武門の血

 その知らせは、らしくもなく冴えない表情のイオニアスによって齎された。

 5血盟からなるエリン防衛軍の人員は、当初の予想を大きく上回っていた。

 まず、これまで冒険者登録をしていなかったエルフとエレティクス。彼らが一時的に冒険者となり参戦してきたのだ。これが合わせて凡そ150名。エルフはアルノルトの伝で【プリッツ】に、エレティクスはミストフォロスとの縁で【トリスケリオン】に暫定加入した。

 それから既に引退していた冒険者たちが一時復帰し、これは【ヴァイシュピール】に加盟した。その数約50人。

 そして更に心強かったのがセネノース商業ギルド連盟の傭兵団500人が参陣したことだ。王国正規軍に匹敵する【軍】が加わったことは戦力的にも大きな意味がある。戦力は言うに及ばず、それ以上の恩恵がこの加入によって齎された。即ち、傭兵団の派兵は連盟がこのエリン防衛軍を支援すると表明したことと同義なのだ。これによって防衛軍は様々な物資の提供を受けることとなった。

 参加しない血盟に属しながら個人的に参戦を希望した冒険者もおり、防衛軍の総数は1500人に達した。当初の予測の2倍の人員が集まったことになる。全て特級4人とそれぞれの血盟主の人脈によって集まった勇者たちであった。

 そんな中、盟主たちにとって最も心強い、最大戦力の援軍が到着した。

「アシャン、パーシィ。吉凶揃っての知らせがある」

 そう言ってイオニアスはふたりに援軍の到着を知らせた。ソルシエールとパーシヴァルはミストフォロス・アルノルトと共にアストヴィダーツ戦に向けた打ち合わせをしているところだった。

「吉凶とはどういうことですか、イオニアス殿」

 それの何処が凶報なのだろうとソルシエールたちは思った。武の名家である二家の私兵団が合流したのであれば吉報だろうに、と。

「防衛軍にとっては朗報だけど、アシャンとパーシィと僕にとっては凶報というか、厄介なことになったというか、すっごく面倒なことになったというか……」

 乾いた笑いを漏らしながら答えるイオニアスに、ソルシエールとパーシヴァルは嫌な予感がした。

「まずは朗報。うちとパーシィの実家からの援軍が予定より大幅に増えて2000人来てる」

 2000人──現在の総数を上回る援軍にふたりは眼を見張る。どうやらクロンティリス家とフェーレンシルト家は領地にいる騎士のうち半数近くを送り込んできたらしい。

「そんなに寄越すなんて……バルドゥイン兄様ったら……」

「うちの爺様も張り切りすぎですよ……」

 ふたりは若干呆れつつも笑う。両家の兵がそれだけ来ているのであれば勝率は格段に上がる。しかし、イオニアスの次の言葉で、ふたりは固まった。

「で、そのふたりがそれぞれの一族を率いてやって来た」

 半ば自棄になった口調でイオニアスは言い、海よりも深い嘆息を漏らした。

 パーシヴァルの祖父ガナトフは亡父ボルスの父であり、先々王の下で元帥を務めていた軍人である。既に70歳を超えているが、老いを感じさせることのない人物だ。冒険者となって家を離れているパーシヴァルに代わり、領地を切り盛りし護っている。また、ソルシエールの長兄は王宮に仕える財務副大臣であり、れっきとしたオグミオス王の廷臣だ。政治犯として指名手配を受けている『イオニアス・ベイオウフル』と共に戦って良い人物ではない。それなのにそのふたりが私兵団を率いてやってきたとは。

「正気ですか!? 正気じゃありませんね!! 遂に耄碌しやがったんですね、あのジジイは!!」

「能吏って嘘だったのね!! 馬鹿だったのね、バルドゥイン兄様!! 正気の沙汰じゃないわ!」

 常の彼らしからぬことをパーシヴァルは言い、ソルシエールも彼女らしからぬ控えめな雑言を吐く。ふたりが心底動揺している証だ。頭を抱えたふたりにミストフォロスとアルノルトは何も言うことが出来ず、ただ同情めいた視線を送るだけだった。

