「旦那様、どうやらあちら様は内容を覚えておられないようですから、改めて確認して差し上げたらいかがかしら」
これまで無言だった伯爵夫人クラベルが夫にそう提案する。商家の経営者である彼女にしてみれば大事な契約の内容を忘れるなど有り得ないことだが、こういった盆暗貴族は多い。
クラベルの言葉を受けて侍従長がオルガサン侯爵一家の前に婚姻前契約書を広げる。勿論、写しで原本はアマネセルの書斎の金庫に保管してある。ついでにいえば写しは一つではなく、法務局と中務省の担当部署にも提出しているし、欲しがったので従兄、つまり国王にも渡してある。
そして態々指差し確認しながら侍従長は契約書を読み上げた。
「第一項 婚約に際して一千万ギル(一ギル=一円)の支度金と一億ギルの領地支援金を伯爵家より支払う。但し婚約がなくなった場合及び離婚した場合は返還しなくてはならない」
「第二項 婚姻後は年間五千万ギルの援助金を送り、ペルデル・オルガサンとマグノリア・エスタファドル二人の子が後継者となるまで援助金を支払う」
「第三項 援助金の返済はペルデル・オルガサンとマグノリア・エスタファドル二人の子が侯爵家を継ぐ場合、継承祝い金となり返済義務がなくなる」
「第四項 侯爵領運営のための援助金は、通常年利五%であるところをペルデル・オルガサンとマグノリア・エスタファドル二人の子が後継者である限り無利子無担保で融資する」
「第五項 毎年の援助金の他、侯爵家から領地経営に必要な費用の援助要請には上限を一億ギルとして応じる」
「第六項 三年間子供が生まれなかった場合、どちらが原因であれ、離婚となる」
「第七項 婚約期間から婚姻後三年の間にペルデルに愛人がいた場合、即座に離婚となる。その際は援助金の一括返済及び持参金の二倍の慰謝料を支払う。なお、持参金は侯爵家の請求金額である二億ギルである」
「第八項 どのような理由があれ、離婚に至った場合、持参金・援助金は一括返済するものとする」
「第九項 持参金の運用はマグノリアとその実子にのみ、その運用権を認める」
全九項目の契約書を声に出して読み上げられて、オルガサン侯爵家は最早死に体である。
「今回、離婚が認められたのは第七項違反が証明されたからだ。そして、離婚に至ったから第八項により、持参金と援助金を一括返済してもらう」
アマネセルはそう言って離婚が認められた理由と結果について説明した。
「しかし、援助金は返還しなくていいという契約だったではないか」
自分たちに有利な契約にしたはずだった。借金となるはずの援助金を返済しなくて済むように盛り込んだはずだ。そんな思いからガラパダは反論するが、それはあっさりとアマネセルに一刀両断された。
「馬鹿か。そんなに都合のいい契約を結ぶわけはないだろう。条件付きで返済免除だったんだ」
そう、第三項にそれは盛り込まれている。
第三項には確かに『返済義務はなくなる』とあるが、それには『ペルデルとマグノリアの子がオルガサン侯爵家を継ぐ場合』と条件が明記されているのだ。飽くまでもアマネセルが孫のために爵位継承の祝い金として返済義務がなくなるとしているだけで、借金帳消しというわけではない。まともな人間なら全額とはいかずともいくばくかは返済するはずだ。
なお、支援金は九億ギルから三十一億ギルほどになると思われた。婚姻初年に生まれた子が成人とともに爵位を継承し、毎年最低限の決められた援助金を受け取っていれば九億ギル、離婚条件ぎりぎりの三年目に妊娠が判明し四年目に出産、成人とともに爵位を継承、援助金は上限の一億五千万ギルを要求していれば三十一億ギルという計算だ。しかもマグノリアの子が後継者であれば無利子と定められていた。
普通に考えればオルガサン侯爵家にはかなり有利な内容だったのだ。正室の子が後を継ぐのは当然だし、碌な後継者教育を受けていないペルデルを早期に引退させて、マグノリアが最高の教育を与えたはずの嫡子に成人とともに爵位を継がせることに問題はなかった。オノール王国では女性にも家督・爵位継承権があるため、生まれた子の性別も問題ではない。
