払暁の森林にエリン防衛軍は陣を敷いていた。エリンとヴァゴンのほぼ中間地点。北に1サギール(約3キロメートル)ほど進めばフェストラントケイブがある。後方エリン側約2サギールには最終防衛線となる後陣が置かれている。
街道の先にはファナティコス軍が見える。間もなく戦いの火蓋が切って落とされようとしている。
この日のために何度も軍議を重ねてきた。ファナティコスに潜入している諜者から齎される情報によって作戦は定められている。
「コヴァスは緻密な作戦行動は苦手だ。基本的に力で圧倒して押し潰す。今回もそうらしいな」
ミストフォロスの言葉にイオニアスが頷く。
「うちの間者が得た情報ではそうです。今回の副将はポレヴィトだから同じく綿密な作戦を立てる将ではありません。参謀型のポレヌトを残してくれたのは運が良かった」
勿論、運が良くなるようにイオニアスが手を打ち、それが功を奏したのだがそれには触れない。触れずとも皆大凡察している。
「しかしよく陣容やら作戦やら判ったな。流石は月白のスコルか」
情報は命だ。東方の古代帝国の兵法書にあるとおりなのだ。『敵を知り己を知れば百戦危うからず』と。
「ファーナティクスはアンスロポスを見下してますからね。それゆえの油断があるんですよ。我々が何も出来るはずがないと高をくくっている。確かにアンスロポスは知性も戦闘能力もエルフやダークエルフには劣ります。でもその分知恵を使い策を巡らす。使えるもの何だって使う。ファーナティクスにはない交渉能力もあれば、しぶとさもあるんです」
スコルに相応しい冷酷な笑みを刷き、イオニアスは言う。
「ま、その油断が命取りってわけだ。だが、コヴァスの自信も根拠がないわけじゃない。それだけの実力を持ってるからな」
魔獣兵団5000の兵力は侮れないとミストフォロスは言う。これを撃退せねばならないのだ。
「一番手っ取り早いのはコヴァスを潰すことだな」
「けど、仮にも総大将だ。前線には出てこないだろ」
「そこのところはどうですか、フォロスさん、ガナトフ老」
総指揮官となるイディオフィリアがコヴァスを知るミストフォロスと魔獣兵団との交戦経験を持つガナトフに尋ねる。
「自分が前線に出る型の将だな。それで兵の士気を鼓舞する。流石に軍王になったんだから最前線には出てこないとは思うが」
「20年前は副将の魔獣団長であったゆえ、最前線で猛を振るっておりましたな。梃子摺らされましたわい」
ふたりの言葉にイディオフィリアは沈思する。やがて顔を上げると集った将たちを見た。
「今回無事にエリンを守れたとしても、またすぐ次のファナティコスが来るんじゃ意味はないんだ。当分手出し出来ないって思わせないと。そのためにも今回コヴァスは倒したい。命を奪えるのが理想だな。そうすれば魔獣兵団は大損害を受ける。ポレヴィトは生かしておいたほうがいいかな。コヴァスが死んでも魔獣兵団がなくなるわけじゃないし」
イディオフィリアは淡々とした口調で告げる。ずっと戦いの先のことを考えていた。出来るだけ長くファナティコスの脅威を取り除きたい。魔獣兵団を撃退してもファナティコスにはまだヴェルペィヤの魔霊軍、ヤロヴィートの暗殺軍、トリグラフの冥法軍がいる。コヴァスの魔獣軍とて半数は無傷でファナティコスにあるのだ。撃退しても復讐戦を起こされたのでは意味がない。だから、イディオフィリアはパーシヴァルやミストフォロス、セアドの助言を受けながら考えた。祖父に叩き込まれた歴史や軍略を思い出しながら。
「ファナティコスは今、コヴァス・ヴェルペィヤ陣営とヤロヴィート・トリグラフ陣営で権力争いしてる。コヴァスが消えればヴェルペィヤは一気に不利になる。でも女性ながらに男たちと渡り合って軍王になってるヴェルペィヤが
イディオフィリアの紡ぎだす予測にイオニアスはニヤリと笑った。自分たちが与えた情報から既にここまで思考を進めていたイディオフィリアに満足して。他方、バレンティアら3人の王族は呆然としている。まさかイディオフィリアが戦いの後のことまで考えているとは思わなかったのだ。自分たちとて戦って勝つこと、そこまでしか考えていなかったというのに。
