アンネリーンの家族には誠心誠意詫びなければと思いながら、フェリクスはアンネリーンと計画を練っていく。
その中でアンネリーンから思いがけない注意を受けた。
「あ、フェル、王家を抜けるのなら、予算の乱用はやめてくださいね。今まで王家の予算をたっぷり使って最高の教育を受けているのに、それを無にするんですから、これ以上の浪費はいけませんわよ」
そうアンネリーンに言われ、それもそうだとフェリクスは納得した。王族である自分の生活費も教育費も全て国税だ。これは自分がやがて国王として国のために働くからこそ許される贅沢でもある。勿論これまでの王族としての公務は行なってきたが、自分にかけられた費用に見合うとは思えない。
いや、自分だけではない。両親も弟もどう見ても贅沢な暮らしに見合うだけの国への奉仕と貢献をしているとは思えない。これもまた、次の望ましい未来のための材料になるだろう。共犯者になってもらう両公爵家にそこを突いてもらうよう頼んでおこう。尤も、自分のような若造に言われるまでもなく、老獪な政治家である両公爵ならば気付いているだろうが。
「え、ドリカへのプレゼントは?」
これも布石に出来ると判断し、フェリクスは惚けて尋ねる。現時点ではまだ彼女に高額な贈り物はしていない。けれど、これも自分を追い込みひいては王家を追い落とす材料になる。
「王太子予算も王太子妃準備金も使えませんわよ。それだと国庫横領になります」
アンネリーンはそう答えながら、フェリクスの狙いに気付く。それをフェリクスの答えが肯定する。
「それをアンネが暴いてよ」
「ああ、それも廃太子のための布石ですか。表向き?」
王太子妃準備金の横領は確実な罪になる。勿論、フェリクスが本当に国庫──国民の血税を私欲のために使うとは思わない。何しろフェリクスには潤沢な個人資産があるのだ。
まだ学院に入学する前、フェリクスは国家運営の一つの勉強として、商会を立ち上げた。これはベイレフェルト公爵の助言によるもので、個人資産を作ることと並行して民の生活、経済活動を学ぶ目的で行なったことだ。そこでは王太子フェリクスの名を出さず、フェイルという貴族の庶子という仮の身分で商会を運営している。
「うん、実際には私の私財で後から補填する」
数年分の王太子妃準備金に相当する額の資産は既にある。だから、このことで国庫に影響を与えることはないだろう。全てが終わったときに国庫から出した分を直ぐに補填することは出来るのだ。
そうして、二人は大まかにこれからの流れを決めた。後は協力者を説得するだけだ。それが難関かもしれないが、国のためを思えば必ず共犯者となってくれるだろう。
決戦は約二年後。二人が学院を卒業するときになるだろう。それまでの間にフェリクスは王族としての評判を落とす。反してアンネリーンは王太子を諌める貴族令嬢として正しい姿を見せ続け、クンラートは王族としての正しい在り方を見せ続ける。約二年をかけて、フェリクスが、アンシンク王家が貴族に見放される素地を作っていくのだ。
王国のため。それはアンネリーンと協力者たちの目的。けれど、その根底にあるのはフェリクスの恋だ。恋のために全てを捨てる覚悟をしたフェリクスを羨ましくも恨めしくも思う。婚約者と過ごしておおよそ十年。信頼はされていても恋されてはいなかったことにアンネリーンは言いようもない寂しさを感じた。
「……ドリカのことを本当に愛していらっしゃるの?」
「馬鹿な娘ほど愛おしいんだよ。恋愛なんてそんなものだろう?」
そうして、二年半後の王立バッカウゼン学院の卒院謝恩会の夜会にて断罪茶番劇が幕を上げた。
準備期間にベイレフェルト公爵家とエトホーフト公爵家は家門の力を結集し、王朝交代の準備を着々と進めた。王城の主な役職は全て息のかかった貴族や官僚で占められ、後は王家の目に見える罪を明らかにするだけだった。
協力を要請したとき、フェリクスはベイレフェルト公爵とラウレンスに殴られたし、公爵夫人には軽蔑の眼差しで慇懃無礼な罵詈雑言を浴びた。大切な娘の恋心を踏みにじられた家族の怒りは大きく、漸くそこでフェリクスは秘められたアンネリーンの想いに気付いた。
けれど、想われたからといって想い返せるものではない。アンネリーンへの罪悪感を抱きながらもフェリクスは己の選んだ道を突き進んだ。どんどんと恋に溺れる愚かな王太子を演じながら。
そう、演じたのだ。いつの間にかドリカへの恋情は薄れていた。ドリカへの想いは若さゆえの一過性の自由への憧れが齎したものだと気付いた。恋は馨しく甘美なものだが、信頼のない想いは未来へと繋がるものではなかった。
