カヌーン魔導王国編

貶めて囲い込もうとする婚約者

「ねぇ、お兄様。婚約を解消する方法はないかしら」

 王都別邸タウンハウスのコンサバトリーで兄妹で午後のお茶を楽しんでいるとき、妹のアニークが兄のイステカーマに問いかけた。

「一体どうしたんだい、アニーク」

 凡その予想をつけながら、イステカーマは妹に詳しく話すように促す。そして、話を聞いたイステカーマは予想通りの内容に、いや、予想より酷い内容に内心憤りながら、貴族らしい食えない笑みを浮かべた。

「これの出番のようだね」

 イステカーマが異空間収納から取り出したのは分厚い『王国特殊法(最新版・第八十八版)』である。

 異空間収納魔法はラフマー公爵家の固有魔法だ。この有益な魔法を持つがゆえにラフマー家は公爵位を賜っている。何しろ当主か継嗣がいれば一万の軍勢半年分の糧食を時間停止状態で持ち運べるのである。時空門魔法を使う別の公爵家と揃えば、国境地帯まで行軍なしで軍勢を移動させられる。王国がこの二家を重用するのも無理はない。尤も戦をしなくなって久しい現在は主に貿易関係でこの魔法は活用されている。

「王国特殊法……。あ、わたくしの状況に合致する条項がございますの?」

「条項が多すぎるから判らないけれど……多分あるのではないかな」

「なんでもありの特殊法、ですものね」

「ああ。調べてみよう」

 兄妹は頷き合うと、それぞれに特殊法を読み込み始めた。なお、アニークの婚約に関連する第二章貴族編だけでもかなりの分量があるため、話を聞いていたイステカーマの侍従とアニークの侍女も手分けして関連条項を探すことになった。

 そして、とっぷりと日も暮れたころ、兄妹は顔を見合わせニンマリと笑ったのであった。

 

 

 

 アニークには婚約者がいる。ハージェス侯爵家の嫡男ナダムである。

 このナダムという男、表面的なものだけを見れば極上の男である。艶やかな金色の髪に新緑の瞳、鍛えられた体は獅子のようにしなやかで剣技に優れ、学院のトップクラスの成績をキープできるほどに頭脳明晰。表面的なものだけを見れば、完璧貴公子である。それだけに大層モテる。

 だが、中身はかなり残念な男であることをアニークの兄イステカーマはよく知っている。幼いころはヘタレだなと苦笑で済ませられていたが、どうやら思春期を経てかなり拗らせたらしい。残念だと苦笑していられる範囲を逸脱しているようだ。

『アニークは僕の婚約者だ! 僕だけを見てればいいんだ! 兄だからってアニークに近づくな!!』

 そんなことを言った婚約した当時の五歳であれば、まぁ笑ってもいられた。幼子ゆえの独占欲だと。なお当時アニークは三歳、イステカーマは九歳だった。

 ナダム十歳あたりから、現在の片鱗は見えていた。ナダムはやたらとアニークにだけ傲慢で上から目線だった。十歳ともなれば爵位の関係は理解している。だから、ナダムもイステカーマには丁重な態度をとるようになっていた。幼馴染・将来の義兄弟という気安さも多少はあったが、次期公爵と次期侯爵ではかなり違う。そのことを理解したと判る態度で接していた。

 王国貴族は公爵位と侯爵位の間に越えられない壁がある。侯爵位までは功績によって陞爵可能だが、公爵位は違う。建国以来公爵位を賜っている貴族の他は王族が臣籍降下した場合にのみ与えられる爵位なのだ。

 イステカーマに対する態度でそれを理解しているようなのに、アニークに対しては随分と態度が傲慢だった。

 しかし、アニークは然程気にしてはいなかった。政略結婚なのは理解していたし、貴族男性に男尊女卑する者が多いことも理解していたからだ。幸いラフマー家の男性にその傾向はないが、ハージェス侯爵が女性を馬鹿にしているのは何度か訪問しているうちに気付いた。そういう父親がいるのであれば息子もそうだろうと思ったのだ。

 だから、アニークは表面上はニコニコと侯爵父子に従いながら内心では舌を出し、やり過ごしていた。取り敢えず微笑んで従っていれば、あの父子はそれで満足するのだから、そうしておいた方が面倒が少なくて済む。そんな娘や妹の強かさに両親と兄は『流石は貴族の御令嬢だ』と苦笑していた。尤も両親は領地間の取引だとか宮廷闘争だとか少々仕返しをしていたようだが。飽くまでも上位者は自分たちであり、この婚約で利を得るのはそちらなのだから配慮せよと。