「流石は我が君。あの方の御子ですね。誰に言われるまでもなく先のことを考えておられるとは」
隣にしか聞こえぬ小さな声でパーシヴァルは呟く。
「ああ。王の視点だな。或いは宰相か。国を導く者の眼だ」
アルノルトが同意するように頷く。
「ユリウス卿の直弟子って感じだな。相手の不和を利用して民の安全を図るってのはあの御仁がよく使った策だ」
伊達に20年ユリウスの教育を受けていたわけではないとミストフォロスは思う。ユリウスは歴代の中で最も有能な宰相のひとりだ。
「イディオフィリア卿の仰るとおりだと思います。コヴァスを倒せば総大将を失った魔獣軍は撤退せざるを得ない。コヴァス無くして戦いを継続できるような指揮官はいません。自らの力に驕っているファナティコスが軍王を失えば、その衝撃は計り知れませんからね。では基本的な方針としてはコヴァスを最前線に引きずり出し、孤立させ、その
一同を見渡し、イオニアスが確認する。反対する者はいない。
「ではコヴァスに対する者を決めねばなりませんね。特級の4人はアストヴィダーツ戦がありますから、それ以外で」
「じゃあ、俺から推薦させてもらう」
イオニアスの言を受けてミストフォロスが手を上げる。彼が推薦したのは【トリスケリオン】の4名。セアド、ヴァルター、ティラドール、フィネガスだった。
「コヴァスと護衛兵相手なら首領級叩くのと戦い方は同じだからな。この4人なら充分戦える。でもあと4~5人はほしい」
「ならばうちからふたり。アフセンディアのバルクークとプロフィティスのヴァンジェロを」
「うちからはバトゥーザを行かせよう」
クロンティリス兄弟がそれぞれの部下を推薦する。
「じゃあ、うちからはエルフのヴェロスを。火魔法の使い手だから支援魔法が使えるわ」
「なら、俺も行くわ。血盟主もひとりいたほうがいいだろ。そうすりゃドロが使えるから楽になる」
グラーティアとディレットも発言する。こうしてコヴァス戦にはディレット・セアド・ヴァルター・ティラドール・フィネガス・バトゥーザ・バルクーク・ヴァンジェロ・ヴェロスの9人が向かうことになった。
「戦いはもう間もなくだ。エリンを守り、ファナティコスの脅威を出来るだけ長く抑えるために、皆力を尽くしましょう」
最後にイディオフィリアがそう締め括り、一同は力強く頷いたのだった。
そんな数日前の軍議をバレンティアは思い出していた。彼はイディオフィリアの補佐として本陣にいる。彼の半歩前に立つイディオフィリアは初めての戦に緊張しているようだった。
「イディオフィリア、そろそろ」
「……ああ。行こう」
バレンティアの言葉に頷き、イディオフィリアは指示を出した。全軍に前進を指示する角笛が響き渡る。一瞬の後、大地を震わす馬蹄の轟きと共に先陣を務めるクロンティリス・フェーレンシルト兵団が魔獣兵団に突撃を開始した。
エリン防衛戦の幕が上がったのである。
精鋭を誇るクロンティリス・フェーレンシルト兵団はムスタファの指揮の下、魔獣兵団を蹴散らし森林を利用して巧みに兵力を分断していく。分断された魔獣兵団はそれぞれの血盟部隊と交戦する。決して1対1にはせず、複数の部隊で応戦し、被害を最小限に抑えながら戦いを進める。魔獣兵団の魔法部隊には魔法抵抗力の高い召喚獣部隊が襲い掛かる。フォラスとレライエに指揮された召喚獣は主を守るためにとここぞとばかりに魔族の本性を現し、目覚ましい働きを見せている。その主たる魔術師たちは阻害魔法や範囲攻撃魔法で敵の足を止め、騎士たちが相手にする敵の量を調節する。魔力の比較的低い者は支援魔法や回復魔法で仲間の命を守っていた。エルフを中心とした弓兵隊は遠距離攻撃で敵の足を止めつつ着実に敵兵力を削っていく。
各部隊の将の許、エリンを守るという決意に心をひとつにした兵たちは死力を尽くし善戦していた。
{イディオ! コヴァス出てきた!!}
対コヴァス部隊として最前線にいたフィネガスから心話が届く。それを受けてイディオフィリアが手を振ると、角笛が二度吹き鳴らされる。この合図によって全軍がコヴァスを隔離すべく動き始める。
