厳しい淑女教育の中でもアンジェリカらしさは失われておりませんでした。それが良いことだとは決して思えないのは結末を知っているからでしょう。
健気で天真爛漫で愛らしいアンジェリカ。淑女教育を受け、所作はかつてに比べて洗練されマナーも身に付いたとはいえ、その言動は変わりませんでした。思ったこと感じたことをそのまま口にしてしまい、社交辞令も本音と建前の使い分けも出来ておりません。あら、これでは淑女教育が終了したとはとても申せませんわね。
ただこれに関しては王太子妃殿下が途中で諦めてしまわれた面もございます。公式の場では挨拶以外は口を開かず、ただダニエーレ殿下の隣で微笑んでいるようにとお命じになったのです。
ともあれ、王宮にあってもかつてと変わらぬ彼女にダニエーレ殿下は一層愛を深め、それがのちの悲劇へと繋がったのです。
結局、アンジェリカもダニエーレ殿下も王侯貴族の婚姻というものを理解しておられなかったのだと思います。わたくしたちの婚姻は個人の感情以前に国益のために結ぶものだということを。その点でエルメーテ殿下とわたくしは恵まれておりました。個人の感情と国益が上手く一致しておりましたから。これは中々ない幸運といえましょう。だからこそ、エルメーテ殿下もわたくしも国を背負う責任を強く自覚いたしました。愛する方と結ばれた幸福を、国のために還元していかねばと。
平民出身のアンジェリカにとって、結婚とは恋愛の延長線上にあるものでした。恋愛のゴールが結婚だと考えていたのでしょう。アンジェリカを愛したダニエーレ殿下もそう思うようになっていたようです。愛する者との婚姻が許されない政略結婚は害悪とさえ思っていたようです。なんて浅はかなことでしょう。
アンジェリカの王宮での評判は決して良いものではありませんでした。かといって、悪いばかりでもございませんでした。王宮に入った当初、彼女の評判は悪くはありませんでした。特に恋愛に夢見る年若い令嬢や下働きの平民には受けが良かったのです。
尤も令嬢たちは『将来の国王たる第一王子と平民少女の身分を超えた真実の愛』という物語のようにロマンティックなお二人に夢を見ただけで、アンジェリカ個人を認めていたわけではありません。ですから、実際のアンジェリカを見ると夢から覚める者も多くおりました。王子に愛される平民なのだから、婚約者候補たちのように気品ある所作と礼儀作法を身に付けた美しい少女を想像したのでしょう。言ってみれば婚約者候補たちに平民と名をつけた女性を想像していたのではないでしょうか。彼女たちにとって平民とは遠い存在であり、実際がどういうものなのかを知らないのです。貴族の令嬢たちが知る平民は商人や文官女官などの、作法と貴族社会の常識を身に付けた準貴族ともいえる平民たちです。何も知らない市井に暮らす平民の少女など、彼女たちの想像の範囲外だったのです。
下働きの平民たちは、自分たちと同じ階級の者が王族に迎え入れられることで、自分たちまで価値が上がったと思ったのでしょう。アンジェリカを自分たち平民の星として期待と憧れを以て見ていました。その一方で、自分と同じ平民が掴んだ幸運を妬む者も少なくなく、その悪意はアンジェリカを受け入れられない貴族よりも強く大きなものでした。
王宮でアンジェリカに好意的だったのは一部だけでした。何も知らないアンジェリカを利用してダニエーレ殿下に取り入ろうとする者がいないわけではありませんでしたが、アンジェリカがあまりに何も知らなさすぎるため、彼女を利用することは諦めたようです。利用される側にもある程度の素養は必要ということなのでしょう。
王宮は王族の生活空間であり、その主は王妃殿下です。王城の主は国王陛下ですが、家内を司るのは王妃殿下の役目であり、王宮内のことは国王陛下も王太子殿下も殆ど口出しすることはございませんでした。王宮の最高権力者は王妃殿下であり、その次が王太子妃殿下です。王子妃であるアンジェリカにもわたくしにも強い権限はございません。
アンジェリカは王妃殿下と王太子妃殿下に疎まれていました。元々王妃殿下は身分制度に煩い方で、平民を見下す傾向にありました。王妃として国民を愛してはおられましたが、集団としての国民の中の平民は愛せても、個としての平民は認識なさらないような方でした。ですから、そんな平民が自分たちの城に入り込み、我が物顔で過ごすことを不快に思っておられました。
王太子妃殿下は何の後ろ盾も持たぬ平民のアンジェリカが我が子の妻となったことが不満でいらっしゃいました。国王陛下の目論見があるとはいえ、やはり王位に就くのに経済的政治的な後ろ盾に有力貴族がいないことは不利です。異母弟であるエルメーテ殿下の妃は筆頭公爵家出身のわたくしであり、つまりそれは筆頭公爵家がエルメーテ殿下の後ろ盾についているということです。王太子位争いにはかなり有利な後見を得ていることとなります。
ちなみに我が父は公爵家は国家を支える第一の臣との考えで、王位に就くのが誰であれ国への忠誠は揺らがないでしょう。国王が誰だとか王太子が誰だとか王家がどうだとかではなく、国そのものが忠誠の対象なのです。とはいえ、学生時代からのあれこれでダニエーレ殿下の即位にはかなり懐疑的になっておりましたけれど。