「無論、おふたりとも正気。ガナトフ老も至ってお元気で矍鑠としてらっしゃいますぞ」

 そこに別の声がかかる。振り返れば50をいくつか超えた戦士然とした男が立っていた。

「バトゥーザ! 貴方まで来たの!?」

 領地の騎士団を任されているはずの父の腹心の姿に、ソルシエールは驚きの声を上げる。彼までが今回の軍に加わっているということは、この地にやって来たクロンティリス軍は恐らく主力部隊で構成されていると思われた。

「イオニアス坊ちゃん、クロンティリス兵団及びフェーレンシルト兵団は村の外に宿営地を置きました。ご命令があればいつでも出陣できますぞ」

 バトゥーザはそう報告する。この村の人口を上回る兵力のため村には入りきれず、村の外に駐屯することにしたらしい。現防衛軍の人員を上回る数がいるのだからかなりの戦力増強だ。しかも王国を代表する武の名門二家の私兵団だ。これでかなり数における不利は補えるだろう。

「お久しゅうございますなぁ、ソル嬢ちゃま。お腹を冷やして風邪などひいてはおられませんか」

「あのね、バトゥーザ……。私だってもう5歳児じゃないんだから」

 冒険者となってから幾度か顔を合わせているにも関わらず、いつまでも幼子扱いする一族の宿将にソルシエールは苦笑を漏らす。

「バトゥーザ、その、本当に、祖父が来ているのですか……?」

 信じられない──否、信じたくない。その思いのまま一縷の望みをかけてパーシヴァルは問いかける。しかし、その果敢無い希望は笑顔のバトゥーザによって粉砕された。

「はい」

 明快に、端的にひと言だけ。それによってパーシヴァルは深い深い溜息をついた。ガナトフ老が来ているとなればやはりムスタファも本当に来ているのだ。何処か遠い目で現実ではない何かを見つめる3人に、バトゥーザは同情する。だがしかし、これでも事態はマシになったのだ。そうするために自分とフェーレンシルトの宿将カインズがどれほど苦労したことか。

「ソル嬢ちゃま、イオニアス坊ちゃん、パーシィ坊ちゃん、これでも最悪の事態は全力で回避したんですぞ」

 呆れ果て疲労感すら滲ませている3人に、バトゥーザは苦笑する。

「兄様たち以上に最悪って……まさか父様とゼノヴィアおば様……?」

 恐る恐るといったソルシエールの声にミストフォロスとアルノルトは笑う。長い付き合いだがこんな彼女の声を聞くことは滅多にない。

「然り」

 頷くバトゥーザにソルシエールたち3人は再び頭を抱えた。

 ソルシエールの父は当然クロンティリス家の当主であり、王国軍の重鎮だ。こんな辺境の戦に関わる立場ではない。イオニアスと共に戦うべきではないのはムスタファと同じだ。

 パーシヴァルの母ゼノヴィアはマクブラン一族の出身だが、魔術師ではなく騎士だ。数少ない女性騎士として王国軍に在籍し、その縁でパーシヴァルの父ボルスと結ばれた。結婚後は軍を辞め家庭に入ったものの、反王の乱で王都から逃げる際には自ら剣を振るってもいた。今は領地で娘子軍じょうしぐんを組織しその指揮を執っている女傑だった。

「まぁ……母やバルタザールおじ上が出てくるよりはマシですね……」

 諦めたようにパーシヴァルは溜息をついた。こうなったら受け容れるしかない。そしてガナトフとムスタファは紛れもなく有能な指揮官であり、この防衛軍にとっては彼らの参入は朗報であることに間違いなかった。






 数十日前、ムスタファの許に弟からの報せが届いた。それを一読したムスタファはすぐに父の許へ赴き領地に戻る許しを得た。そして王宮に1ヶ月の休暇届けを出すと領地へ駆け戻った。同時にフェーレンシルト家にも使いを出し、協力を求めた。

