その日、ブリュイアンは当主補佐教育のためにクゥクー公爵邸を訪れていた。
当主教育(本当は補佐教育だがブリュイアンは誤認している)をサボり、庭をそぞろ歩いていた。
教育係はサボっても何も言わない。きっと自分が優秀だから教育課程はほぼ終わったということだろう。そんな風に自分に都合よくブリュイアンは考えていた。
このとき既にクゥクー公爵家では彼との婚約解消を視野に動いており、彼が教育をサボっても何も言わなくなっていた。当然のようにフィエリテとのお茶会もなくなっていたが、元々フィエリテを気に入らないブリュイアンは特に気にしなかった。
庭を散策していたブリュイアンは見慣れぬものに足を止めた。これまで奥庭には来たことがなく、それを見るのは初めてだった。それは鉄柵に囲まれた別館だった。
別館の狭い庭に一人の少女がいる。きつい顔つきの婚約者と違って、愛らしい少女だった。
「もしかして、お姉様の婚約者?」
少女は鈴を転がすような可愛い声で尋ねてきた。いきなり声をかけるなど無礼だと思ったが、フィエリテを姉というならこの娘も公爵令嬢のはず。ならば仕方ないとブリュイアンは思った。
「ええ、コシュマール侯爵家のブリュイアン・コレリック・ド・フォルミと申します。あなたは?」
一応の礼儀を守って一礼し、ブリュイアンは尋ねる。今まで社交界で彼女を見たことはない。こんな離れに住んでいるらしいことから何かの事情があるのだろう。
「あたしは、クゥクー公爵家のメプリ・リュゼ・ド・クゥクーよ」
そう少女は名乗った。
ここでブリュイアンは気づかなければならなかった。クゥクー公爵家の家名はクゥクーではない。シュエットだ。だから名乗るのであればメプリ・リュゼ・ド・シュエットであるべきなのだ。
この娘が貴族のルールも常識も何も知らないということにブリュイアンは気づかなかった。
「ブリュイアン、フィエリテの相手は大変だよね」
まるで平民のような言葉遣いにブリュイアンは面食らう。でもそれが気取ったフィエリテとは違って可愛らしく思えた。いきなり名前の呼び捨てをされたことも気にならないほど。
そして、先ほどは『お姉様』と呼んでいたフィエリテのことを呼び捨てにしていることも気にならなかった。どうやらフィエリテとは仲が悪いようだ。当然だろう、あんな高慢ちきで嫌味な女など誰が好くものか。
「どうして令嬢がこんな離れにいるんだい、メプリ嬢」
「メプリ嬢とかやめて。リュゼって呼んでよ。メプリってなんだか可愛くないんだもの」
ブリュイアンにとっては天真爛漫に見える笑みを浮かべ、メプリはセカンドネーム呼びを願う。
貴族社会においてそれは家族と婚約者以外は呼べぬ名だ。それが男女間のともなれば肉体関係があることを暗に示すものでもある。当然ながらそんな貴族の暗黙の了解など二人は理解していなかった。
元々メプリはブリュイアンのことを一方的に知っていた。異母姉が時折庭でこの男とお茶を飲んでいたからだ。
使用人によれば婚約者だという。こんなに美しい男はあんな底意地の悪い異母姉には勿体ないと思った。
だからチャンスを作って奪ってやろうと決めていた。そのチャンスがやってきたのだ。
メプリは自分の美点である愛らしさと天真爛漫さを生かして、お高くとまったフィエリテとは真逆の親しみやすさを前面に出してブリュイアンに対した。
なお、伯爵邸である別館は奥庭の最奥にある。その周辺は高い鉄柵で囲まれ、唯一の門には別館の中を監視するための門番がいる。フィエリテへの無礼が度重なった結果、このような措置になっていた。
そんな本館に警戒されているヴュルギャリテとメプリであるから、基本的に別館敷地内からは出ることが出来ない。だが、数日に一度は公爵邸の庭の散策が許されている。その際には護衛の衛士が付き添う。
メプリは庭の散策くらい自由にしたかったが、父からお前の身を守るためだと言われて満足した。お父様はあたしのことを心配してるんだと。
実際にはメプリが何か仕出かすことを警戒しての監視役だ。何も理解していない我儘なメプリが万が一にもフィエリテと接触しないように、という
なお、質の低い使用人だけではヴュルギャリテとメプリを制御できないと本館から執事とメイド長も派遣されている。一見無害で役に立たない老人たちに見えるが、実は先々代公爵であるフィエリテの祖母の腹心で、衛士と合わせて別館の監視と制御を行なっているのだ。
「フィエリテが意地悪なの。お母様はちゃんとお父様の妻なのに、愛人だって見下して、あたしのことも馬鹿にして、ここに閉じ込めてるの。酷いよね」
出会ったこの時点ではまだペルセヴェランスは再婚していない。つまりヴュルギャリテは愛人だ。
別館に閉じ込められているのは公爵邸を乗っ取ろうと画策しているヴュルギャリテを警戒して、フィエリテの祖母と伯父とペルセヴェランスの合意の上で為したことである。そして、この時点ではフィエリテとメプリの交流は全くなかった。
つまり、フィエリテは無実であり、全てはメプリの思い込みだ。
しかし、それをブリュイアンは信じた。元々フィエリテを嫌っている男だ。メプリの話は彼にとっても都合が良かった。自分が婚約者を嫌うことを正当化されたように感じたのだ。
それからは坂道を転がるようにブリュイアンとメプリの関係は親密になっていった。メプリの捏造したフィエリテによる苛めをブリュイアンは信じ、可憐で繊細なメプリを守れるのは自分しかいないのだと思い込んだ。
ブリュイアンが別館に入り浸っていることは全て門番と監視役の執事によってフィエリテとペルセヴェランスに報告されているとも知らずに。