長い沈黙の後、メアリーはのろのろと顔を上げます。わたくしが紅茶を二杯飲むほどの時間、彼女は熟考していました。
「あんたの言うこと、なんとなく嘘じゃなくて本当にそうなるんだって判った気がする。家庭教師も散々言ってたし。でも、私はヒロインだから関係ないって思ってた」
どうやらメアリーは家庭教師から教えられたことは理解はしていたようです。けれど、自分はヒロインだから無視しても問題ないと考えていたということですか。これぞお花畑乙女ゲーム脳ですわね。
けれど、どうやらそれも改善の兆しが見られた様子。安心いたしましたわ。
ならばこれからのためにわたくしから前世とは異なる常識を追加で教えて差し上げましょう。前世では一般人には馴染みのない社交界と貴族の夫人としての務めを。
そう告げると、メアリーは真面目な表情で頷き、『よろしくお願いします』と頭を下げました。ほんの数分前までとは随分な違いですこと。
それからわたくしは貴族の令嬢或いは夫人としての役目についてお話しいたしました。平民であった彼女の母親は一切の社交を行なっておられませんから、彼女に教えることは出来ませんし。
公爵家と男爵家では出入りする夜会や茶会が異なりますけれど、メアリーをわたくしの女官にするのであれば上位貴族の社交について学んだほうが今後のためですもの。
「まず、あなたが抱いているイメージは間違いだということをお伝えしておきますわ。平民の方や下位貴族の方には多い誤解ではございますけれどね」
散々メアリーは殿下やお兄様、エドワードと結婚して贅沢に暮らすということを言っていました。確かに贅沢な暮らしは出来ますわよ。でもそれは義務を果たしてこそです。
それにある意味贅沢をすることも義務とも言えますわね。お金をたくさん使うことで経済を回す。貴族が金を貯め込んでしまえば、市場にお金は回りませんもの。
勿論、過度な贅沢は嫌われます。けれど、吝嗇な生活をする貴族はもっと軽蔑されますの。領地の整備や活性化、様々なより良い領政のための支出は当然のことで、それを怠る貴族は貴族たる資格なしですわ。清貧の名を騙った吝嗇な貴族は使用人の数を最小限に抑えたりするそうで、これも問題ありでございますわね。
使用人を多く雇うことにも意味があります。使用人は役割ごとに分かれております。執事に家令、従僕、衛士、庭師に料理人、給仕、侍女、メイド、下働き。下働きも掃除係や洗濯係など役目に分かれております。これらは雇用の創出でもあるのです。上級使用人は貴族家の三男・次女以下の、下級使用人は平民の。
それを取りまとめるのはその家の夫人の役割です。
「え、使用人が貴族なの?」
「メアリーさん、お言葉遣い」
素のままの言葉遣いをするメアリーを窘めます。おいおい修正していければよいでしょうけれど。
「左様ですね。我が公爵家であれば、執事や家令は代々仕えている子爵家ですわね。侍女や従僕、上級メイドですと基本的に伯爵家か子爵家の三男・次女以降です。下働きですと平民となりますわ。そのように雇いますから」
当主の家族に直接接する上級の使用人たちは基本的に貴族です。公爵家ですと大抵が伯爵家で一部子爵家といったところでしょうか。侯爵家ではほぼ子爵家一部男爵家、伯爵家であれば男爵家。大体二階級下の貴族出身がメインですわね。子爵家や男爵家では裕福な平民(主に商家)が多いそうですわ。
「じゃあ、もしマットやエド攻略して結婚したら出身は私が一番身分低いってこと?」
そうなりますわね。でも、お兄様を勝手に愛称で呼ぶのはおやめくださいな。
「ええ、ですから、使用人に嘗められないように淑女教育を頑張らなくてはなりませんわよ。上位貴族の妻を狙うのでしたらね。女官も相応の作法を求められますから、しっかりと学ばれませ」
いっそメアリーを我が家で行儀見習いを兼ねて雇いましょうか。メイドの一部は行儀見習いの一時雇用ですし、そこにメアリーを加えて実地で学ばせるのもよろしいかもしれません。
「それに今のお振舞いでは一瞬で社交界から弾かれてしまいますわよ。前世の仲間外れや庶民の嫌がらせなど生温いほどにえげつない弾かれ方をいたしますわ。表面上はにこやかに、陰ではあることないこと針小棒大にして嘲笑って見下して、気づけば社交界で孤立しているなんてことも珍しくはありませんわ」
「マジで?」
……今日は言葉遣いには目を瞑りましょう。
「その例が身近におられますでしょう。あなたのお母様」
「えっ、ママ?」
どうやらご存じなかったようですわね。
彼女の母親は再婚当初は伯爵家以下の茶会や夜会に招かれていたそうですの。けれど、余りなお振舞いに早々に弾かれてしまったそうですわ。以後全く招待もなく、それを知った男爵が家でお茶会を開くことも禁じられたとか。
「お母様はある意味お気の毒でもあるわ。淑女教育を受けておられませんから、何もご存じなかったの」
それでも有り得ないお振舞いだったとわたくしの耳にも入っておりますけれど。けれど、事前に男爵がきちんと教育を授け役目を教えていれば、一切の社交場に招かれないなどということにはならなかったでしょうに。
「ですから、あなたはしっかりと学ばれませ」
わたくしの女官になるのであれば、あなたが侮られることは即ちわたくしが侮られるということですものね。そんなことにならないようにしっかりと学んでいただきますわよ。