「流石はクロンティリス兄弟だな。統率されて乱れがない」
ムスタファとイオニアスの指示によって動く部隊は一糸乱れぬ動きで着実にコヴァスと魔獣兵団を切り離していく。その指揮と兵の動きにバレンティアの口から感嘆の息が漏れる。
しかし、クロンティリス・フェーレンシルト兵団や【自由の翼】ばかりではない。各部隊がそれらには劣るものの混乱のない見事な動きを見せている。
「出来すぎなんじゃないかってくらい、皆凄いね」
各部隊から入る連絡に応じるイディオフィリアはそう感じている。兵たちの士気は高い。これは義勇軍だからこその利点だろう。その士気の高さが空回りすることもなく、心をひとつにして戦っている。
「こんな戦い、滅多にあるもんじゃないけどな」
初陣でこんな戦いをしては、イディオフィリアの戦の基準がこの戦いになり、要求する水準が高くなりすぎてしまう。そう危惧してバレンティアは呟く。
「判ってるよ。エリンを守りたいって思った人たちが集まったからこそだっていうのは。それだけじゃない。特級冒険者が全員揃ってるのと神竜がいるっていうのもあるだろうね。色んな好条件が揃ったからこそ全てが巧く繋がって力になってる。一生に一度あるかないかの戦いだと思うよ」
穏やかな微笑すら湛えて言うイディオフィリアにバレンティアは瞠目する。この数日のイディオフィリアは何かが違う。仔犬のような彼ではない。その素直さ明るさは失われていないが、明らかに何かが違う。先の軍議でも感じたことだ。イディオフィリアは
(ディルムド陛下……)
幼いころ王宮で仰ぎ見た先王の姿がイディオフィリアに重なる。今のイディオフィリアは亡き父王と同じ眼をしている。
(どうやら俺は新たな主君に出会えたようです、
この戦いの後が楽しみだ。そうバレンティアは思った。
「どうやらあっちも始まるみたいだ」
イディオフィリアの声にバレンティアは意識を現実に引き戻す。東南の空が暗雲に覆われている。そこはピクト城のある場所だった。ピクト城──アストヴィダーツ召喚の地。
「……凄い瘴気だな……息苦しい」
「うん……でも……カイアナイト殿が」
示された空には蒼銀に輝く巨大な竜の姿があった。竜が身をくねらせ咆哮するや、光の幕がピクト城を包み込む。竜の姿を見た兵士たちから歓声が上がる。
{アストヴィダーツ討伐に入るわ。カイアが結界を張ったから瘴気は漏れないはずよ}
{了解。そっちは任せたよ、ソル}
{任せてちょうだい}
ソルシエールとの心話を終えると、イディオフィリアはバレンティアや本陣に詰めている各部隊の伝令と共に各部隊への指示を伝える。カイアナイトの張った結界によって瘴気が漏れ出すことはないが、念のため戦線をピクトから遠ざけること。瘴気に中った者は聖水を飲むこと。そしてイディオフィリアの言葉が全軍に伝えられた。
「アストヴィダーツはイロアスと大賢者によって封じられる。心配の要はない。我らは己の
イディオフィリアの力強い言葉と共に、戦いは終盤戦へと突入した。
時は数刻遡る。ソルシエール、パーシヴァル、ミストフォロス、アルノルトはピクト城内に潜入していた。ピクト城を預かる領主は不在だ。アンスロポスは全ていなくなっている。アストヴィダーツ召喚を知り一時的に避難しているらしい。つまりそれは領主がファナティコスからの連絡を受けていたことを意味する。
「召喚陣はもう発動してるわね」
錬兵場を兼ねた広大な中庭にそれはあった。黒く輝く魔方陣を見ながらソルシエールは溜息をつく。召喚をしていたであろう魔術師たちの姿は既にない。四魔公爵や八魔将の召喚には時間がかかる。数日から十数日の召喚の儀によってまずは召喚陣を発動させなければならない。陣の発動から実際の召喚までにはやはり時間がかかり、10日から1ヶ月を要する。つまりこの日に合わせてアストヴィダーツを召喚するのであれば、イオニアスが情報を得たときには既にこの召喚の儀はほぼ終わりかけていたことになる。
