があったが、今では約束の時間を過ぎてからの連絡だ。
最近では侍女やメイドもハバリーが来ないことを想定して、時間が経っていてもおいしく食べられる菓子を用意するようになっている。
「……そう。随分な失礼を働いているようね。わたくしからお詫びするわ、リンセ」
ピキリと蟀谷に筋を立て、レオーネは真摯に詫びる。
「いいえ、レオーネ様が謝ることではありませんわ。謝らなければならないのはハバリー様ですもの」
尤もこれまでに一度も謝罪を受けたことはないが。
「どうぜあの愚弟は謝りもしないのでしょう? 仕方ないのだから謝る必要などないと」
どんな理由であれ、約束を果たせないのであれば謝るのが筋だ。たとえ王宮から緊急呼び出しがかかったとしても、親が危篤になったとしても、約束を破った点は一言詫びてしかるべきだろう。
そのうえで謝る必要はないと許すのは約束を反故にされた側、つまりこの場合ならリンセだ。
「お察しの通りですわ」
弟の行動などお見通しのレオーネに苦笑を返す。
「愚弟の言う正当な理由とやらは、どうせセルドでしょう?」
レオーネは妹の名を出す。それにリンセは頷いた。
レオーネの実家アウリャル家には二人の娘と一人の息子がいる。長女レオーネ、長男ハバリー、次女セルドだ。
セルドは病弱でろくに学院にも通えず、運動など以ての外、すぐに眩暈や貧血を起こし体調を崩す。
そんな妹をハバリーは溺愛して何事にも優先する。学院ですら、妹のためにと休みがちだ。そのせいか、成績は低迷しているらしい。
それでもなお、ハバリーはセルド最優先で動く。婚約したばかりでこれから関係を築いていかねばならないリンセよりも優先する。剰え、リンセにもそれを求めるのだ。将来の妹となる哀れなセルドを思いやれと。
学院で楽しく友人たちと会話していれば『俺の可愛いセルドはろくに学院にも通えず、友人とも会えぬのにいい気なものだな』と嫌味を言われる。将来の義妹に合わせて友人関係を切れというのかと唖然とした。
家族と観劇に行けば『か弱いセルドは外出もままならないというのに、お前には慈悲の心はないのか』と責められる。何もセルドに自慢したわけではないのに、何故責められるのかが理解できない。
ならばと、将来の義妹との親交を深めたい、お見舞いさせてほしい、仲良くしたいと言えば喜んでくれた。これで関係が進むかと思ったがそうもいかなかった。
翌日、ハバリーは見舞いに行きたいと言ったリンセに『病弱な妹に気を遣わせるなど、本当に思いやりのない女だな』などと言い出す。昨日は喜んで『セルドを気遣ってくれるのだな、俺はよい婚約者を選んだ』と自画自賛していたのに。
どうやら、妹のセルドが嫌がったらしい。病弱で殆ど学院に行けない自分と華やかな友達も多いリンセでは話も合わないだろうし、きっとまた熱が出てしまうとか何とか。
ハバリー曰く、セルドは繊細で傷つきやすいガラス細工のような少女らしい。愛らしく可憐で健気な天使なのだと言っては、お前も見習えと宣うのだ。会ったこともないのに見習えと言われてもとリンセは複雑な気分になった。
「婚約してまだ二ヶ月ですけれど、正直に申し上げてハバリー様と夫婦としてやっていける気がいたしません。結婚後も妹さんを優先するのは変わらないでしょうし。妹さんが結婚なさって家を出れば変わるのかもしれませんが……今のハバリー様だと妹さんの結婚を認めない気も致します」
正直な気持ちをリンセはレオーネに告げた。下位である伯爵家からの婚約解消の申し出はかなり難しい。侯爵家との縁がなくなることで貴族間の付き合いも変わるだろう。尤もまだ婚約して二ヶ月しか経っていないから、婚約による交流はそれほど広がっていない。
逆にいえば今しか婚約解消の機会はないともいえる。これ以上婚約を継続していては、侯爵家との縁を基とした他家との関係が出来てしまう。そうなると婚約解消による不利益が多くなるのだ。
だから、リンセはこうしてレオーネに相談しに来た。何とか穏便に婚約解消する方法はないだろうかと。
「判りましたわ。元々わたくしはこの婚約に反対でしたもの。婚約解消についてはわたくしに任せなさい。きっちり愚弟と愚妹を締めるから安心なさい」
リンセの話を聞いたレオーネはにっこりと微笑み、そう請け負ったのだった。