 領地に戻ったムスタファはすぐに騎士団を召集した。人を選び私兵団を編成しようとしたが、これが困難を極めた。ほぼ全騎士が参陣を希望したのである。その理由はムスタファが参陣を決めたのと同じものだった。それゆえにムスタファは彼らの参陣希望を無碍には出来なかった。

 本来この戦いにはクロンティリス家次期当主で公人という立場にあるムスタファが参陣すべきではないということは理解していた。それでも彼は自ら自家兵の指揮を執ることにした。それだけこの戦いの意味を重く受け止めていたということもある。王子の初陣であり、実質的な反王との戦いの初戦でもある。更にはアストヴィダーツのこともある。大切な戦いだ。だがそれ以上にムスタファがこの戦いに拘ったのは、全く私的な、我が侭ともいえる理由ゆえだった。

 今回の戦いにはイオニアスとソルシエールが加わっている。離れて久しい大切な弟妹だ。その弟妹と共に戦いたいと願ったのだ。全く個人的な兄馬鹿ともいえる理由だった。そんな理由と知れれば弟と妹は呆れるに違いない。ふたり揃って母に似た美しい顔に呆れを乗せて『兄上、馬鹿ですね』『兄様、馬鹿じゃないの』と吐き捨てるだろう。だからこの理由はふたりには隠し通さねばならない。こんなムスタファの気持ちが判っているのが領地の騎士団だった。

 騎士たちがこぞって参陣を希望したのは、まさに3兄弟妹が揃って出陣すると知ったからだった。ソルシエールは5歳のときに、イオニアスは17歳のときに家を出ている。表向き病弱とされていたイオニアスは10歳になる前からほぼ領地に戻ることはなくなっていた。王都にあり比較的領地にも戻るムスタファと違って、ソルシエールもイオニアスも領地へ戻ることなど殆どない。会えない者と会える者では、どうしても前者に対して甘くなるのが世の常である。しかも、如何いかにもクロンティリス家の戦士といった風情の厳ついムスタファと違って、イオニアスもソルシエールも母によく似た見目麗しさだ。ムスタファに比べれば頼りなげで儚い。領地の者たちの記憶にあるふたりはまだ幼いころの姿でもあり、可憐で庇護欲をそそる。領地の騎士たちが張り切ってしまうのも無理はなかった。自分たちがお守りせねば!! と思ってしまうのだ。勿論、騎士たちとて彼らが『守られるだけの存在』ではないことは重々承知している。『月白のスコル』の噂も『氷雪の魔女』の評判も耳に届いている。だが、それでも騎士たちにとってふたりは守るべき存在だった。次期総領ムスタファも含めて。

 そんなわけで領地内のほぼ全騎士が参陣希望だったため、参陣者を決めるための武闘大会が開かれることになった。ほぼ全騎士が参加したそれは10日に及び、共に出立するためにクロンティリス領に来ていたフェーレンシルト兵には苦笑された。

 ともあれ、そんなこともあってクロンティリス兵団とそれに付き合ったフェーレンシルト兵団はギリギリでの着陣となってしまったわけである。






 ソルシエールとパーシヴァルはふたりで両家兵の宿営本部を訪れていた。両家は混成軍として戦うため、ムスタファを主将、ガナトフ老を副将と定め、宿営地も一緒だ。クロンティリス現当主バルタザールとフェーレンシルト前当主ボルスが親友だったこともあり、両家の仲は親密で、それゆえに可能なことだった。因みにイオニアスがいないのは、表向き彼はクロンティリス家と無関係とされているため、念のための用心だ。

「アシャン、パーシィ! 久しぶりだな!!」

 再会するなりムスタファはその逞しい腕でソルシエールを抱き締めた。天幕の中にいる両家の宿将たちはそれを微笑ましげに眺めている。

「兄様、苦しいわ!」

 ソルシエールが腕を叩いて抗議すると、ムスタファはソルシエールを解放してくれた。そこが父とは違うところだ。父バルタザールはソルシエールがいくら抗議しても放してくれない。いつも長兄に引き剥がされるまでソルシエールを抱き締めている。