最終学年になるころにはフェリクスのドリカへの恋は終わっていた。それでも自分が近づいたがゆえに醜聞に塗れることになったドリカへの償いも込めて全てが終われば彼女の望むようにするつもりだった。彼女の本当の望みである王族としての権力は与えてやれないが、幸いにして商会運営は順調で、それなりに贅沢をして暮らせるだけの資金はある。平民として政治に関わらなければ生きていくことを許される予定だから、二人で生きていこうと決めていた。
しかし、フェリクスのそんな望みは他ならぬドリカの言動によって不可能になった。いつまでも婚約破棄せずドリカを婚約者にしないフェリクスに焦れた彼女は自作自演で公爵令嬢アンネリーンに虐げられる哀れな少女を演出し始めたのだ。
ドリカは平民や下位貴族の子女にはある種の憧れの存在だった。貴族としては最下層に位置する男爵家の庶子が王太子の恋人なのである。しかも現王妃は男爵家出身で侯爵家の養女として王に嫁いだ。そんな前例があるがゆえに、ドリカもそうなる可能性があるとして、一部の貴族たちは彼女に組した。
アンネリーンに被害が及ぶ前に何とかしようとしたフェリクスだったが、それは当のアンネリーンに止められた。ドリカの存在は試金石にもなるからだ。身分制度を否定し王国の社会制度を根底から覆そうとする者、大局を見る目のない者、そういった新体制の害悪となる者を見極めるのに役立つからと。学院の生徒たちは新王朝で新王が立つときの政治や社交界の中心となる年代だ。だからこそ、学生の今、見極めることが出来るのは僥倖だろうと。
フェリクスはそれに納得した。それでもドリカが行き過ぎないように注意を払いはした。事が終われば廃嫡され平民となる自分とともに罰されるであろうが、現状の罪程度では貴族籍剥奪と王都追放くらいで済むはずだ。ドリカの自演が平民の子供がするような嫌がらせ程度で済んでいるのも幸いした。更には学生という立場も一助となる。王国では貴族は学院卒業を以て成人と認められるため、学生時代の瑕疵であれば、子供のしたことと罪一等を減じられるのだ。
「ねぇ、フェリクス。あたし、貴方の恋人よね? 将来の奥さんよね? 貴方が王様になればあたしは王妃様よね?」
ドリカは何度も確かめるかのようにそうフェリクスに聞いてきた。フェリクスはそれに全て是と答えた。ドリカが王妃になるのはフェリクスが王になったときと限定して聞いてきたからこそ、何の躊躇いもなく肯定を返すことが出来た。フェリクスが王位に就くことはないから、ドリカが王妃となることはないのだが。
しかし、この答えがドリカを増長させた。そしてついにフェリクスがドリカを見限る事件が起きる。断罪茶番劇では公にしなかったが、ドリカはアンネリーンに階段から突き落とされ殺されそうになったと讒言したのだ。更にはならず者に襲われた、ならず者はアンネリーンに依頼された者だとまで言い出した。
流石にこれは放置できず、協力者の側近の手を借りて階段落ちはドリカの勘違いであり、似た容姿の令嬢とぶつかり、自分でバランスを崩して三段ほど足を踏み外したと認めさせた。また、ならず者に襲われたのは不用意に下町を徘徊していたドリカが地域の破落戸に絡まれただけであり、アンネリーンの関与はないことを騎士団を使って証明した。
この証明が卒院前三日の出来事であり、フェリクスは完全にドリカへの愛想を尽かしてしまった。自分への恋心ゆえに凶行に走ったのであればまだ許せたであろうが、ドリカは王妃の座に執着しているだけだった。
しかも同時期にドリカがとある侯爵家令息と男女の関係になっていることも知った。自分が王妃になったら護衛騎士にするからそのまま愛人になるようにと誘っていることも。
フェリクスは己の愚かさを自嘲しながら、卒院謝恩会の夜会へと臨むのだった。
卒院謝恩会の断罪茶番劇から一年と少し経った頃。王都の一角にある商会にお忍びでクンラート新王が訪れていた。新王の即位から半年が経ったころだった。
「なんで忙しいはずの国王がこんなところにいるんだ」
「うん、息抜きのお忍び。大丈夫、ちゃんと護衛騎士は付いてる」
商会長の執務室で人払いをしたフェイルは呆れを隠さずにクンラートに向かい合った。
「新王朝になるにあたって人員整理しまくったからなぁ。まぁ、準備期間あったから特に問題はなかったけど、外交のほうで大忙しでね。王妃になったティルザも大変でさ。アンネの助力がなかったらきっと過労で倒れてただろうね」
フェイルの入れた渋いお茶に眉を顰めながらクンラートは言う。計画実行までに下準備を進めていたおかげで王朝交代もその後の混乱も最小限に留められた。けれど、諸外国に関しては寝耳に水で、新王朝としてはこの半年は外交に注力しなくてはならなかった。それもようやくひと段落付き、こうしてクンラートがお忍び出来る程度の余裕も出来たというわけだ。
「フェリクス、いや、フェイル。これからは平民の商会長として、国家の経済を支えてくれるよね?」