 だが、それは失敗だったのかもしれない。ますますナダムはアニークを支配下に置こうとした。いくら公爵夫妻が上位性を誇示しようと、アニークがナダムに従順であれば関係ないと思ったのだろう。そして、アニークは自分にベタ惚れで逆らえないのだから問題ないと、とんでもない勘違いをしていたらしい。

 ハージェス侯爵父子を増長させたのは各家の固有魔法が基本的には秘匿されているからだ。特に公爵家は国家に有益な魔法であることからどんな固有魔法を所持しているかを知るのは国の上層部の中でも更に一部だけとなる。侯爵以下ともなると、領地経営の中で他に知られることもあるし、攻撃系の魔法を持つ家は魔導学院でその魔力を態と誇示しようとする傾向にあるため、他家に知られていることも多い。

 だからか、他家に知られない固有魔法を所持している貴族家を内心馬鹿にする貴族もいる。自慢することも出来ないたいしたことのない魔法に違いないと勘違いする馬鹿が一定数いるのだ。上位貴族ほど隠されているということに気付けばそんな誤解をするはずもないのだが。

 ナダムの傲慢さが顕著に表れたのは、学院に入学してからのことだった。

 アニークは今年魔導学院に入学した。二歳年上のナダムは既に在学している。一応婚約者だからとアニークからナダムの教室に出向き挨拶をした。本当は教室まで出向く必要などなかった。交流棟のサロンで会えば済むのだ。通常は上位貴族ならばそうする。だが、ナダムは自分のほうが上だと突きつけるためにそう指示をしたのだ。アニークとしては一々反論するのも面倒臭いとそれに従っただけである。従っておけば満足するのだから。

「本当に君は私がいないと何も出来ないんだね。態々三年の教室まで来るなんて、クラスでは友達も出来なかったのだろう。本当に身分しか取り柄のない哀れな子だ。仕方ない、昼食を一緒に取ってあげるよ」

 指定された昼休みにナダムの教室を訪れれば、そんなことを言われた。何を言ってるんだ、こいつは……と内心呆れはしたが、アニークは表面上は微笑んだだけだった。尤も見る者が見ればそれは呆れ交じりの苦笑だと判っただろう。

「いいえ、ご挨拶に伺っただけですので。ナダム様にご迷惑をおかけするわけには参りませんわ」

 そう言ってアニークは一旦は断る。婚約者のことを好いているわけではないし、最低限の接触で済ませたいというのが本音だ。

「しかし」

 再度ナダムが誘おうとしたところで、ナダムの腕に絡みついていた女子生徒が割り込んだ。そう、ナダムは婚約者以外の女を侍らせ、それどころか婚約者であってもはしたないとされる親密すぎる距離で接していたのだ。

「あらぁ、ナダム様。いいではありませんか。ちゃんとご自分の御立場を弁えていらっしゃるのよ。ナダム様はいつも通りアタクシとご一緒しましょう」

 親密さを見せつけるように女子生徒──ガイラ・アドゥ子爵令嬢は言う。尤もアニークにとってはどうでもいいことだった。

 学院でこれまで二年間、ナダムがどう過ごしていたかはアニークを始めラフマー家も報告を受けている。学院にはラフマー公爵家の分家や寄子貴族もいるのだ。彼らからナダムの言動は報告されている。だから、ガイラの存在も知っていた。

「では、お邪魔いたしまして申し訳ございませんでした。失礼いたします」

 これ以上ナダムが何かを言う前にガイラの言葉に乗ってさっさと解放されようとアニークは挨拶をして踵を返した。全く執着も何もないあっさりとした態度だ。それに教室内にいた分家の子女は苦笑した。姫様判り易過ぎです、と。

 だが、あっさりと帰ってしまったアニークにナダムは呆然としていた。ナダムの計画ではこれからの一年、昼食は常に共にし、放課後にはサロンでお茶を楽しむつもりだった。これまでにない頻度での逢瀬にアニークは大喜びで同意するだろうと思っていたのだ。ガイラも余計なことをすると腹が立った。