レオーネはリンセを可愛がっていた。元々は学院の後輩だった。可憐で愛らしい少女。可憐というのはこういうのをいうのだ。決して愚弟の主張する愚妹のようなモノを指す言葉ではない。
レオーネは、否、レオーネだけでなく両親もリンセには感謝していた。侯爵家の不良債権の片割れであるハバリーと婚約してくれたのだ。
申し訳ないとは思っていた。けれど、リンセならあの愚物を更生させることが出来るのではないかと期待した。しかし、レオーネが思う以上にハバリーは愚かだった。いかな才女のリンセでもどうしようもなかった。
そもそも、他家の少女にその役目を押し付けたことが間違いなのだ。彼女にはそんなことをしなければならない義務はない。彼女にとっては不本意な婚約だったのだ。断り切れなかっただけの婚約だったのだ。
家庭内のゴミは自分たち家族で何とかしなければいけない。リンセを我が家の愚物処理にこれ以上巻き込んではいけない。
リンセとの話の後、レオーネは積極的に動いた。侯爵夫妻の両親とも話し合い、夫であるネムル第二王子にも協力を仰いだ。話を聞きつけた義弟ルプスも協力を申し出てくれた。いや、ルプスは協力以上のことをしていた。レオーネ以上に熱心だった。
それも当然だ。ルプスはリンセの想い人であり、彼もまたリンセを思っていた。側室である母や仲の良い異母兄たちに協力を願い、婚約のための根回しをしているところだったのだ。
けれど中々にそれは難航していた。父王がルプスの婚約者として望んでいたのは隣国の姫。王配ではないが、女大公となる王女に婿入りし両国の絆となることを求められていた。
弟の恋情を知る長兄(王太子)が貸してくれた密偵を使い、隣国の姫のことを調べ、姫もこの婚約を望んでいないことを知った。だからルプスは彼女が望んでいる護衛騎士との結婚に向けた協力をする代わりに、自分と想い人のことにも協力してもらうよう願った。
協力とはいってもまだ正式な申し込みのない状態のこの婚約を渋りに渋って成立させないという消極的なものでしかなかった。それでも王女を溺愛している国王は王女が頷かぬ限りは婚約を成立させようとはしていないことも有って、何とか婚約を成立させない状態を継続することが出来ていた。
王女との婚約は父王が望んでいるもので、隣国としては王女が望むならそうしても良い、程度の認識だった。だから、結論先延ばし作戦は成立した。あまりに早く不成立になれば、父王はすぐに次の婚約に向けて動き出すだろう。
それをさせないために、王女にはギリギリまで拒否の返事をしないでもらっていた。幸いというか、王女の恋は中々に困難で未だに護衛騎士との関係は姫と騎士以上にはなっていないからこそ、引き延ばせた。
そして、リンセの相談から、約半月という速さでリンセとハバリーの婚約は白紙撤回された。理由はハバリーが侯爵家の後継から外れたためだ。
ルプスは早速王女に連絡し、彼の婚約話も消えた。王女もようやく護衛騎士との関係が半歩進んだようだった。
更に一月後には無事ルプスとリンセの婚約が成立した。側室である母、自分を可愛がってくれる二人の異母兄とその妻たち、更には生さぬ仲であるはずなのにもう一人の母として愛してくれた王妃の協力もあり、国王に反対されることはなく、無事に認められたのだ。
「私は子爵家出身の側室の子ですからね。伯爵位をいただいて臣籍降下するので、ちょうどいいですよ」
義弟はニコニコと嬉しそうに婚約者と挨拶に来た。様々な画策をしたことなどおくびにも出さず、ルプスはいけしゃあしゃあと宣った。
リンセも一月半前とは打って変わった屈託のない愛らしい笑顔を浮かべて彼と寄り添っていた。面倒なハバリーから解放されて相思相愛のルプスと添えることが嬉しそうだった。
その姿を見てレオーネもまた嬉しそうにほほ笑みを返した。
「さて、お仕置きの時間ですわよ」
義弟と将来の義妹が退出した扉を見つめながらレオーネは不敵な笑顔を浮かべたのだった。
レオーネとリンセの話し合いから約一ヶ月後、ハバリーは姉に呼び出され青藍宮を訪れていた。そこには学院にも行けないほど病弱なはずのセルドもいる。セルドは美貌の第二王子や第三王子に会えるかもしれないと期待を隠しもしない様子でキョロキョロと落ち着きなく居館のちらこちらを見回していた。