「カイア、アストヴィダーツが現れたら、この城に結界を。瘴気が外に漏れ出さないようにね。ロデム、シュヴァルツ、ノアール、貴方たちはアストヴィダーツの取り巻きをお願い。ネロ、セイレーン、貴方たちは他の兵が来たらよろしく」
〔ふぉっふぉ。判っておる〕
〔承知〕
〔畏まりましたわ、レギーナ〕
既に実体化し控えている召喚獣にソルシエールは指示を出す。但しカイアナイトのみは未だ小竜姿だ。セイレーンは八魔将の魔力で消滅しかねない中位召喚獣ハルピュイアだが、この数十日神竜と共に在ったことで耐性をつけている。ソルシエールが大賢者となったことでその召喚獣たちも魔力と格が上がっており、他の同族よりは遥かに高位の魔獣となっていた。
「なぁ、アストヴィダーツにテッラソリトゥスって効くと思うか?」
「効かないだろ。ってか、ソリトゥスかかってる間は攻撃が通らないんだから、ヤメロ」
「だよなー。んじゃ俺はミラークルムとフォルミドで頑張るわ」
「おや、アルは3属性使えるんですか? エルフは2属性では?」
「5級から全属性使えるんだよ。というか俺ずっと使ってたじゃないか」
「そういえばそうでしたね。ああ、ソル、ワスターレをお願いしますね」
「判ってるわ。ワスターレ3回成功したら攻撃ね。それまではカイアが足止めしてくれるわ」
「おー、カイアが。足止めって何やんの?」
〔にらめっこじゃ〕
〔睨み合いと言え、ぼけジジィ〕
〔ほんにロデ坊は口が悪いのう〕
「息子は母親に似るといいますし、ソルに似たのでしょう」
〔誰が息子だ!〕
「じゃあ、パーシィはゼノヴィアおば様に似てるということね」
「前言撤回します」
八魔将が出現する場所にいるというのに、それとは思えぬ彼らの会話だった。だが彼らは気を抜いているわけでも油断しているわけでもない。こうして『いつもどおり』の軽口を叩き合うことで不要な力を抜き、心を落ち着かせているのだ。
〔来るぞ〕
ロデムの鋭い声が響く。召喚陣に黒い瘴気が溢れ出した瞬間、カイアナイトはソルシエールの肩から天へと翔け上がり神竜の姿を現す。一声高く咆哮して結界を張るとすぐさま翔け戻り巨大な体を召喚陣と4人の間に割り込ませた。
その間にも瘴気は徐々にその輪郭を露わにする。やがて1カビール(約3メートル)近い巨大な黒い魔族が姿を現した。山羊に似た頭部、二本足で立つ馬の蹄、それ以外はアンスロポスの姿をし、長い錫杖を持った魔族──八魔将アストヴィダーツ。
アストヴィダーツは目の前の神竜の姿に一瞬たじろぐ。神竜は異界における四魔公爵と同等以上の存在だ。しかし、神族は魔族にとって太古の昔からの敵である。すぐに攻撃すべくラディウスの魔法を発動する。だが、その魔法はカイアナイトが一声鳴くだけで消え失せる。
アストヴィダーツが神竜に気を取られている間に4人も動く。パーシヴァルとミストフォロス、今日は剣を装備したアルノルトはそっと背後に回り込む。ソルシエールはテールムワスターレを発動しアストヴィダーツの攻撃力を弱める。3回のテールムワスターレの直後、ソルシエールはイムモルターリスを、アルノルトはエレメントゥムフォルミードーをパーシヴァルにかける。ふたつの魔法がかかると同時にパーシヴァルが宝剣カリバンでアストヴィダーツに斬りつけた。
パーシヴァルの攻撃を受けたアストヴィダーツはここでようやく神竜以外の存在に気付く。すぐさま錫杖を振りパーシヴァルに反撃を加えつつ、取り巻きであるメルトバーキを召喚する。しかし、メルトバーキはあっさりとロデムとマーナガルムによって消滅させられる。
アルノルトのエレメントゥムフォルミードーによって常よりも攻撃力の増したパーシヴァルとミストフォロスが絶え間なく斬撃を繰り出す。ソルシエールはイムモルターリスでふたりの受ける損傷を半減させつつ、アストヴィダーツの力を弱めるためにコクレアやサエウムなどの阻害魔法を発動する。アルノルトはナトゥーラミラークルムで全員の体力をまとめて回復し傷を癒す。10年共に戦っている4人だけに無言でも見事な連携を見せる。
