わたくしの『婚約者ではない』という言葉に呆然としていたエルナンド皇子はクラウスとヴォルフガングの言葉で我に返り、『自分が皇太子なのだからお前は私の婚約者だ』と主張なさいました。
ですから、いつあなたが皇太子になったというのでしょう。立太子礼も執り行っておりませんのに。第一、エルナンド皇子は皇位継承の条件を満たしていないではないですか。
溜息を扇で隠しておりますと、わたくしの前にすっとお兄様が出られました。その背にわたくしを庇うように。
お兄様が前面に出られたのを見て周囲の貴族の方々が溜息を付かれます。その表情は『ああ、これでエルナンド皇子も終わったな』でしょうか。
お兄様は現在財務省で文官を務めておられます。出仕した当初は司法省に勤めておられましたが、今は所属が変わっております。恐らく次期皇帝の御即位までにさらにいくつかの省庁を回り実務経験を積まれることでしょう。将来の宰相候補として、次期皇帝の片腕として。
弱冠22歳とはいえ、お兄様は既に宮廷内での地位を確立しておられますし、その能力と性格から冷徹な政治家として知られておりますものね。
「あなたは皇太子ではありませんよ」
呆れを隠さず、また大変冷たい声でお兄様はエルナンド皇子に突き付けます。恐らくエルナンド皇子を見るお兄様の眼は絶対零度の冷たいものになっているだろうと感じさせる声でした。
「何を根拠に私が皇太子ではないというのだ! 皇后唯一の子である私が皇太子でなくなんだというのだ!」
お兄様の言葉にエルナンド皇子はまた喚き返します。
といいますか、エルナンド皇子、ご自身の母君が皇妃だと思っておられたのですか。なんて図々しくも愚かなこと! 第一我が国では『皇后』とは申しませんのに。エルナンド皇子の教育係は何を教えていたのでしょう。
エルナンド皇子のこの発言にお兄様の声は更に冷たくなります。表情は見えませんけれど、表面上は穏やかに微笑みながら射殺すような鋭い眼を向けておられるのでしょう。エルナンド皇子のこの言葉は四神公爵家の者としては聞き捨てならぬものでございますものね。
「そもそもあなたの母であるダルシェナ才人はその名の通り才人であって、皇妃でありませんよ。才人は愛人の中で最下位の地位にある者に与えられる役職です。まさかご存じなかったのですか?」
お兄様の声は凍り付きそうなほど冷たいものです。当然ですわ。ダルシェナ才人を皇妃というなど、由緒正しく功多き四神公爵家を馬鹿にしているとしか思えません。
ダルシェナ王国から後宮入りしたカトリーナ・ダルシェナは妃ではなく、愛妾でございます。
フィアナ皇国の後宮にはそこに入る女性の明確なランク付けがなされております。トップに立つのは正妃である皇妃。それから側妃である貴妃・淑妃・徳妃・賢妃までが正式な妃つまり妻として認められます。また皇妃になるには条件がございますので、それを満たす者がいない場合は皇妃不在で貴妃が正妃扱いとなります。
そして四夫人(貴妃・淑妃・徳妃・賢妃)の後に続くのが三嬪(昭媛・修媛・充媛)・二世婦(美人・才人)でございます。皇妃と四夫人は各一名、それ以外には定員はなく、三嬪と二世婦は愛妾であり妃(妻)ではございません。なお、現在充媛と美人はおらず、現皇帝陛下の後宮には7人の女性がおられます。
妃である皇妃と四夫人に係る費用は国家予算から支払われますが、愛妾である三嬪と二世婦の費用は皇家の個人資産又は実家からの私費で賄われます。それだけ明確な差があるのです。
ですから、世婦の中でも最下位である愛人に過ぎない才人のダルシェナ才人が皇后を名乗るなどあってはならないことでございます。
他国の王女が愛妾というのは外交的にもどうなのかと思われるかもしれませんが、問題はございません。ダルシェナ王国は一見独立国家のようではございますけれど、フィアナ皇国の支配下にある属国でございますし、我がクロンティリス公爵領の10分の1にも満たない国力しか持たぬ、吹けば飛ぶような小国でございます。
その小国が何を思ったか20年ほど前に皇国に攻め入り、ヴァストーク公爵家軍を中心とした討伐軍に一時間ほどで鎮圧され情けないほどあっさりと降伏いたしました。
敗戦の責任を取って当時の国王は息子に譲位、新国王は改めてフィアナ皇帝に従属を誓い、その証として人質に妹王女の1人を差し出したのです。
既に愛妻のノイラート貴妃のおられた皇帝陛下は要らぬと仰せになったそうですが、ダルシェナ王国はごり押しにごり押しを重ね、正式な妃ではなく愛妾の最下位である才人でよいからという条件で入内が許されたのです。
まさかとは思いますが、ダルシェナ才人はご自分が皇妃だと勘違いしていらっしゃるのでしょうか。確かに現皇帝陛下に皇妃はおられませんし、後宮にいる女性はダルシェナ才人以外は国内貴族の令嬢ばかりでしたから、唯一の王族だから皇妃であると勘違いしているとか?
いえ、まさか、そんなことはございませんよね? 皇妃であれば当然の公式行事に出席は許されておりませんし、皇妃であれば当然の皇宮正殿住まいではなく正殿から最も遠い離宮が与えられているのですから。
「母上はダルシェナ王国の王女だ。唯一の王族だ。後宮で最も尊い血筋で身分が高いはずだ。その母上が皇后ではないだと? そんなはずは……」
次から次へと知らされる知らなかった皇家の決まり事にエルナンド皇子は頭が混乱しているようです。ですが、わたくしとの婚約含め、お兄様が告げたことは皇国の国民なら知っていて当然の常識でございますのに。
属国とはいえ一応他国の王女ではございますが、ダルシェナ国王女ではそれほどの価値はございません。精々高く見積もっても国内下位貴族程度、男爵家か騎士爵家程度の扱いですわね。ですから、ダルシェナ才人の地位は何ら不当なものではなく正当であり妥当なものでございます。
それでもご本人が優れた方であれば扱いも変わっておりましたでしょうに。三嬪や二世婦は本人の才覚によって位を上げることは可能です。同じ才人であった方でも、その優れた外交手腕によって妃となられたルーディエル賢妃や、美貌を武器に愛妾最高位となられたマイスナー昭媛のように。
入内して20年が経つというのに才人のままであるのは、ダルシェナ才人がそれだけの価値しかないということをご自身で証明しているのです。
「皇妃には四神公爵家直系令嬢でなければなれません。現皇帝陛下の代は直系全員男でしたから、皇妃は不在です。ノイラート貴妃が事実上の正妃ですね」
そう、わたくしが次期皇妃候補というのはこのためですわ。現在、四神公爵家直系令嬢はわたくしだけ。ですから、皇妃となれる女はフィアナ全土でわたくしだけなのです。
尤も、皇位継承条件を皇女が満たせば女帝となることも可能ですし、その場合は皇配にはお兄様か幼馴染3人の誰かが選ばれることになるのでしょうけれど。
いい加減、自分が皇太子ではないことも、わたくしが婚約者でないことも理解するか、真偽を確かめるために皇宮に戻り陛下とお話になるか為さればいいのに。腕にしがみついて呆然としているゲアリンデと一緒に。
何も知らない、皇族としては有り得ない馬鹿皇子の茶番劇を見せられ付き合わされている皆様も本当にお気の毒ですわ。