それは全く見ず知らずだったはずのオルガサン侯爵夫妻がブルガル家に突撃してきたことから始まる。何が始まったのか。それはオルガサン侯爵家の終焉だ。
しかし誰もそれには気づかない。気付く敏さがあれば、こんなことにはなっていないのだから。
ブルガル男爵夫妻は突然現れたオルガサン侯爵夫妻を持て成そうと考えた。いずれは子供同士が結婚し姻族となるのだ。侯爵家の縁故を得れば商売もうまく行くようになるはずだ。
男爵家という下位貴族ゆえに侯爵家のような上位貴族の社交界とは無縁だった。だから、ブルガル男爵夫妻は社交界においてオルガサン侯爵家がどのように扱われているのか、お飾りの妻だと娘が蔑んでいたエスタファドル家がどのような立ち位置にあるのかを全く知らなかった。
「五月蠅い! 貴様らなどに用はない! ペルデル、行くぞ!!」
ブルガル男爵を邪魔だと殴りつけ、オルガサン侯爵ガラパダは不肖の息子の首根っこを掴むと馬車の中に放り投げた。そして夫妻も馬車に乗り込むと来たときと同じように慌ただしく去っていった。
去っていくオルガサン侯爵家の馬車を呆然と眺め、ブルガル男爵夫妻とアバリシアは漠然とした不安を感じた。そしてそれは的中し、ほどなくブルガル男爵家はあっという間に消え去ることとなるのであった。
突然両親が愛しいアバリシアの家に来たかと思えば、最愛の真実の妻を紹介する暇もなく馬車に乗せられた。両親はひどく憔悴している。恐らく領地から休むことなく馬車を走らせたのだろう。馬も馭者も相当に疲れているようだった。
だが、両親は疲れよりも怒りが勝っているようで、溺愛された息子のペルデルでも声をかけることが憚られるほどの形相をしていた。
そうして馬車が向かったのは、貴族街の一等地。この地に邸宅を構える貴族は建国時に功績のあった名門貴族だけだ。どんなに金を積もうともこの地に邸宅を構えることは出来ず、由緒正しい名門で国への貢献度が高い家にしかこの地に住まうことは許されない。貴族社会に疎いペルデルでもそれは知っていた。
こんな地に何の用があるのか。オルガサン侯爵家が如何に名門で功績があるとはいえ、まだ三代しか代を重ねておらずこの地に居を構えることは出来ない。この地に住まう貴族との付き合いがあるとも聞いていない。
そんなことを考えているうちに馬車は停まる。オルガサン侯爵邸とは比べ物にならないほど、壮麗で広大な館だった。馭者が門番と二言三言言葉を交わすと、門が開かれ、敷地内に馬車が乗り入れる。王都別邸という性質上、敷地そのものはさほど広くはない。門から館まで馬車で五分ほどか。それでも門から館まで徒歩数歩という侯爵邸とは比べ物にならない広さだった。
ペルデルは知らなかった。本来ならば先触れも出していない一家は門前払いされてもおかしくなかった。それが回避されたのは館の主が彼らの行動を察していたためであり、馭者が侯爵家の者ではなく、この家から貸し与えられた者であったためでもある。
執事らしき初老の男に出迎えられた一家は慇懃に応接室らしき部屋へと案内された。そして、両親がイライラとして貧乏揺すりして爪を噛むくらいの間、散々に待たされた。その間にお茶や茶菓子が供されることもなく、放置されていた。
ペルデルは知らなかったが、先触れなしの訪問は数時間放置されても文句が言えないほどの無礼だ。たとえ訪ねた側が爵位が高くとも、待たされても文句は言えない。
訪問者の爵位が高ければ出迎える家の者もそれなりの格式の衣服に着替え、接する必要がある。それには時間がかかるし、先触れなしの無礼な訪問への無言の抗議として相手を待たせることは少なくない。
それでも飲み物程度は供されるものだが、それもないということはこの家の主一家も使用人もオルガサン侯爵たちの不躾な訪問をそれだけ不快に思っているということだろう。だから、貴族はどんなに緊急であろうとも、たとえ知らせの直ぐ後に到着しようとも先触れは出すのだ。