それを面白そうに眺めながらカイアナイトは時折鳴いてはアストヴィダーツの魔法発動を無効化する。そうすることによってアストヴィダーツは複数同時攻撃可能な魔法攻撃を封じられ、ひとりを相手にする物理攻撃しか出来なくなる。
次々と現れるメルトバーキやピクト城のファナティコス兵は召喚獣たちが難なく処理し、主たちの背後を守っていた。
戦いはソルシエールたちの有利に進む。けれどアストヴィダーツも八魔将だ。そう簡単には倒れない。徐々に攻撃を一身に受けるパーシヴァルに疲労の色が現れる。
「サンクトゥスアールデンス」
それまで回復と支援に徹していたソルシエールが頃合と見て最上位攻撃魔法を発動する。魔法抵抗力の高いアストヴィダーツにはある程度の傷を与え弱らせてからでなければ攻撃魔法の威力が半減してしまうのだ。唯一攻撃魔法の中で聖属性を持つサンクトゥスアールデンスは多大な損傷をアストヴィダーツに与える。光の槍がアストヴィダーツを貫き、一瞬動きが止まる。
〔今じゃ!!〕
パーシヴァルの長剣、ミストフォロスの双剣、アルノルトの細剣が三方からアストヴィダーツの体を貫く。一瞬の後、アストヴィダーツの断末魔の叫びが響き渡り、その体は灰となって崩れた。
途端に力尽きたようにパーシヴァル、ミストフォロス、アルノルトは座り込む。半刻近い長い戦闘だったのだ。
「カイア、もうひと仕事よ」
同じく座り込んでしまいたいほど疲労していたソルシエールだったが、まだ魔術師たる彼女には役目がある。神竜カイアナイトと共に
ようやく全てを終えたソルシエールの体がふらりと傾ぐ。それを慌てて抱きとめたのは人型になったシュヴァルツだった。
「心話送る気力もないから、ロデム、伝令行って。私たちが戻るまで、殿下をお守りし……」
途中で言葉が途切れる。精神力を使い果たし限界が来たのだろう。意識を失うように眠りに落ちていた。
〔やれやれ、仕方のないことだ。ネロ、ついて来い。イディオフィリアにアストヴィダーツ封印の報を伝えに行くぞ〕
呆れたような、それでいて安堵したような声でロデムは言うと、ネロを伴って姿を消した。
〔さて、儂もマナヴィダンの裔らの応援に行くかの。儂が現れれば士気も上がろうて。ついでにひと暴れしてくるぞ。シュヴァルツ、ノアール、セイレーン。レギーナを頼んだぞい〕
カイアナイトはフォッフォと楽しげに笑うと天を翔けた。途端に城外から歓声が上がる。
「八魔将……伊達じゃねぇな」
「ええ……もっと鍛錬せねばなりませんね」
「四魔公爵なんて出てきたら、今のままじゃ俺らもヤバいな」
ようやく会話が出来るまでに回復した男たちが口を開く。カイアナイトの援護があってなお、倒すのに半刻もの時を要した。その上にこれほどに疲労している。今後のことを考えれば自分たちの戦力をもっと高めなければならない。
「あ、でももうすぐ殿下がクラウ・ソナス手に入れるわけだし、そうなりゃ楽か」
王の剣『クラウ・ソナス』はどんな魔族も一刀のもとに消滅させるという聖剣だ。
「殿下に全てを押し付ける気ですか、フォロス」
「それに飽くまでも伝承だからな。過大な期待は禁止」
「ちょっと言ってみただけだろ。さて、そろそろ俺らも戻るか」
よいせと年寄り臭い掛け声と共にミストフォロスが立ち上がる。
「ソルは眠ってますから、転移魔法も転移符も使えませんよ」
「だな。おい、シュヴァルツ、ソル叩き起こせ」
〔なんてことを言うのです!! レギーナはこんなにお疲れですのに!!〕
〔レギーナを私が背負ってもよろしいのですが、流石にエリンまでは遠いですね。マーナガルム姿ではレギーナを落としてしまいかねませんし……やはりレギーナがお目覚めになるのを待ちましょうか〕
「……カイア呼び戻して、全員背中に乗ればいいんじゃないか」
〔──そうするといたしましょう。レギーナを早く柔らかな寝台で休ませて差し上げたいですからな〕
何処までも主に甘いシュヴァルツの言葉でアストヴィダーツ討伐は幕を閉じたのであった。