なお、訪れたのは弟妹だけではなく両親もいる。侯爵邸で話し合いをしたいところだが、王子妃であるレオーネは簡単に王宮から出ることは出来ない。なので家族が訪ねてきたのだ。
ハバリーは姉の私的な応接室へと家族と共に通された。ハバリーの隣にはセルドが座り、正面には姉。その左右には両親がいる。
そして口を開いたのは一家の当主であるはずの父ではなく、王子妃となった姉だった。
「一月の後、父上は侯爵位を退き領地にて隠棲なさいます。ゆえにカデナ男爵家への婿入り、セルドはハウラ修道院行きが決まりました」
姉の言葉に弟妹は目を見開いた。そんな話は今まで欠片も聞いたことがない。大体父が引退するのであれば、自分が侯爵位を継ぐはずではないか。ハバリーは姉の気が狂ったのかと訝しんだ。
「侯爵家は我が夫が臣籍降下し当主となります。正確にはアウリャル家をわたくしが継ぎ、爵位を夫が継ぐという変則的な処置ですわね。次代はわたくしたちの子が継ぎアウリャル家の血を引く侯爵となりますから問題ないとの陛下のご判断です」
さらに続いた姉の言葉にハバリーはハクハクと息を吐く。言葉が出てこない。何故そんなことになるのだ。
「全てはお前とセルド、そして父上の愚かさが招いたことですよ」
姉レオーネの言葉がハバリーには信じられなかった。何故侯爵家嫡男の自分が男爵家に婿入りし、愛しい妹が修道院に入らねばならないのか。そして、健康上の問題があるわけでもない父上が隠居しなくてはならないのか。
これは王家が侯爵家を乗っ取るための陰謀ではないか。きっと豊かな侯爵領を手に入れるための……などと都合のいいように考えたハバリーだが、それは次の姉の言葉で砕け散った。
「夫たる第二王子殿下は姻戚の愚行を諫められなかった咎により、当初予定されていた王領を拝領しての公爵位による臣籍降下ではなく、格下で領政が破綻しかけている侯爵家に下ることとなりました」
そして、その原因となった侯爵家の三人には隠居・廃嫡・出家という措置が取られたのだ。侯爵夫人は領政を立て直そうと奮闘していたことから直接の処罰はない。夫と共に隠居するだけだ。長姉であるレオーネは夫と同じく実家を諫められなかったことにより王族を離れるという罰を受けることになる。
「本当にお前は馬鹿ね」
「姉上?」
姉に蔑んだ目を向けられてハバリーは首を傾げる。何故自分がそんな目を向けられなければならないのかと。
「お前の愚行が父上を隠居させ、お前を廃嫡させたのですよ。それが判らないのですか」
思ってもみなかったことを言われ、ハバリーは呆然とする。愚行? そんなことをしたことはない。常に由緒正しき侯爵家の後継者として堂々とした振舞いをしてきた自負があるのだ。
「お前とセルドの学院や社交界での評判は最悪ですよ。無能で無作法な妹とそれを容認し溺愛する愚かな兄」
学院での弟妹の愚かな言動は令息令嬢を通じて各家に知られ、社交界でも噂される。そのせいで父の家庭人としての無能さも浮き彫りになった。幸い母とレオーネはそれまでの社交の成果もあり、愚かな三人の尻拭いに奔走する賢夫人と認識されていたが。
父と愚弟の行動の原因は全て妹であるセルドに起因する。セルドの自己愛しかない事実無根の、或いは事実を曲解した、または事実からかけ離れた苛め被害を真に受け、ハバリーは周囲を攻撃しまくっていたのだ。
その被害者の一人がハバリーの婚約者だったリンセだが、彼女の被害は比較的軽いものだ。中には学院を退学し領地に引き籠ることになった者、社交界から弾き出された者、精神に失調を来たし療養生活を送る者もいるのだ。
父は嫡男と末娘に甘く、それが彼らの愚行を助長していた。だが、ようやく見切りをつけ侯爵家を立て直そうとし始めたところで今回の件となった。ゆえに長姉の案を受け入れ計画に協力したのだ。自分が隠居することで領民を守れるのであれば喜んで隠居しようと。尤も楽隠居ではなく、領地で領主代行として馬車馬のように働くことになるが、それもまた嬉しそうだった。
また、子供たちの被害者へも自ら詫びて回り迷惑料或いは慰謝料を支払った。金で済む問題ではないがと真摯に謝罪する侯爵に被害者たちも