「クンラート、顔怖い」
国王に対して不敬ではあるのだが、クンラートは全く気にしていない。ここには王と元王太子ではなく、幼馴染の友人として来ているのだから。
それにこのベレル商会は将来有望とされている気鋭の商会だ。これから十年後には王国の経済を支える大きな商会の一つになるだろうと期待されている。
「面倒な王位を俺に押し付けたんだから、それくらいやれよ。まぁ、しっかり手綱を握る奥方が必要だろうな」
あの事件以降、何処か人生に倦んでいるように見えるフェリクスをクンラートは心配していた。元王太子という身分から平民となっても彼には監視がついている。尤もその監視はベイレフェルト公爵家と王家の意を酌み、いつでも手助け出来るようについていると言ってもいい。だから、そんな監視から齎された情報にクンラートは心配になってこうしてお忍びで訪ねたのだ。
「え、ドリカは修道院送りだから……」
修道院は矯正教育機関であるから、ドリカが更生すれば出てくる可能性はある。しかし、恐らく彼女は数年程度の矯正教育では出てこれないだろう。醜聞のある自分だから、ドリカ以外に婚姻を結べる相手などいないだろう。ドリカが仮に更生して戻ってきたら、彼女を巻き込んだ責任を取って彼女の面倒を見るつもりだった。結婚するかどうかは別として。
しかし、クンラートはその言葉を笑い飛ばした。計画の終盤にはフェリクスの恋が終わっていることにクンラートは気付いていた。そして彼の心が誰に向かっていたかも。
ベレル商会では服飾品を取り扱っている。そしてフェイルが直接買い付けるのは決まって女性向けの服飾品で、どれもがかつての婚約者に似合うものばかりだ。本人が意識しているか否かは別として、彼がそういったものを買い付けているのは事実だ。それが何よりの彼の想いの在処の証拠だ。
だから、ここは幼馴染として一肌脱ごうと機会を狙っていたのだ。公爵家では兄ラウレンスも結婚し、それに際してアンネリーンは公爵が持つ子爵位を譲られて女子爵として独立することが決まった。となれば、婿取りに向けて両親や兄も動き出すだろう。
「高位貴族なのに婚約破棄されて次のお相手が見つからない令嬢がいるんだよね。元々君もパートナーとしては一目置いてた相手なんだからいいだろ。従属爵位の子爵位を継ぐらしいから、入り婿が平民でも問題ないし」
クンラートの言葉にすぐに自分に勧めている結婚相手が誰かを悟り、フェリクスは絶句する。そんなことあっていいはずがない。自分は彼女を傷つけ、裏切ったのだ。醜聞に塗れた自分が、彼女の夫になるなど許されるはずがない。
「私にそんな資格はないよ」
だから、断りの言葉が出る。アンネリーンにはもっと相応しい相手がいる。彼女ならば他国の王族だって相手として望めるのだ。
しかし、それに返された答えにフェリクスは再度絶句する。
「アンネから売り込んできたんだけど?」
爵位継承に伴い、パートナーとして夫を望むことになったアンネリーンは密かにクンラートに希望を伝えたらしい。但し、フェリクスが望むならと念を押したうえでだ。
「公爵やラウレンスはアンネに結婚してほしいと願ってる。今度こそ幸せになってほしいとね。でもアンネは独身でも構わないと言ってる。望む相手でなければ結婚しなくていいとね。跡継ぎがいなければ爵位は公爵家に返すだけだと言ってる」
現状ではアンネリーンが望む相手はかつての婚約者であるフェリクス。しかし、それを強制するわけではない。飽くまでもフェリクスと相思相愛になりたいと願っているのだという。
「相思相愛は達成してると俺は思ってるんだけど」
でもお前が悩む気持ちも判るから、どうするかは二人で決めるといい。まずは交流を持つところから始めてはどうかなとクンラートは笑う。
「ああ、アンネは社交の場には平民出身の夫を出すつもりはないらしい。というか、子爵だからね、社交は最低限にするようだ」
平民の婿を迎えた貴族ではよくあることだ。だから、フェイルとなったフェリクスと結婚してもアンネリーンが醜聞に晒される可能性は限りなく低いともクンラートは告げる。それに十年もすればほとぼりも冷めるだろうし、苦労したフェイルは顔つきも変わるだろう。
「どうなるかは二人次第だ。でも、お前もアンネもいつまでも若いころの過ちに縛られることもないだろう。新王朝になったんだ。そしてお前はフェリクスではなくフェイルだ。前に進んでもいいんじゃないか?」
そう告げてクンラートは一通の手紙を残して帰っていった。
クンラート王の即位から十年が過ぎたころ、ずっと独身だった女子爵が密かに婚姻の式を挙げた。相手は平民らしく、家族と親しい友人のみの密やかな結婚式だった。夫は表舞台に立つことはなかったが、夫婦仲は円満で、領地は栄えたという。