ソルシエールらがアストヴィダーツと相対していたころ、エリン防衛戦も新たな局面を迎えていた。遂にコヴァスの隔離に成功したのである。コヴァスはエリン北東の荒地にわずかな護衛と共にあり、その南の森林地帯に防衛軍、さらに南の街道付近に魔獣兵団と、完全に分断されている。総大将と離された魔獣兵団は防衛線突破を試みるが、クロンティリス・フェーレンシルト兵団各将の巧みな指揮によって翻弄されるばかりだ。のみならず隠形を駆使するエレティクスと召喚獣部隊によってわずかずつ、しかし確実に兵数を減らしていた。
「小賢しい人間共め……!!」
兵と引き離されたコヴァスは己の慢心とそれによる猪突を棚に上げ、忌々しげに己と相対する者たちを睨みつける。だが、ここにいる戦士たちはそれで怯むほど肝の小さい男たちではない。ここでコヴァスを倒せば当分の間ファナティコスの脅威は取り除かれるのだ。つい先刻神々しい神竜の姿を見たこともあり、彼らの戦意は高揚していた。
「そんじゃ、一丁やりますか!」
セアドとバルクークふたりのアフセンディアがコヴァスに向かい駆け出す。同時にフィネガスとヴァンジェロがふたりにイムモルターリスをかける。ヴェロスがカルキプスマギーアをかけて魔法抵抗力を下げ、ヴァンジェロがテールムワスターレで攻撃力を削ぐ。ティラドールはイーグナーウスでコヴァスの行動速度を低下させ、ディレットが3つの血盟主魔法をかけて全員の攻撃力と防御力を上げる。セアド、バルクーク、ヴァルター、バトゥーザがコヴァスを囲み四方から攻撃を加え、ティラドールが魔法と弓矢で支援する。ディレットとヴェロスは護衛兵を相手取る。フィネガスとヴァンジェロは攻撃魔法でディレットらを援護しつつ、コヴァスを囲む剣士にイムモルターリスをかけ損傷を半減させる。回復はティラドールのナトゥーラミラークルムだ。
「下賎な人間の分際で中々やりおるな」
その大きな体躯からクロウでの攻撃を繰り出しながらコヴァスは言う。根っからの戦士である彼はこの戦いを楽しんでいるようだ。
「お褒めに預かり恐悦至極ってな!」
応じたセアドの発動した『技能』ベッラーレフゲレによりコヴァスの攻撃は2倍の威力で跳ね返される。バルクークもヴァルターも同じくイムブルススカルケルやソリドゥムキリスといった技能を発動し、コヴァスの命を確実に削っていく。
更に護衛兵を倒し終えたディレットとヴェロスもコヴァスの包囲に加わり、状況はコヴァスの不利に傾く。
そして、遂にコヴァスの斃れるときが来た。
「我ひとりを斃したとていい気になるなよ、人間。ファナティコスは強い。決して敗れはせぬ……!」
最期の言葉を残し、コヴァスの巨体がドゥッと倒れる。その首をバルクークの大剣が落とす。
「コヴァスの
「コヴァス討ち取ったりー!!」
セアド、ヴァルターが声を張る。フィネガスが本陣に心話で伝え、あちらこちらからコヴァスを討ち取ったという叫びが上がる。そしてそれは魔獣兵団にも伝わり、動揺を生み出す。
「軍王閣下が敗死……」
「そんなまさか……」
動揺する魔獣兵団の何処かで『逃げろ』と声が上がる。『俺たちは負けた』と叫ぶ者がいる。その声が瞬く間に全軍へと伝播する。その声を発したものが微かに笑っていることに誰も気付かぬまま。我先にと後退を始める者、目の前の敵に復仇の敵意を向ける者、呆然と立ち尽くす者、それらが混ざり合い戦うこともままならず、魔獣兵団は混乱を極めた。
それを見逃すほど防衛軍も甘くはない。ファナティコス方面へと追い立てるように追撃を加える。
そして、そこに齎されたアストヴィダーツ封印の報が更に防衛軍を活気付かせる。
「おお! 神竜だ!!」
ひとりの歓声に人々は空を見上げ、その歓声は波のように広がる。神竜が息を吐けばそれは氷の刃となってファナティコス兵を追い立てる。最早魔獣兵団は軍の形を保つことも出来ず、
こうして約半日に及ぶ戦いはエリン防衛軍の勝利によって幕を閉じた。ファナティコスが再びフィアナを襲うには長い時を要し、エリン防衛軍首脳の目論見どおり、ファナティコスの脅威は消えた。
この戦いがフィアナ奪還戦争の始まりであることを知るのは、ごくわずかな者たちだけだった。