全てが自分たちの愚行によるものだと言われたハバリーとセルドは納得できないような表情で姉を睨む。それにレオーネは溜息を洩らした。
「どこが病弱な妹ですか。妹を婚約者より優先する馬鹿がどこにいます。ああ、ここにいましたね」
なので、何が愚行に繋がっていたのかを示してやることにした。全てはセルドを『病弱で可憐な可哀想な妹天使』とハバリーが扱い、彼女をつけ上がらせたことが原因なのだ。
「姉上! 酷いではありませんか。妹はこんなにも可憐で今にも倒れてしまいそうなほどか弱いのに」
「今にも倒れそうなのはわたくしが怖いからでしょうね。妹の嘘はわたくしにも母上にも通用しませんから」
同じ女同士、そこは見る目がシビアだ。厳しく己を律しているレオーネや母リェフに比べれば、セルドは自分に甘すぎるくらいに甘い、お花畑悲劇のヒロイン思考の愚者でしかない。だから、セルドにとって自分の涙が通じない母と姉は忌避する疎ましい存在だった。
「病弱でか弱い妹? そのむちむちとお肉たっぷりの腕とお腹をみてもそういえますか? 生まれてから風邪一つ引いたことがないではありませんか」
そう、病弱でか弱いはずのセルドはむちむちと肥え太った横にだけ巨漢だ。身長は小さいのでハバリーはそこだけを取って『小さくて可憐』と思い込んでいるようだ。
因みにあまりにハバリーとセルド、ついでに甘かったころの父が『セルドは病弱』と主張するため、レオーネは王宮筆頭侍医に願ってセルドの診察をしてもらったことがある。
その結果、セルドの病名は『仮病』。肉体的には健康体だった。通常ここまでの肥満体であれば心臓などの内臓や血液などに何らかの異常が出るものであるが、それもなかった。但し、精神構造には問題があり、虚言癖があるとも診断された。
その診断結果はハバリーとセルドには知らされなかった。セルドの主張する病は『
「風邪と病は違います」
あまりに病弱で常に体調が思わしくないから、風邪をひく暇もないのだとハバリーは主張する。が、それもレオーネに過去の事実と共に一刀両断された。
「違いません。幼いころわたくしとお前と父上母上が流行り病で寝込み生死の境を彷徨う事態になったことがありましたね。ですが、セルドだけはピンピンして走り回っていたではありませんか。わたくしとお前の快癒が遅れたのはセルドが病床に突撃しては遊べとせがんで、わたくしたちが十分に療養できなかったからでしょう。結局、妹がいてはいつまでも治らないと無理やり領地の叔父様のところに預けたのを忘れたの?」
「……そういえば……」
姉の言葉に過去を思い出し、ようやくハバリーの中に可憐で愛おしいセルドへの疑念が浮かび上がった。
姉によりセルドへの疑念が沸いたハバリーだったが、それはあっさりと霧散した。
「お兄様……お姉さまが怖いわ。やっぱりあたくしのことお嫌いなのね」
セルドがハバリーの袖を引き上目遣いでハバリーに縋ったのだ。それによってハバリーはまたしてもセルドの騎士へと逆戻りしてしまった。その二人を残りの三人は冷たい目で見ていた。
「病弱病弱といいますけれどね、セルドは自分が楽しみにしている行事のときに体調を崩したことは一度もありませんよ」
レオーネは冷めた声で事実をお花畑の弟妹に突きつける。
病弱を言い訳にするセルドだが、王都での観劇やお祭りなどの楽しみの際に体調を崩したことは一度もなかった。元気すぎるほどに元気で当日の装いをあれこれ考えて商人を呼びつけようとしたりしていた。無駄遣いを諫める母に対して兄に『お母様に苛められた』などと泣きつくことはあったが、それだけだった。
なのに、セルドに都合が良くないことがあればすぐに体調を崩すのだ。
「セルドの具合が悪くなるのは決まって学院の課題の締め切り日。或いはお前がリンセの許へ出かけるとき。急に具合が悪くなって、学院を欠席することが決まるとモリモリお菓子を食べぐーすか寝てますわよね。お前がデートを取りやめれば、分厚い血の滴るステーキを三人前ぺろりと平らげてますわよね。何処が病弱でか弱いんですか」
明らかに仮病と判るそれらの行動にハバリーだけが気づかない。あまりのハバリーの様子にセルドが魅了や洗脳系の精神作用を持つ魔法かスキルを持つ可能性も考えられた。そのため、王立魔法研究所の筆頭魔導士に調べてもらったが、結果はセルドは魔法適性も魔力もスキルも何も持っていないというものだった。