「ナダム様も大変ね。身分しか取り柄のないあんな子が婚約者だなんて」

 ガイラは格上の公爵令嬢を馬鹿にするように言う。本来ならば許されることではないが、それが許されると勘違いする土壌をこの二年間でナダムが作り上げていた。

 身分は上だし容姿も美しいが、ただそれだけ。然程出来も良くなく、引っ込み思案で、ナダムがいなければ何もできない、ナダムに執着する従順なお人形。それが学院のナダム周辺でのアニークの評価だ。

 尤もそれを信じているのはナダム周辺だけで、当然分家や寄子の子女はそれがとんでもない間違いだということは知っている。うちの姫様は興味のあること以外はどうでもいいから、と彼らは判っているのだ。アニークが関心があるのは家族と一門とその領地だ。そして、魔方陣や魔道具研究だ。

 ナダムがアニークを引っ込み思案だと思っているのは、彼女がお茶会などの未成年者の社交に積極的ではないからだ。確かにアニークは必要最低限の社交しかしない。だが、それは引っ込み思案なのではなく面倒だから。そんな時間があれば研究をしたいとアニークは邸内の研究室兼工房に籠っているだけである。

「そう言わないでくれないか、ガイラ。政略とはいえ彼女は私の婚約者なんだから」

 ナダムは表面上は完璧な貴公子である。その彼が微笑んでそう言えば、ガイラを始めとして彼に好意を抱く女性陣は『ナダム様はお優しい』とうっとりとしている。ナダムは直接的にアニークを貶める発言はしない。優しく思いやり深い自分を演出しながら、ナダムのような優秀な人を煩わせるアニークは無能で役立たずなどうしようもない女と周囲に思わせているのだ。

 尤も高位貴族となれば、この程度の策謀など日常茶飯事のため、同じ侯爵位以上の子女たちは話半分で聞いて、ラフマー公爵家に少しでも優位に立ちたいのだろうと推測している。況してやアニークを知る同位の公爵家子女や分家・寄子の子女はナダムの浅ましさに彼との距離を取り、このままラフマー公爵家とハージェス侯爵家の縁談が継続されるかを疑問視していた。

 そもそもこの婚約はラフマー公爵家には特に益のないものだ。不利益もないから現在も継続しているに過ぎない。ハージェス侯爵家の前当主(ナダムの祖父)と国王がハージェス侯爵家にラフマー公爵家の固有魔法を取り込みたいという理由で結ばれた婚約だった。異空間収納魔法があれば、貿易や商売が容易になるし、利益も上がる。ゆえにラフマー公爵家を取り込みたい侯爵家と異空間収納魔法を持つ家を増やして貿易をもっと活発化したい王家が半ば無理やりに結んだ婚約なのだ。なお、現在のところ、婚姻によって他家に固有魔法が遺伝した例はない。

 王命の婚約であるから、ラフマー公爵家としても受け入れ継続しているだけだった。ハージェス侯爵家に何らかの瑕疵があれば破棄しても問題はないのである。それをハージェス侯爵家の現当主とナダムは理解していなかった。

 

 

 

 アニークが入学して半年もすると、アニークを馬鹿にする令嬢とそれを宥めつつも否定しないナダムは日常風景となっていた。

「アニーク、引き籠るのも大概にしたほうがいい。折角、アドゥ子爵令嬢が君をお茶会に招待してくれているのに、交友関係を広げようとしないのは次期ハージェス侯爵夫人としていかがかと思うよ」

 今日も今日とて、折角の昼休みに食堂で呼び止められてナダムに叱責を受ける。尤も叱責と思っているのはナダム一派だけで、アニークやまともな他の貴族は『何言ってんだ、こいつ』と首を傾げるしかない。

 ここは貴族の学院だ。一部平民もいるとはいえ、基本的に貴族社会のルールが適用される。つまり、名乗り合っていない者は仮令顔を知っていたとしても『見知らぬ者』扱いなのである。そして、上位貴族の許しがあって初めて下位貴族は名乗りが出来る。アニークはアドゥ子爵令嬢の存在は知っている。初対面時にナダムの腕にぶら下がっていた女子生徒だ。しかし、そのときに自分も彼女も名乗っていない。つまり『知り合いではない』。

 そして、知り合いではない限り、下位貴族が上位貴族をお茶会に招くことは出来ない。そもそも子爵や男爵の令嬢が公爵令嬢と同じ社交場に出ることは殆どない。王家主催の特別な夜会ではない限り、伯爵位以上の上位貴族と子爵位以下の下位貴族が同じお茶会や夜会に出ることはないのだ。

