「聖女様~! お疲れ様ですー!!」
アルセリアが駐屯地内の施療院から出たところで、鍛錬場にいた兵士たちがアルセリアに手を振り声をかけてくる。
「わたくしは聖女ではなく、回復術師ですわよ」
アルセリアはこれで何度目になるか判らない訂正をする。何度も何十度も何百度も何千度も訂正してきたが、一向に聖女の呼び名は消えない。
それでもアルセリアは否定し、訂正し続けている。聖女なんて呼ばれるのは御免である。
アルセリアが聖女と呼ばれるようになったのには切っ掛けがある。
5年前、魔物の大湧出が発生した。これまでにも数年に一度辺境地区では魔物の大規模湧出は起きていたが、5年前のそれは数百年に一度という、途轍もない規模のものだった。
アルセリアは辺境を領地とするバルラガン辺境伯家の一人娘だ。そして、辺境伯家はその土地柄か治癒魔術・回復魔術に優れた者が多い。アルセリアはここ100年ほどの中では随一の魔力量と魔法技術に優れた治癒・回復術師だった。
ゆえに5年前の大湧出に際して前線基地で術師として騎士や兵士たちの治療にあたっていたのだ。
だが、いちいち一人一人に魔術を使っていては到底追いつかない。助かる者も助けられなくなる。そう考えたアルセリアは広範囲指定の回復魔術を使って一度に数十人の怪我を治した。それにより、瀕死の重傷を負っていた者も四肢の何処かが欠損していた者の、完全に回復した。
それから『聖女』などという有難くもない呼ばれ方をするようになった。
(わたくしは効率よく仕事をしたかっただけですのに)
扇の影でこっそりと溜息をつく。
バルラガン辺境伯家が使う回復術は回帰術ともいわれる。怪我をなかった状態に戻す術なのだ。ゆえに症状は違えども一つの術式で対応が出来る。そのため、力業ともいえる広範囲指定の回復魔術が可能なのだ。
一方治癒魔術の場合は、それぞれの原因を取り除き治療する。或いは切られた細胞を修復してつなぎ合わせる。ゆえに症状ごとに対応が必要で、必要とする時間も症状によって異なる。だから、広範囲指定の治癒魔術は使えない。
アルセリアはどちらの魔術もかなり高度な術が使えるため、今現在もこうして治癒・回復術師として働いている。
そう、こうして駐屯地の施療院で術を使うのは『仕事』だ。アルセリアはバルラガン辺境伯軍の治癒・回復術師として登録され、俸給を得て仕事しているのだ。
決して物語に出てくるような、慈愛に溢れ無償で癒す聖女などではない。飽くまでも仕事である。駐屯地の施療院内以外で治癒・回復術を使うことはほぼない。全くないわけではないのは、家族(使用人や家臣含む)や友人には場合によっては使うこともあるからだ。
(聖女なんて面倒なこと、やってられませんわ)
アルセリアはそれでなくとも忙しいのだ。次期辺境伯として父の側で学び、実践研修と称して父の仕事を手伝う。母と共に貴族の女性としての務めのためお茶会や夜会、サロンで社交を行い、情報を収集し或いは発信する。
更に3ヶ月後に迫った結婚の準備もある。
正直なところ、他にも術師はいるのだから、そろそろ退職したいと思っている。大湧出の際の術師不足解消のための臨時雇いだったはずが、いつの間にか週に3日午前または午後のみの短時間勤務となっていた。
まぁ、他の術師と同じように歩合制で俸給を得ているから、家から与えられたわけではない個人のお小遣いが得られるのは有難くもあるのだが。
(これから王都に行かなくてはいけないのね。面倒臭いわ……)
こっそりと溜息を洩らしながら、アルセリアは馬車に乗り込んだ。
そんなアルセリアの姿を兵士たちは憧れを以て見送っている。
「流石は聖女様だよなー。お美しくていらっしゃる」
聖女と美貌は何の因果関係もない。精々民衆が不細工な聖女より有難がるという程度だ。