つまり、ハバリーは拙い子供の媚びに惑わされ、正常な判断能力もなく、思い込みが激しく、自信過剰で己の正義に酔っぱらっているだけだった。
それを知った両親は頭を抱えた。三人の子供のうち、真面なのは長女一人。三分の二が問題児なのであれば、自分たちは子育てを完全に間違い、親となる適性がなかったのだ。今回の隠居には両親のそんな反省も影響している。ついでに両親は孫には過度に接しないとも宣言した。
「ですが、セルドは動くのも大変なほど体が弱いのは事実……」
「弱いのはありません。重すぎるのです。お前の三倍の体重ですからね」
ある意味事実を基にしたハバリーの反論をまたもやレオーネは途中で遮った。
そう、確かにセルドは運動が出来ない。少し動けば眩暈や立ち眩みを起こす。けれどそれも無理はない。平均的な貴族の同年代の女性の四倍ほどセルドは皮下脂肪と内臓脂肪を貯め込み、丸々どころかぶよぶよと太っているのだ。それでは動くのがままならないのも当然だ。医者から健康体と太鼓判を押されているのはある意味奇跡だ。
「セルドに友人がいないのは自業自得です。自分の思い通りにならなければ周囲に当たり散らしていますからね。学院のクラスでは皆に避けられているようですけれど、それも当然ね」
更にレオーネは学院でのセルドに触れる。ハバリーにとっては可憐で健気で優しい妹だが、周囲の評価は違うのだと知らしめる。
学院でのセルドは孤立している。けれどそれも無理はない。貴族令嬢にはあるまじき下品な言動をし、有り得ない締まりのない体をしている。
セルドの他にも体質的なものや様々な要因でふくよかな学生もいる。けれど彼ら彼女らはそんな中でも他人に不快感を与えないように気を配っている。そんな気遣いがセルドには一切ない。だから、肥え太った体型もセルドに関しては蔑まれる一因となっている。
おまけに高位貴族であることを笠に着てわがまま放題だ。同学年には第三王子もいるし、大公の令嬢も、公爵家の令息令嬢もいる。つまりセルドよりも高位の子息子女だ。けれど彼らは正しく王侯貴族というものを理解し、その務めを果たしている。地位や権力を己の欲のために使うことはない。だから、それをしてしまうセルドとハバリーは悪目立ちもする。
「何かあればお兄様に言いつけると叫んでいるそうですよ。お前の妹馬鹿ぶりは有名ですからね。お前まで出てくると面倒だから、皆さま妹を避けておられるのです」
セルドだけでも面倒なのに、そこにハバリーまで出てきては対応しきれなくなる。それこそ第三王子や大公令嬢のお出ましを願うしかない。だが、彼らは王族としての公務もあり多忙だ。そんな彼らにこんな屑たちの対応を依頼するなど申し訳なさすぎる。ゆえに同級生たちはセルドと関わらないことを選んだのだ。幸い出席率の低いセルドなのでそれはさほど難しいことではなかった。
つくづくリンセには面倒を押し付けてしまったと申し訳なくなる。幸い婚約は公表されていなかったから、学院でハバリーの対処をリンセに願う学生はいなかった。
なお、婚約が公表されていなかったのは、婚約までの期間が短く、準備が間に合わなかったからだ。夜会で婚約を公表するための準備もあり、半年後に公表予定だった。
「そんなことはありません! 妹は愛らしく皆に愛されて」
「皆に愛される天使であれば、何故一人も求婚者がいないのでしょうね」
ハバリーの妄言を三度レオーネは切り捨てる。
「酷い! お姉さまはあたくしがお嫌いなのね!」
今まで兄に縋るようにくっついていたセルドがようやく姉に反論する。
「当たり前でしょう。何処にお前を好きになる要素があるというの。自分で何一つ努力せず、他人の成果を羨むばかり。下品で無礼で怠惰で、そんなお前のことを好く者がいると思っているの?」
レオーネの言葉はどこまでも冷たい。これまで散々迷惑を掛けられてきた。何度も何度も説教し、叱り、言い聞かせ、それでもこの妹は全く変わらなかった。いや、更にひどくなっていった。家族だから、妹だからと無条件に愛せるわけではない。かつては確かにあったはずのセルドへの姉としての愛情は既にもう擦り切れて無くなってしまっている。家族の愛とて有限なのだ。