 国政に関与し領地を持つ上位貴族と、国政に関与できず上位貴族から領地を預かる下位貴族では役目も違い、知識もマナーも異なるのである。

 よって、ガイラ子爵令嬢アニーク公爵令嬢をお茶会に招くというのが有り得ない無礼なのである。それをアニークは招待状を無視するという手段で不問に付したのだ。招待状を無視する=そんな招待状は受け取っていない、つまりアドゥ子爵家がラフマー公爵家に無礼を働いた事実はないという温情措置である。

「君のような何も学ばない愚かな令嬢でも、私の婚約者だ。寛大な私は君を許そう。だから、ガイラに詫びて参加するんだ。いいね」

 それだけ言い捨てると(口調だけは諭すように優しかったが)、ナダムはガイラを伴って去って行く。ナダム派の取り巻きたちも一緒だ。

 きっとアニークは自分に見捨てられるのではないかと真っ青になっているだろう。嫉妬からガイラの招待を断ったことを後悔しているに違いない。一緒に昼食を取れなかったことにもショックを受けているだろう。これでアニークはますます俺に執着して愛されようとするはずだ。

 勘違い男のナダムはそんな妄想をしながら、ガイラの肩を抱き、いつも陣取っている窓際の席に着く。チラリとアニークたちがいた場所を見るが、既に彼女の姿はない。きっとショックを受けて食堂から出て行ったのだろう。可愛いところもあるではないか。ニヤニヤとにやけそうな顔を引き締めるため、ナダムは顰め面になる。

 そんなナダムをガイラたち取り巻きの女子生徒は無能な婚約者のせいでおいたわしいと同情し、あれこれと話しかけては気を引こうとする。また、ハージェス侯爵家の分家から側近としてついている男子生徒たちは、主の不器用な恋心に気付いており、『もー、うちの若様も素直じゃないなぁ。これぞ青春!』とのんきなことを考えていた。

「若様も素直じゃないけどさー、ちょっと考えれば溺愛してるの判りそうなのにな」

「目は口程に物を言うって言うしなぁ。あんだけ毎日のように若様が会いに行ってるんだから、ご令嬢も理解しても良さそうなのに」

「家じゃ蔑ろにされてるらしいし、愛情に慣れてないから判んないのかも」

「若様の深い愛情に気付けば幸せになれるのになぁ」

 そんなのんきな会話をしていた側近たちは後に、自分たちの思い違いが若様の恋を無残に散らせることになったのだと思い知ることになる。

 なお、ナダムが去った後、アニークはさっさと特別室に移動しており、直ぐにナダムの存在を忘れて友人たちと次の魔道具研究について楽しく議論を交わすのだった。

 

 

 

「これはどういうことだ、アニーク!!」

 とある日の朝。アニークの教室にナダムが駆け込んできた。いつもきっちりと撫でつけられている髪が乱れているところを見ると余程焦っているのだろう。

「もう婚約者ではありませんので、名前の呼び捨てはおやめください、ハージェス卿。ラフマー公爵令嬢とお呼びください」

 まずは明確に自分の立ち位置を伝え、アニークはナダムに対峙する。

「婚約者ではない、とはどういうことだと聞いている!」

 ナダムの手には手紙らしきものが握られている。昨晩実家から届けられたものだった。

「ご実家から連絡があったのではございませんか? そこにある通り、わたくしたちは婚約者ではなくなりました」

 こんなに衆目のあるところでする話ではない。場所を移そうと提案したが、ナダムはそれを受け入れようとせず、どういうことだと言うばかりだ。アニークは側近に目配せし、側近が即座に通信魔法で公爵家当主へとお伺いを立てる。状況を伝え、学院の教室という場で全てを明らかにしても良いかと。こちらには瑕疵はないから問題ないとの公爵の許しを得て、アニークは仕方なくそのまま話を続けることにした。

「ご実家からのお手紙に詳しい事情の説明はなかったのですか?」

「俺の瑕疵による婚約破棄だと……! 俺の何処に瑕疵がある!!」

 冷静に問いかけるアニークに対して、ナダムには冷静さの欠片もない。大声で怒鳴りつけるナダムのせいで教室の外には野次馬の人垣が出来ている。その中には当然、ガイラたちナダム一派もいた。