待たされること一時間と少し。父ガラパダの怒りが頂点に達し、母ポリリャの癇癪が炸裂しようとするその数瞬前にようやく扉が開かれた。扉に目をやれば、人の好さそうな、けれどどこか逆らい難い雰囲気を持つ壮年から中年に差し掛かった年代の男と、その妻らしき女性、自分と同年代の青年にいくつか年下の少年が現れた。そして、自分の名ばかりの妻。
ペルデルは愕然とした。この大きく立派な館は妻の実家エスタファドル伯爵家なのか。エスタファドル家は金で爵位を買った新興貴族なのではなかったのかと。だが、新興貴族がどれだけ金を積もうともこの地に居を構えることは出来ない。出来るのは建国以来の名家だけだ。そのことに漸くペルデルは気付く。
「いくら元姻戚とはいえ、先触れもなく乗り込んでくるとはあまりに無礼ですな。それで、一体どのようなご用件でいらしたのですかな」
まさに慇懃無礼といった態度で妻の父エスタファドル伯爵は言う。表情は穏やかな笑顔なのに何故か背筋が凍りそうになる。たおやかに微笑んでいる母親も人の好さそうな兄弟たちも自分たちに向ける視線は凍えそうなほどだ。一方で妻であるはずの女は一切の感情を含まない目でこちらを見ている。
「ふざけるな! これは一体どういうことだ! なぜペルデルの、我が息子の有責での離婚など成立するのだ!」
ガラパダの怒鳴り声にペルデルはようやく両親が怒っていた理由を理解した。いや、理解したと思った。どうやらエスタファドル伯爵家は身の程を弁えず離婚の申し立てをしたらしい。
ここはひとつ、夫たる自分もガツンと言って名ばかりの妻に自分の立場を判らせる必要があるだろう。
「おい、今謝れば許してやるぞ! 俺に不快な思いをさせ愛しいアバリシアとの時間を邪魔したのだ。それにふさわしい慰謝料で許してやる」
そう言った瞬間、ペルデルはガラパダに殴られた。生まれて初めて受けた父からの暴力にソファから転げ落ちたペルデルは呆然と父を見上げた。
「余計な口を挟むな馬鹿者!!」
これまで自分に向けられたことのない父の罵声にペルデルは状況が全く理解できなかった。すると、場違いにもくすくすと笑い声が聞こえた。その声の主は恐らく自分と同年代のこの家の嫡男だろう。どこかで見たことのあるような顔だった。
「失礼。状況判断の出来なさ加減は学院時代と全く変わっていない、成長していないのだと思うと笑うしかなくて。こんな男が我が妹の夫だったなどと、怒りしか湧いてこない」
明らかに自分を蔑んだ目で自分を見る男に怒りを感じるとともに、学院時代という言葉に引っ掛かりを感じた。
「貴殿は覚えていないだろうが、学院の同窓だ。尤も一度も同じクラスになったことはないから私のことを知らずとも不思議ではない」
「あら、知らぬほうがおかしいでしょう。お兄様は総代だったのですもの。入学式や卒院式では代表の挨拶をなさったでしょう」
妻の言葉にやはりこの家の嫡男だと判明した男を改めて見やれば、ペルデルの記憶が苦い思いとともに蘇った。
そうだ、下位の伯爵家に過ぎないくせに優秀な自分を差し置いて総代だった男。同年の高位貴族は自分以外にはいなかったのだから、侯爵家の自分こそが総代にふさわしかったのに、その地位を掠め取った男だ。月の貴公子とやらの訳の判らぬ雅名で呼ばれ女子学生の人気を集め、学院一の頭脳と持て囃された気に食わない男だ。
「エクリプセ、マグノリア、止めなさい。無駄にしている時間が勿体ない。この後は陛下や王太子殿下とのお約束があるのだからね」
伯爵はそう言って我が子を窘め、視線をガラパダに向ける。ペルデルは無視された。
「オルガサン侯爵、どういうことだも何もない。今、ご子息がはっきりとご自分で不貞を認められたではないか。そちらの婚姻前契約違反。ゆえに離婚が認められた。それだけのことです」
離婚の成立。寝耳に水のそれにペルデルは喜びよりも戸惑いが勝った。