ゲームとの細かな差異を感じつつ、学院生活を送っておりましたけれど、やがてそれは平穏とは言い難いものとなりました。ゲーム世界ではないと思ってはいたものの、ゲームと同じことも起こっておりました。
そう、ゲームヒロインであるアンジェリカがダニエーレ殿下と身分を超えての交流を持ち始めたのです。
アンジェリカが現れたことに、そしてダニエーレ殿下と親しくなっていくことに、わたくしはひそかに喜んでおりました。このままアンジェリカがダニエーレ殿下と結ばれてくれれば、わたくしはエルメーテ殿下とともに在れると思ったのでございます。
幸いアンジェリカはよくあるウェブ小説のように転生者というわけではなさそうでした。無理に攻略ルートを開こうとしたり、攻略対象全てに擦り寄ったりは致しませんでした。ただ純粋にダニエーレ殿下に好意を抱いていたようです。
ゲームヒロインそのままに、健気で無邪気で天真爛漫で愛らしいアンジェリカ。わたくしは彼女に好感を持ちました。けれど、それはわたくしが令和日本の知識を持っているから許容出来たことなのかもしれません。
「学院の下働き風情が殿下に侍るなど図々しい」
「身の程を弁えぬ平民など害悪でしかない」
そこかしこでそんな声が聞こえました。
アンジェリカは学院の生徒ではありません。学院の正式名称は『王立イルミナーティ貴族学院』。王族と貴族が社交界に出て大人と認められる前に、その予行演習と人脈つくりを兼ねて入学する学院でございます。アンジェリカは学院に雇われている下働きの平民でした。
通常、下働きの平民が貴族である生徒の前に姿を見せることはありません。けれど、アンジェリカは生来のそそっかしさで生徒の前に姿を見せてしまうのです。ゲームでは愛嬌として描かれていた彼女のそそっかしさは、現実では身分を弁えぬ無礼でしかなく、恋に落ちたダニエーレ殿下以外からは白い目で見られておりました。
ゲームは所詮ゲームに過ぎません。身分制度がなく基本的人権が保障され平等が認められている民主主義の令和日本の常識がゲームの根底にありました。そのゲームでは許されたことも、身分制度が明確で厳格な封建社会のこの世界では許されないことなのです。
アンジェリカは転生者でないと思われますのに、この世界の住人としては有り得ないほどに貴族への警戒心が薄うございました。普通の平民は貴族に好んで近づくことはございません。平民にとっての貴族とは敬して遠ざけるもの。それが身を守る術だと知っているのです。
貴族の中には平民を同等の人として見ない者が少なからずおります。大部分の貴族は平民を守るべき民と見做しています。人として尊重しつつもそう見做す時点で同等とは申せません。見下しているわけではございませんが、対等でもないのです。
また、一部の愚かな貴族は平民を単なる搾取対象と見たり、家畜と同等と見做したり、或いは虐げる者もおります。それは領地を持たぬ下位貴族や新興貴族に多い傾向にあります。
高位貴族や歴史ある名門下位貴族は『
勿論、高位貴族や名門貴族にも愚かな者はおります。けれど、彼らが我が世の春を長く楽しむことはございません。必ず報いを受け、その地位を失います。爵位剥奪、家門断絶することさえございます。そうして淘汰された貴族たちは、より正しい貴族であろうとするのです。
王族や公爵・侯爵家の生活圏内に平民と接する機会は殆どございません。出入りの商人や慰問先の孤児院や施療院の人々くらいでしょう。ですから、ダニエーレ殿下は物珍しさからアンジェリカに関わるようになったのでしょう。
平民たちは虐げられずとも、貴族と平民では住む世界が違うことを本能的に理解しています。住む世界が違うということはその常識や価値観が異なっているということです。それが解っているから、彼らは貴族には必要以上に関わらないのです。
けれど、アンジェリカは違いました。そしてダニエーレ殿下も。まるで彼らにだけゲームの強制力が働き、この世界の常識を忘れてしまったかのようでした。そう有り得ないことを思うほどに二人は恋に溺れていたのです。
