わたくしという存在

 わたくしには物心ついたころから前世の記憶がございました。正確には前世の世界の知識があったというほうがよいかもしれません。古い記録映画でも見ているようなもので、前世のわたくしの人格が今のわたくしに取って代わるというようなこともございませんでした。

 ですから、前世で読んだウェブ小説のように転生チートをするわけでもなく、ごく普通に公爵家の娘として育ち、義務と責任と権利を学び、歳の近い王族や高位貴族の子女と交流を持ち、貴族の令嬢として一般的な生活を送っておりました。前世の記憶があることに何か意味があるのかしらと疑問に思いながら。

 それはここが恋愛シミュレーションゲーム【学園で花開く】の世界だと気づいてからも変わりませんでした。

 ここが【学園で花開く】の世界だと気づいたのは学院に入学したときでございます。正門から見る学院の学び舎を見たときに既視感を覚え、そこからこのゲームのことを思い出したのです。

 キャラクターデザインが前世のわたくしが一番好きな少女漫画家で、声優好きのわたくしが特に好きな上位十人全てが攻略対象の声を担当していたため、プレイしたゲームでした。攻略対象が十五人もいて、それぞれのスチルを集めるために恐らく五十周くらいは周回したはずです。

 そのスタートの選択画面の背景が学院の学び舎でした。ですから、そこで気づいたのです。気づいて思い返してみれば、幼馴染たちは攻略対象でございました。周回したとは申せ彼らの容姿や名前からはそれに気づかない程度。キャラクターデザインと声に惹かれてプレイしましたが、内容にもキャラクターにもそれほど心惹かれるものはなく、ゲーム内容を詳細には覚えておりませんでした。

 それでも、連鎖的にいくつかのことは思い出しました。自分の立ち位置もその一つでございます。

 このゲームには一時期流行ったウェブ小説のような『悪役令嬢』はおりません。略奪愛をテーマにしているわけでもありませんから、攻略対象たちが婚約者を蔑ろにすることもございません。攻略対象たちは婚約者のいないフリーの男性でした。

 通常、この年代の高位貴族に婚約者がいないなど有り得ないことです。しかし同年代にいる次期王太子候補が政治的な理由で婚約者が確定していないため、必然的にその妃候補となる同年代の高位貴族令嬢は婚約を結ぶことが出来ず、結果、同年代の高位貴族令息も婚約者がいない状態となっておりました。

 ゲーム内のわたくしは、王太子候補の王子たちの幼馴染で複数いる婚約者候補の一人というだけの存在でございました。直接ゲームヒロインに関わることもなく、ヒロインが王子ルートに入ると、周囲からヒロインがわたくしと比較されるだけ、だったはずです。その程度の役割でございますから、わたくしはここがゲームの世界なのだと気づいても特に気にしておりませんでした。

 正確にはここが【学園で花開く】の世界そのものではなく、酷似した現実世界という認識でございましたから、気にしないことにいたしました。ゲームには出てこなかった人々、例えばわたくしの両親や学友、使用人たちがきちんと一人の人間として存在しておりました。ゲームに出てくる人たちとゲームには描かれなかった交流をし、ゲームには描かれていない思い出を共有しておりました。それらから、似て非なる世界だと認識し学院生活を過ごしたのです。

 ゲームでのわたくし『ファルツォーネ公爵家長女ベアトリーチェ・ファルツォーネ』は攻略対象である『ダニエーレ・ラフォレーゼ第一王子』の幼馴染で婚約者筆頭候補でございました。けれど、実際には微妙に違っております。

 確かに『ダニエーレ・ラウロ・ラフォレーゼ第一王子』の婚約者筆頭候補ではございますが、正確には彼の異母弟である『エルメーテ・ルーカ・ラフォレーゼ第二王子』の婚約者筆頭候補でもあるのです。つまり、わたくしは二人の王子の婚約者筆頭候補である『ファルツォーネ公爵家長女のベアトリーチェ・ジリオーラ・インファシェッリ』なのです。立場と名前が微妙にゲームとは違っておりました。

 ちなみにゲームにエルメーテ第二王子は登場いたしませんし、キャラクターたちにミドルネームもございません。攻略対象やわたくしのように領地持ちの貴族が爵位名と家名が同じということもございません。所詮はゲームなので、爵位名とは、と煩く申すことはございませんが、こうした細かな差異がわたくしにここがゲームと似て非なる世界だと確信させておりました。

 なお、何故二人の婚約者候補なのかといえば、未来の国王の婚約は国や周辺国の情勢を見極めてから定められるからでございます。周辺国との関係強化が必要であれば次期王太子に周辺国の王女が嫁いでくることとなるでしょう。残った王子の婚約者には婚約者候補の中から妃が選ばれることになります。

 また、同じく候補である令嬢たちとの政治的バランスでそれぞれの妃が決まることもございましょう。王子たちの婚約者候補は国内の幾人かの令嬢が指名されているのです。

 学院に入学した当時、国王陛下は両殿下の御祖父様でございました。両殿下は王孫であり、両殿下のお父上が王太子殿下であらせられました。だからこそ、お二人の王子(正確には王太子殿下のご子息は四人ですが)の婚約者が確定していなくても許される状況だったのです。

 それでもわたくしは第一王子の婚約者に最も近い令嬢と見做されておりましたし、将来の王太子妃・王妃としての振る舞いが求めらておりました。それが少しばかり、否、かなり不満でございました。わたくし個人としては第二王子のエルメーテ殿下を好ましく思っておりましたし、エルメーテ殿下もそう思ってくださっていました。

 周辺国との関係は落ち着いておりましたし、国内も安定しておりました。婚約者候補の中には我が家と同格の公爵家令嬢もいらっしゃいましたから、わたくしは父に出来ることならダニエーレ殿下の婚約者候補を辞退したい、エルメーテ殿下の婚約者になりたいと伝えてはおりました。エルメーテ殿下も陛下や王太子殿下に伝えてくださっていました。

 けれど、王侯貴族の婚姻が感情で決まることはございません。お父様は『お前の希望は一応考慮する』と言ってはくださっていましたが、それだけでした。国王陛下も王太子殿下も『気持ちは判った』と仰っただけ。否定も反対もされなかっただけ、良かったと思うべきなのでしょう。

 ですから、学院に入学してゲームを思い出したとき、わたくしは期待してしまったのです。アンジェリカが現れ、ダニエーレ殿下を攻略してくれれば、わたくしはエルメーテ殿下と結ばれることが出来るかもしれないと。