「王国特殊法 第二章貴族編 第二項 第六百二十一条、第六百二十二条、第六百二十三条」

「え……?」

 いきなり特殊法の条項を告げられてナダムは勢いをそがれた。何故今、そんなものが出てくるのか判らなかった。

「お判りにならなりませんの? 婚約してから十年、ハージェス卿の行いがこれらに該当すると、監督局が承認しました。ゆえにハージェス卿有責での婚約破棄が認められましたのよ」

「だが、俺は捕まってもいないし、取り調べを受けたわけじゃない! なのに有責が認められるなんて可笑しいだろう!!」

「まだ捕まっていないというだけですわね」

 本来、捕縛まで婚約破棄は加害者の関係者には知らせないはずだ。なのにナダムは実家から婚約破棄の連絡を受けている。まだハージェス侯爵家にも知らされていないはずのことを、彼らは知っていることになる。これは数年ぶりに神罰による監督局職員死亡が起きるかもしれない。

「その通りです。ラフマー公爵令嬢、ご迷惑をおかけしました」

 野次馬人垣の外から壮年男性の声が告げる。どうやらナダムを捕縛するために取締官が派遣されたようだ。

「いいえ、ご苦労様です。ですが、捕縛情報が洩れているようですわ。そちらもこれから大変でしょうね」

「情けないことですが、既に神罰が下っております。監督局も綱紀粛正が必要なようです」

 取締官はアニークに一礼すると、ナダムに向き直った。

「ハージェス侯爵家長男ナダム、王国特殊法 第六百二十一条 婚約者・配偶者による中傷・名誉棄損、第六百二十二条 婚約者・配偶者による精神的虐待、第六百二十三条 婚約・婚姻関係の不当な優位性保持により捕縛します」

「なっなっ……なんで、俺が何を……違う、俺はただ」

 取り乱し意味のなさない言葉を繰り返すナダムを取締官は拘束すると、連行していった。

 残されたのは中途半端に好奇心を煽られた野次馬と呆然とするナダム一派だった。アニークに人が殺到する前に教師陣が生徒たちを教室に戻るように促し、アニークは混乱を避けるため、また今後のためにと実家への一時帰宅が許されたのであった。

 

 

 

 ナダムとアニークの婚約は無事ナダム有責で破棄となった。王国特殊法に違反しているとなれば、仮令王命の婚約でも破棄できる。破棄となったことで原因のハージェス侯爵家は王命違反の罰を受け、爵位を伯爵へと落とすことになった。

「ナダムも馬鹿だね。素直にアニークを好きだと告げて、真っ当な愛情を示せばよかったんだ」

 全てが終わり、兄妹のお茶会でイステカーマは言う。それにアニークも微笑んで頷く。

「好きな子を苛めて、どうして好かれると思うのでしょうね。日ごろから事実無根の思い込みで馬鹿にされて、蔑ろにされて、どうして好意が持てると思うのかしら」

「アニークの評判を落として、自分だけを頼りにさせたかったらしいよ。あれでアニークを優しく諭して導いているつもりだったそうだ。馬鹿じゃないのか」

「馬鹿ですわよ。あの方、わたくしの表面しか見ておられませんもの」

 要は外見が好みで中身には興味がなかったのだろう。アニークの外見は儚げで大人しそうで守ってやりたくなる少女に見える。ハージェス侯爵父子の面倒な男尊女卑思想を知っていたから、表面上ハイハイと従っていたことからも誤解していたらしい。

「アニークは公爵家のお荷物で、家族に蔑ろにされているから、自分にだけ依存させたかったらしいよ」

「なんですの、それ。わたくしがお父様にもお母様にもお兄様にも愛されていないなんて、どこをどう見たらそんな頓珍漢な誤解をするんですの? 時々家出したくなるほど鬱陶しいほどに溺愛されておりますわよ」

「家出なんてしたら王都中で泣き叫んで探すからね。学院の寮に入ってるだけでも寂しいのに」

「やめてくださいまし、お兄様。それで、あの人がそんな誤解をしていた理由はご存じ?」

「うちの両親は仕事柄年中飛び回ってるだろう? それを彼は両親も私も領地にいるんだと思っていたらしい。それでアニークだけが王都にいるから、アニークは領地に帰ることを許されていないと思ったそうだ。一人で王都に放置されているから、愛されていないと思ったようだね」

「お父様たちは異空間収納魔法の関係で世界中を飛び回っておられますものね。お兄様は領主代理として領地にいらっしゃることも多いですし。わたくしは王立図書館や王立魔導院に行くのに都合が良いから王都に残っているだけでしたのに。変な誤解と妙な思い込みをなさっていたのね」