「あの立ち居振る舞い、優雅だよなぁ。流石は聖女様だ」
立ち居振る舞いが美しいのは血反吐を吐くような厳しい令嬢教育の賜物であって、聖女とは関係ない。
なお、このレイノ王国において辺境伯は伯爵位の上位であり、侯爵と同等の地位・家格とされている。紛れもない高位貴族である。
「それにあの微笑み! 慈愛に溢れてるよなぁ。それだけで癒される気がする」
完全に思い込みによる気のせいである。彼が慈愛に溢れた笑みと言ったそれは貴族令嬢の標準装備であるアルカイックスマイルだ。ようは慈愛に溢れているように見える仮面である。
アルセリアは施療院から帰宅後、専属の執事と侍女とメイドを伴って、王都へと向かった。馬車であれば王都まで7日ほどかかるのだが、転移魔術を使ったので、一瞬で王都の別邸へと到着した。
因みに転移魔術は登録している地点への転移のため、一度も行ったことのない場所への転移は出来ない。専ら王都と領地の行き来のために王都の別邸と領地の本館を転移する程度だ。
「さぁ、お嬢様、ご準備を!」
アルセリアの到着を待ちかねていた別邸の侍女・メイドたちが部屋へ押し寄せ、アルセリアを浴室へと追い立てる。
今夜は王家主催の夜会だ。領地を離れられない──という建前で面倒な社交は次期辺境伯たる娘に押し付けている──父の代わりに出席しなければならない。
全身を磨かれ丁寧にマッサージされ、ドレスを纏い、化粧を施され、夜会に出る前から疲れてしまいそうだ。
そもそもアルセリアはあまり社交は好きではない。出来ることなら領地で馬を駆り、領民と触れ合っている方が好きだ。
尤も好きではないと得意ではないは別物で、両親はアルセリアが成人したのをこれ幸いと王都での社交はアルセリアに任せている。
せめてもの慰めはこのドレスを贈ってくれた婚約者と会えることだろう。
婚約者は父の友人であるデラロサ侯爵の三男グラシアノだ。領地が隣接していることもあり、彼とは幼馴染だった。小さい頃はよく剣で打ち負かして泣かせていた。
そんなグラシアノも今は王宮騎士団で立派な騎士となっている。尤も結婚により辺境伯領へ移るため、今は退職に向けての引継ぎを行っている。
そのため今は忙しいらしく、精々週に一度しか会えない。週に一度でも十分だと言われるかもしれないが、相思相愛の万年蜜月期といわれる二人にはとても寂しいことだった。
そんなグラシアノと共に過ごせることだけが、面倒な夜会の唯一の利点だった。
グラシアノにエスコートされ、アルセリアは知り合いの貴族たちへの挨拶回りをしていた。父の知己である各家当主たち、情報の宝庫であるその夫人たち。そして様々な王都の情報を持つ令嬢令息たち。
彼らとの一通りの交流が終わり、バルコニーで少しグラシアノとまったりとしようかとしていた時にそれは起こった。
「バルラガン辺境伯令嬢アルセリア! 貴様を断罪するッ!!」
聞くに堪えない醜い声がアルセリアを呼んだ。その声と内容を不審に思い、声の主に目をやれば、豪奢な衣装を纏った美青年が自分を指さしていた。その彼の腕には一見可憐に見える少女が抱かれている。少女はこちらを蔑むような卑しい笑みを浮かべていた。
「エリヒオ第二王子、ですわよね?」
「そうだよ。有名な馬鹿王子」
周囲に聞こえない小声でこっそりとグラシアノに尋ねれば、肯定の返事と共に追加情報も与えられた。
辺境伯家の令嬢として夜会などで挨拶をしたことはあるが、個人的な交流はない。一方的な接触は何度もあったが。
有名な馬鹿王子で直接的な被害はなくとも迷惑を掛けられたことしかない相手とはいえ、一応王族だ。アルセリアとグラシアノは臣下として礼を取った。実は歴代の国王から国王以外には膝を折る必要はないとお墨付きを貰っているバルラガン辺境伯家ではあるが、普段は王国の一貴族として臣下の礼を取ることにしている。無用な波風は立てないほうが賢い。