王妃殿下も王太子妃殿下もアンジェリカ個人の性質や資質を見て疎んでおられるわけではありません。アンジェリカが何も持たない平民ということで疎んでおられました。
何も知らない平民の少女が五年で下位貴族として通用する礼儀作法とマナー、淑女の振る舞いを身に付けたのは中々出来ることではないと思います。わたくしたち高位貴族の令嬢はお茶会デビューする七歳までにはそれぞれの爵位に応じた最低限のマナーを身に付けておりますが、それは生まれたときからそう育てられ、母や祖母というお手本が身近にいるから幼くても身に付くのです。いいえ、幼いからこそ身に付くのでしょう。
けれど、アンジェリカは十八年間平民として過ごしておりました。その中で身に染み付いてしまっているものを全て上書きするのは並大抵の苦労ではなかったでしょう。それでもアンジェリカはダニエーレ殿下の傍にいるためにそれを成し遂げました。その努力を王妃殿下も王太子妃殿下もお認めになられればよいのにと思わぬでもありません。恐らくこれはわたくしの中の令和日本の価値観ゆえにそう思ってしまうことなのでしょう。この世界では、この国では異質な考えだと自覚しております。
妃殿下方にすれば、ダニエーレ殿下の伴侶の座を分不相応に望まなければしなくてもいい苦労なのだから、望んだ以上は王家が期待する結果を最短で出して当然というお考えだったのかもしれません。婚約者候補たちであれば、王宮での淑女教育など必要ありませんでした。そのための人員の確保も出費も必要ありませんでした。王宮の大半の者にとって、ダニエーレ殿下の我が儘とアンジェリカの身の程知らずな望みのせいで余計な手間と出費が増えたのだから、二人が寝る間を惜しんで最大限努力することは当然という認識だったのです。
当然のようにアンジェリカはわたくしと比較されました。既に王妃教育も終え、男児二人を生し、王子妃として王妃殿下や王太子妃殿下の補佐をするわたくしと、漸く王子妃教育が始まり最低限の社交を許されたばかりのアンジェリカ。同じ王子妃であるのにどうしてこうも違うのかと。
違って当然ですのに。わたくしは幼いころからそうあるために教育されてまいりました。わたくしが二十年近くかけて身に付けたことを、アンジェリカはその半分以下の時間で身に付けるよう求められているのです。あまりにアンジェリカに対して理不尽なのではないでしょうか。けれど、わたくしがそう考えるのは傲慢なのかもしれません。
同じ王子妃としてアンジェリカをサポートすることを考えないわけではありませんでした。実際に淑女教育の始まりにはそうしようともいたしました。けれど、それは良い結果とはなりませんでした。ですから、わたくしは一度だけ、エルメーテ殿下にお許しをいただいて、アンジェリカに手助け出来ることはないかを尋ねたのです。二人だけの気楽なお茶会をいたしましょうとお誘いして。
「ベアトリーチェ様はいいですよね。ご立派なおうちに生まれて、教育受けて。皆、ベアトリーチェ様が王妃に相応しいって! あたしはただダニーを愛しただけなのに! いつも比べられて、馬鹿にされて、意地悪されて! ベアトリーチェ様がいるから、あたしは比べられて馬鹿にされて惨めになる! もう関わらないで!!」
血を吐くようなアンジェリカの叫びにわたくしは何も言えませんでした。これまで心の中にあった同情は消えました。
ただダニエーレ殿下とともに在りたかったというのであれば、彼を説得して平民になればよかったのです。平民にならずとも王妃は無理だと王位継承権を放棄するよう彼を説得すればよかったのです。そうしなかったのは、ダニエーレ殿下に愛された自分なら王妃になれると思ったからでしょう。分を弁えず、責務を知りもしないで。
アンジェリカは望んでダニエーレ殿下の妻となったのです。王族になるのであれば、それ相応の責任が求められます。その責任を果たすために今アンジェリカは学んでいるはずなのです。アンジェリカが身に着ける絢爛豪華なドレスや宝飾品、贅を尽くした食事、それらは王族としての責務を果たすからこそ与えられるのです。
抑々わたくしがいなければ、わたくしとエルメーテ殿下がいなければ、アンジェリカはダニエーレ殿下と結ばれることは許されなかったでしょう。仮に結ばれたとしても早いうちに『病死』していたでしょう。
「ダニエーレ殿下が臣籍降下なさって領地でのんびりと過ごすほうがお幸せかもしれないわね」
そんな言葉が漏れてしまいます。
アンジェリカは孤独なのでしょう。わたくしには寄り添ってくださるエルメーテ殿下がいる。無条件に愛情を求め向けてくれる幼子たちがいる。愛する殿方が支えてくださるのは、ダニエーレ殿下のいるアンジェリカも同じ。けれど、アンジェリカにはそれだけ。わたくしのように信を置く側近も侍女も女官もいないのです。
王宮内にアンジェリカの味方はダニエーレ殿下しかいませんでした。ダニエーレ殿下は最愛の妻を守り庇護なさいました。
アンジェリカが泣いた、アンジェリカが顔を曇らせた、アンジェリカが悲しんだ。そのたびにダニエーレ殿下は周囲を攻め立てました。王宮の侍女やメイド、執事や従僕、茶会や夜会で接したご夫人方やご令嬢方。
アンジェリカには一切の非がなく、全て周囲が悪いと決めつけるダニエーレ殿下に、二人はやがて孤立していったのでございます。