「酷い、お姉様、酷い」
「酷いしか言えないの? 何が酷いの? わたくしがあなたを愛さないこと? あなたを嫌いなこと?」
レオーネの言葉はどこまでも冷たい。この妹は今日を限りに切り捨てる。だからこそ、甘えは捨てさせ現実を見せなければいけない。
「そうよ、姉なのにあたくしを愛さないなんて酷いわ!」
「そう。でも今更ではなくて? あなた散々ハバリーにわたくしに嫌われていると泣きついていたでしょう。わたくしだけではないわね。ハバリーの婚約者だったリンセや大公令嬢や色んな令嬢に嫌われているとハバリーに言っていたでしょう」
セルドは自分を被害者に見せるために自分が目障りに思う者に『嫌われている』と兄に泣きついていた。すると兄はその人物を排除してくれた。
「尤も、リンセや大公令嬢はでたらめもいいところね。彼女たちはあなたのことを何とも思ってないわ」
精々彼女たちはセルドを厄介な相手としてしか認識していない。彼女に感情を動かすほど関心はないのだ。
「そんなあなたの戯言を真に受けて、ハバリーはリンセを責めたわね。大公令嬢は身分が上だから何も言えない。その分を自分より身分が低い相手にぶつけていた。最低ね、ハバリー」
再びレオーネの標的はハバリーに戻る。セルドも酷いが、被害を拡大させたのはハバリーだ。セルドの戯言をハバリーが真に受けなければ、セルドの戯言は戯言で終わったのだ。現実的な被害はそれを真に受けたハバリーによってもたらされているのだから。
「リンセは俺の婚約者だ。だったら、セルドを俺と同じように慈しむのは当然だろう!」
ずっとそう言い続けていた主張のままにハバリーは反論する。リンセの人格を認めていないのだ。いや、ハバリーは自分以外の誰の人格も認めていないのかもしれない。最愛というセルドでさえ、彼の自尊心や虚栄心、加虐性を満足させるための手段でしかなかったのかもしれない。だから、現実のセルドの姿を真面に認識していないのだろう。
「リンセとの婚約は一ヶ月も前に白紙撤回されていますよ。お前と彼女が婚約した事実そのものがなくなっているのです」
一ヶ月前に白紙の手続きが終わったときに父からその話を聞いているはずなのにハバリーはそれを忘れていた。自分が捨てるならともかく自分が捨てられるなど、彼のプライドが許さなかった。だから、その事実を記憶から消したのだ。
「レオーネ、そこまでになさいな。これ以上言っても二人には響きませんよ。あとはそれぞれの場所で現実を知り、後悔し、悔い改めればよいのです」
それまで沈黙を保っていた母リェフがレオーネを止めた。何を言ってもセルドは酷い酷いと言うばかり。ハバリーは現実を認めようとしない。言葉では彼らには何も与えることはできないのだ。結局彼らを責めたのはレオーネのこれまでの鬱憤を少しばかり解消するための自己満足でしかなかった。
それから一ヶ月後、侯爵位は臣籍降下した元第二王子ネムルが継ぎ、アウリャル家はレオーネが継ぐという変則的な継承が行われた。
ハバリーはカデナ男爵家へと婿入りした。
カデナ男爵家には色狂いで有名な現男爵の母がおり、ハバリーは自分の祖母に近い年齢の前男爵夫人へと婿入りしたのだ。男爵はセルドがそのまま年を取ったような母親に苦労しており、その母を宥めるための生贄としてハバリーが与えられたのである。
ハバリーは年を取った分だけ狡猾になった進化系セルドによって翻弄され虐げられることになった。
セルドは戒律の厳しいハウラ修道院へと送られた。
最寄りの村まで馬車で三日という山奥の修道院は完全自給自足で日々の食事も満足に摂れない環境だ。当然これまでのセルドのように怠惰では生きていくことが出来ない。
働かぬセルドは最初の三日で音を上げて脱走を図ったが、重い体は修道院の敷地から抜け出すまでに力尽き、脱走は叶わなかった。
その後の彼らがどうなったのか、リンセは知らない。そもそもリンセは婚約白紙化後の彼らのことは『王都から出された』としか聞いていないし、それ以上のことを知りたいとも思わない。
リンセは元第三皇子ルプスの興した伯爵家で賢夫人として夫を支え家を盛り立てていく。元第二王子妃だったレオーネ侯爵夫人と共に社交界を牽引する存在となり、たった二ヶ月の婚約のことなど思い出すこともなかった。