「はっ! 婚約者以外の男を侍らせるとは、流石は自称聖女だな! 卑しい女め!!」
エリヒオ第二王子の発言にアルセリアは内心首を傾げる。グラシアノは紛れもない婚約者であって、婚約者以外の男を侍らせたりなどしていない。
「まぁ、いい。貴様の罪は明白だ! ここにいるイルダこそ本物の聖女! 貴様は聖女を騙った極悪人だ! そんな悪人を婚約者にはしておけぬ! ゆえに貴様を断罪し、婚約破棄する!」
エリヒオ王子は自信満々に言い放った。肥大した自尊心を表すように鼻息荒く傲り高ぶった顔をしている。そんなエリヒオ王子を少女イルダはキラキラとした目で見つめている。
だが、周囲は白け切っている。何を言っているんだ。流石は馬鹿王子と。
当然、それはアルセリアもグラシアノも共通の思いだった。
「恐れながら殿下、発言をお許しいただけましょうか」
「なんだ、言い訳でもするのか? いいだろう、俺様は寛大だからな。聞いてやる」
尊大な態度でエリヒオ王子は許可を出す。それに呆れつつ、アルセリアとグラシアノは顔を上げる。普通の貴族ならば顔をあげる許可も得る必要がある。しかし、そこは歴代国王(当然今代の王も含む)からお墨付きを得ているバルラガン辺境伯家である。次期国王でもない単なる王子の許可は必要ない。本来なら発言の許可を得る必要もないのだ。
「まず、わたくしは聖女を自称したことは一度もございません。神殿より打診はございましたが、お断りしておりますし。わたくしは回復術師でございます。聖女ではございません。そう呼ばれても逐一否定し、回復術師であると訂正をしております」
その言葉に目の前の二人以外はうんうんと肯定の頷きを返す。
辺境伯領の騎士や兵士、領民、王都の騎士や市民、貴族たちから『聖女』と呼ばれるたびにアルセリアは必ず否定し訂正していた。面倒ではあるが、余計な厄介事を招かないための措置だ。
当然、この場に招かれている貴族たちもそれを知っている。アルセリアが聖女を称したことは一度もない。
だから、エリヒオ王子のいう『自称聖女』には当て嵌まらないし、聖女を僭称したなど有り得ない言いがかりだ。
「なっ……そんなはずは……」
エリヒオ王子とイルダは反論しようとするが、それを無視してアルセリアは更に続ける。
「それから、わたくしは殿下の婚約者になったことはございません。わたくしの婚約者は10年前より隣にいるグラシアノただ一人でございます。しつこいほど何度も何度も何度も何度も殿下の御母君ヘシカ側妃様より婚約の打診はございましたが、全て丁重にお断りしております」
アルセリアが聖女と呼ばれるようになった5年前から、エリヒオ王子陣営からの婚約打診が来るようになった。既に婚約者がいると言っても納得せず、しつこいほどに婚約を強要する使者は辺境伯家にやってきた。
「わたくしはバルラガン辺境伯家の唯一の子でございます。次期辺境伯ですので、嫁ぐことはできません。そもそも既に当時婚約者がおりました。そう何度もお断りしたにも係らずご納得いただけず、陛下にご相談申し上げたところ、無視してよいし、しつこいようならば辺境の魔の森にでも飛ばせとお許しをいただきました」
堪忍袋の緒が擦り切れそうになっていた父辺境伯はこれ幸いとやってきた使者を馬車ごと辺境の魔の森へと転移させた。
辺境伯の本気を見た使者は側妃にどう伝えたのか、二度とやってくることはなかった。尤も側妃は諦めたわけではなく、手紙攻勢に切り替えただけだった。その手紙は届くや否や開封されることなく王へと転送された。