「まぁ、アニークが領地に来るときはいつも転移魔方陣を使っていたし、私たちも領地から戻ってくるときには魔方陣を使うからね。頻繁に戻ってきていても他家は気づかないだろうね」

 実際王都別邸に公爵家の馬車の出入りがないことでナダムはそう誤解していた。愛されず蔑ろにされているアニークならば、自分に依存させればいいと歪んだ想いを抱いていたのだ。

「転移魔方陣は我が家と監督局にしかないからね。監督局に導入されたのも去年からだし。まさかたった十歳で魔方陣をくみ上げるとは思わなかったよ。私の妹は稀代の天才だ」

 物心ついたころからアニークは魔法に興味津々だった。魔力量も多いため、有能な魔術師であった母が付きっ切りで魔法の指導をしたほどだ。娘の天才ぶりに狂喜した母はそれから自分の持てる全ての知識を娘に教え込んだ。

 七歳になるころには独自に様々な魔方陣を編み上げるようになり、これまで実用化できなかった転移魔方陣を十歳で作り上げた。それによって内密に王国特殊法監督局魔法技官に任命されている。

 魔法技官として現在は取締官がその場にいなくても捕縛できる捕縛魔方陣と、到着地点を固定せず、どこでも指定できる転移魔方陣の開発を進めている。王都別邸の魔方陣は領地本邸としか行き来出来ない到着地点限定の魔方陣なので、利便性を高めたいと日々研究に邁進している。

 だから、彼女は殆ど子供の社交場にも出なかったし、現在もほぼ引き籠りなのだ。

「ナダムは廃嫡されたけど除籍はされていないから、領地で騎士か文官をすることになるだろうね。そうそう、降爵によって返上された侯爵領の一部だけど、アニークが気にしていた霊山と湖は王立魔導院の管理下におかれることになったよ」

 ナダムの処罰は賠償金支払いだ。彼が犯した罪は成人であれば強制労働が課されるものだ。しかし、学院を卒業していない場合は十六歳の成人年齢を過ぎていても罪一等を減じられる。特に彼が犯した条項は『青年期ゆえの恋愛感情拗らせ』が理由の大半であることから、ある程度人生建て直しが出来るような処罰が為されるのだ。尤も、公爵令嬢への名誉棄損なので賠償金は相当な額になる。それは実家が侯爵から伯爵になったことで身の丈に合わない贅沢品を売却して捻出し、既に支払いを終えている。

 また、今回特殊法で裁かれてはいないが、幾人かの学生はアニークへの侮辱罪や名誉棄損で処罰されている。殆どは賠償金の支払いだが、中には廃嫡された者や修道院へ送られた者もいる。アドゥ子爵家のガイラなどはナダムの不貞相手と見られたこともあって、除籍の上修道院へと送られた。流石に学院であれだけナダムにべったりとしていたのだ。今更別の嫁ぎ先など見つかりようもないし、公爵令嬢を侮辱した嫁など迎えたい家もない。

 ラフマー公爵は受け取った多額の賠償金で領地にアニークの研究所を作った。そこには王国特殊法監督局と王立魔導院、王都別邸と繋がった転移魔方陣が設置されている。これは一つの魔方陣に転移先を三つ登録することが出来、これまでよりも一つ進んだ魔方陣となった。

 アニーク・ラフマーはこの研究所で生涯魔方陣や魔道具の研究に邁進し、その研究成果は後の監督局の業務遂行に大いに役立つのであった。

 

 

 

今回の王国特殊法

第六百二十一条 婚約者・配偶者による中傷・名誉棄損
いかなる理由があれ、中傷や名誉棄損は罪である。それは家及び一門を中傷し名誉を棄損する行為に他ならない。それが婚約者・配偶者によるものであれば、婚姻関係の優位性保持のために行われると見做されきわめて悪質である。
第六百二十二条 婚約者・配偶者による虐待
いかなる理由があれ、身体的・精神的虐待は傷害罪である。婚約者・配偶者におけ身体的・精神的虐待は相手を支配するためのものであり、それは婚姻関係の優位性保持のために行われるものと見做されきわめて悪質である。
第六百二十三条 婚約・婚姻関係の不当な優位性保持
契約によらない優位性には何の根拠もなく、不当なものである。これを第六百二十一条・第六百二十二条により行うものは悪辣であり、行う者の有責にて婚約・婚姻関係を破棄・解消できるものとする。