尤も、結婚から僅か一ヶ月足らずでの離婚のため、返済金額は少なくて済む。内訳としては、婚約に際しての支度金一千万ギル、婚約に際しての領地援助金一億ギル、初年度分の援助金五千万ギル、結婚当日に請求して受け取った初年度の追加援助金一億ギル、結婚祝い金五百万ギル、品格保持費千五百万ギルの二億八千万ギルだ。これらのうち婚約の際の支度金と結婚祝い金の千五百万ギルは二年目以降の離婚であれば返済しなくてよかった。しかし、婚約から僅か四ヶ月、婚姻して一ヶ月足らずでの離婚のため、貴族の慣習として返還しなくてはならなかった。
「なっ、なぜ祝い金としてもらったものを返さねばならん!」
既に使い切っているペルデルは慌てる。たった五百万ギルぽっち、まけてくれてもいいではないか。五百万ぽっちなどというが、これまでのオルガサン家であれば到底個人で持つことのなかった大金であることをペルデルは忘れている。
「僅か一ヶ月足らずで契約違反を犯して離婚するんだ。祝い金を受け取る資格があると思っているのか。恥知らずにもほどがある」
呆れたアマネセルは返済金額が記された請求書をガラパダに突きつける。
「この品格保持費とはなんだ? 受け取った覚えはないが」
「貴様の愚息が受け取っている。それで豪遊していたんだ」
品格保持費は三人分の五年間の費用として千五百万ギルを与えていたが、ペルデルは自分の一年分の予算だと思っていた。品格保持に名を借りたお小遣いだと勘違いしていたのだ。あながち間違いではない。侯爵家としてふさわしい装いをするための費用だ。そうガラパダたちは説明を受けた。
尤も、マグノリアを除くオルガサン侯爵家は今後一切社交の場に出ることはないはずだった。そのためにオルガサン侯爵夫妻から実権を取り上げ領地へ戻したのである。
この婚姻に際して、領地立て直しのため一切の社交を免じるという国王の許可を得ている。許可とはいうが、実質はオルガサン侯爵家三人の社交禁止だ。だから、一人年間百万ギルという低予算で十分だったのだ。
なお、オルガサン侯爵家の社交はマグノリアが全て行う予定だった。元々センテリュオ商会の次期会頭として様々な社交の場に招かれるので、そのついでにオルガサン侯爵領立て直しの社交も行う予定だった。
尤も、婚姻前には直ぐに離婚することがほぼ決まっていたから、社交の計画は無駄になったが。
品格保持費については納得し、無駄に使い切った馬鹿息子を睨み付け、ガラパダは更に請求書に目を通した。返済する項目に持参金がないことにほっとする。持参金は二億ギルあるのだ。返済額に八千万ギルほど足りないが、援助金の二億五千万ギルを全て使い切ったわけではない。まだ二億ギルほどは残っている。であれば、持参金と合わせれば返済額を返してもおつりがくる。
「ああ、持参金が返済項目に入っていないのが不思議かもしれんが、当然だろう。持参金は飽くまでもマグノリアの財産だ。婚家に所有権はないから、マグノリアは渡してもいないし、自分で管理している。だから既に回収済みだ」
内心を見抜いたようなアマネセルの言葉にガラパダは愕然とした。てっきり結婚当日にペルデルが受け取ったと思っていたのだ。下位貴族は逆らわないと都合よく思い込んでいたために確認を怠っていた。
持参金は妻やその所生の子が婚家に遠慮することなく使えるようにするための費用だ。国法上も妻の私有財産と明記されており、夫に所有権はない。だが、貴族の慣例として夫が妻の持参金を預かり運用することは可能だった。但し、離婚の際には夫の運用によって減った分は補填しなければならない。尤も利益が出て増えた分を妻に渡す必要もないとされている。
しかし、第九項に持参金はマグノリアとその子にしか使えないと明記されており、ペルデルが手出しすることは禁じられていた。ゆえにマグノリアは持参金は自分で管理していたのだ。
それに持参金の返還をしなくていいと都合よく勘違いしたガラパダだが、第八項には離婚の際には持参金の返還が明記されている。マグノリアが管理していたから請求書に記載されてなかっただけなのだ。
「勿論、そちらの有責での離婚なのだから、慰謝料も発生する。これも契約にある通り、持参金の二倍、四億ギルを請求する」
アマネセルの非情な言葉に、オルガサン一家は完全に顔色を無くした。
こうして、マグノリアの結婚生活は一ヶ月に満たずして終わりを告げ、離婚が成立したのである。尤も、王命による離婚であるため、オルガサン家が抵抗しようともどうにもならなかったのではあるが。