側妃は国王にかなりきつく叱責されたようだが、それでも我が子を王位につける野望が消えることはなかった。息子に辺境伯令嬢の聖女が妻となると言い聞かせて、自分の取り巻きや息子の側近たちにそう吹聴していたらしい。
そう、『聖女』という伝説ともいうべき存在を妻に据えることで第二王子で側妃の子であるエリヒオ王子を王位につけようとしていたのだ。
アルセリアやバルラガン辺境伯家がしつこいほどに聖女と呼ばれることを否定し、回復術師だと訂正していたのはこれがあるからだった。聖女という存在は政争に巻き込まれやすいのだ。魔族領と接し、魔物の発生の多い辺境伯領では王都の政争に拘っている暇はないのだ。
「なっ……なっ……」
己の発言を全否定されたエリヒオ第二王子は言葉が出ないようだった。隣の自称なのか他称なのかは不明の聖女イルダも呆然としている。彼らの中でどんなストーリーの許に自分を断罪しようとしたかは不明だが、他に賛同者がいないところを見ると、取り敢えずこの場はこれで終わって後は父と国王に丸投げでよいだろう。
「申し上げたいことはそれだけですわ。今後につきましては父バルラガン辺境伯を通して国王陛下にご報告ご相談申し上げますので、今後一切、関わることはございませんでしょう」
アルセリアは優雅に淑女の礼を取ると、グラシアノにエスコートされ、夜会を後にした。
アルセリアとグラシアノが退場した後、エリヒオ王子とイルダは国王の侍従に連れられて会場を出ていき、第一王子が取り仕切って夜会は続けられた。
王城を出た後、アルセリアは一旦王都別邸へ戻り、専属の執事と侍女とメイド、グラシアノと共に領地の本邸へと戻った。グラシアノも本日付けで王宮騎士団を辞しており、元々アルセリアと共に領地へ戻る予定だったのだ。
その後、両親に夜会での出来事を報告したアルセリアは後のことは両親に任せ、日常へと戻った。
一方、後処理を娘に丸投げされた両親は、即座に王都へと転移し、翌日には国王と非公式に会談を持った。その結果、エリヒオ第二王子と側妃はバルラガン辺境伯家とアルセリアに冤罪と名誉棄損の慰謝料を支払うことになった。
また、エリヒオ王子が聖女と称したイルダについては神殿で検査及び審査が行われ、治癒魔術の素養はあるものの聖女ではないと認定された。元々身分の低い恋人(王族の妃にはなれない男爵家の出身だった)と結婚したいがためのエリヒオ王子の虚言に近い思い込みによる聖女主張だったらしい。
国王は『そこまでイルダ嬢を愛しているのならば結婚すればよい』と許しを与え、すぐさまその場で婚姻させた。よく読まずにサインした婚姻承諾書には、エリヒオ王子が王位継承権を放棄して王籍を抜け男爵家の入り婿となる旨が記載されていた。
王城を追い出されたエリヒオ王子とヘシカ側妃、イルダ嬢は『なんでこうなるの』と叫んだらしいが、国王も承認した結婚であり、神殿の神聖な婚姻承諾書にサインした契約が覆ることはなかった。
どうやらイルダ嬢も王族の妃、更には王妃の座を狙っていたようで、この結婚には不満しかなく、夫婦仲はすぐに険悪なものになったらしい。ヘシカ元側妃とエリヒオ元王子は男爵領の小さな家で肩身の狭い思いをしているとの噂だ。
なお、男爵家はイルダの兄が後継者なので、エリヒオ王子が爵位を継ぐことはなく、一地方役人として渋々働いている。が、馬鹿で有名だった王子が渋々とはいえきちんと働いていることは多少は評価できるかもしれない。
夜会から3ヶ月後、アルセリアとグラシアノは無事に領地の神殿で結婚式を挙げた。領民たちに祝福され二人は幸せそうに微笑みあった。
「聖女様! おめでとうございます!!」
「聖女ではありません! 回復術師ですわ!!」
既にお約束となった掛け合いをしながら、アルセリアは領民たちと笑いあうのだった。