ダニエーレ殿下の側近たちもエルメーテ殿下も、度を越えた身分違いの交流は混乱を招くし、悲劇の元になるとダニエーレ殿下を諫めておいででした。
その諫言はわたくしにも響きました。そうです、ゲームならいざ知らず、この世界には確固たる身分制度があり、平民のアンジェリカとの関係は歓迎されることではないのです。それを未来の王であるダニエーレ殿下は軽視しておられました。わたくしは自分の望みが叶うかもしれないと、それを軽視してしまっておりました。
ただ、それでも、愚かなわたくしは希望を持ってしまいました。ゲームのアンジェリカはダニエーレ殿下と結ばれて王子妃になっておりました。ですから、アンジェリカもダニエーレ殿下もこの愛が認められるように努めるのだろうと。
彼らは学院で愛を育みました。そして、国王陛下や王太子殿下にアンジェリカとの関係を認めてほしいとダニエーレ殿下は根気よく説得なさったようです。けれど、中々認められません。ダニエーレ殿下が王位継承権を返上し臣下に下ると申し出られれば、それほど時間もかからずに認められたでしょう。けれど、ダニエーレ殿下は今の地位を保ったままアンジェリカと結ばれることを望んでおられました。
最終的にはいくつかの条件の下、ダニエーレ殿下とアンジェリカの婚約が認められました。
これはダニエーレ殿下がまだ王太子ではないことも大いに関係していたのでしょう。その証左といえるかは判りませんが、ダニエーレ殿下とアンジェリカの婚約は飽くまでも内定であり、アンジェリカの淑女教育が終わってから正式に結ばれることとなったのです。
婚約が内定したのは、学院卒業の一年前。アンジェリカは学院の下働きを辞め、家族とも縁を切ったうえで王宮内の離宮にその身を移しました。淑女教育の始まりです。それと同時に後見となる養子入り先を探すことになりました。
けれど、養子の受け入れ先は容易には見つかりません。学院での二人の素行は学院生を子に持つ貴族には知れ渡っておりましたし、身分を理解していない平民を受け入れる危険性を皆判っていたのです。
ダニエーレ殿下とアンジェリカの婚約が内定したことで、エルメーテ殿下とわたくしの婚約も確定いたしました。そして、わたくしはこれまでの王子妃教育とともに新たに前倒しで王妃教育も受けることとなったのです。
それから一年が経ち、わたくしたちは卒業を迎えました。卒業祝賀会は何の問題もなく穏やかに終わりました。前世でよくあったウェブ小説のような断罪茶番劇は起きませんでした。
いいえ、正確には事前に阻止出来ました。ダニエーレ殿下は一年前にアンジェリカが学院で虐げられていたとして、学院の令嬢たちの幾人かを対象に断罪劇を計画していたようです。対象となったのは殿下の婚約者候補だった令嬢たち。尤もその計画に側近候補たちが気付き、事前に止めることが出来ておりました。ダニエーレ殿下を卒業祝賀会に出席させないという、中々の力技でございましたが。
卒業祝賀会は社交界デビュー前とはいえ、王宮の夜会と同等の格式で行われます。ゆえにパートナーは必須であり、そのパートナーは貴族である必要があります。婚約者がいる者は婚約者を、いない者は家族や親族がパートナーとなります。平民の婚約者を持つ方もいらっしゃいますが、そんな方はご家族かご親族をパートナーとなさいます。
ダニエーレ殿下は当然、アンジェリカをパートナーとして出席しようとなさいました。ですが、アンジェリカはいまだ養子先が見つからず平民のままでございました。ゆえにアンジェリカをパートナーとするのであれば出席は認められないと学院長に断られたのです。
ある意味、このときには既にダニエーレ殿下の未来は決まっていたのかもしれません。ダニエーレ殿下はそれには気づいておられませんでした。学院の生徒の大多数は気づいておりましたのに。
気づいていれば、ダニエーレ殿下もアンジェリカも毒杯を賜ることはなかったでしょう。王位継承権を返上し王籍を離れ、相応の爵位と領地を与えられたことでしょう。
けれど、彼は気づきませんでした。アンジェリカとともにこれまで当然のようにあった華やかな未来の国王としての人生が続くのだと、信じ切っていたのです。