「ふたりとも元気そうで何よりだ」

 苦笑しながらムスタファは言い、パーシヴァルの頭を幼子のように撫でた。

「ムスタファ殿……子供扱いはおやめください」

 パーシヴァルは苦笑しながら言うが、これが改まることはないというのも判っている。会うたびに歳の離れたこの再従兄は同じことをするのだ。

「まさか兄様がいらっしゃるなんて思わなかったわ。お立場を考えてくださいな。兄様は仮にも王の臣下なんですよ」

「爺様もですよ。お歳を考えてください。年寄りの冷や水どころじゃないでしょう。何考えてるんですか」

 妹と孫の口から出た小言に言われたふたりは笑いながら反論する。

「王宮には休暇を取って来ている。領内の見回りと騎士の訓練ということでな。ファーナティクスとの戦いなら、これ以上ない訓練だろう?」

「まだまだ若いモンには負けんぞ。最前線に儂が出るわけでもないしのう。それに20年前、儂は魔獣兵団との戦を経験しておる。若いモンにはない貴重な経験じゃ」

 ガハハと豪快に笑うガナトフは70歳を超えているとは思えない若々しさを持っていた。それに加えて歴戦の将軍でもあるだけに老練な指揮を執るし、何よりもファーナティクスとの戦闘経験もある。彼がいることは軍同士の戦いの経験の少ないこの軍にとって頼もしいことは間違いない。ゆえにパーシヴァルも溜息をつくだけで何も言わずに祖父の参陣を受け容れた。

「ファーナティクスのエリン侵攻とアストヴィダーツというだけで私たちが参陣するには充分な理由だろう、アシャン。ミレシア大聖堂も今回のことは重く見ている。母上はベルトラム尊師やアラウン殿と連絡を取り、エリン・ピクト周辺に護りの力を多く注ぐように祈りを深めておいでだ」

 ムスタファの言葉にソルシエールもこれ以上兄に小言を言うのは止めた。確かに重大な戦いなのだ。本来ならば王国正規軍が派遣されてもおかしくないほどの。

「それに今回はあの御方の初陣だろう。ならば、パーシィと私が参陣するのは当然ではないか。私たちはあの方の傅役もりやくだったのだから」

 名を出さず、殿下という敬称も用いずムスタファは言う。兄の言葉にハッとしてソルシエールは兄を見つめた。

 兄はずっと王都にいた。王子の生存を信じながらもパーシヴァルのように自ら動くことは出来なかった。同じく傅役となるはずだったのに。兄はパーシヴァルと違ってただ王都で待たなければならず、今日まで対面も出来なかったのだ。先王に侍従武官として仕え、先王を深く敬愛していただけに、兄はその遺児たる王子への想いも強かった。先王に代わって自分こそ王子を守りたいと願っていたはずだった。

「そうですわね……。あの方には用心のためミレシアでは出来るだけ出歩かないようにお願いしておりましたから、まだ父様にも兄様にもお引き合わせしておりませんでしたもの」

 きっと父も王子──イディオフィリアと会う日を心待ちにしているだろう。先王の傅役であり、側近であり、兄代わりでもあった父だ。後事を託されたために共に逝くことを赦されなかった父だけに、やはり王子への想いは強いだろう。

「この戦いの後、祖父君があの方に全てをお話になられるそうです。あの方はご両親のことをあまりご存じありませんから、父様や兄様が父君のことをお話しになれば喜ばれると思いますわ」

 父とも対面の機会を設けると言外に告げる。そして間もなく対面する兄に王子は未だ何も知らないということも。

「ああ、その日を楽しみにしていよう。では、アシャンとパーシィの頼もしい仲間に会いに行こうか」

 兄の分厚い掌で背を叩かれたソルシエールは息を詰まらせ、ムスタファは再従弟と重臣から叱られるのだった。






 一方、血盟主たちは本営である聖堂に集まっていた。イオニアスからクロンティリス・フェーレンシルト連合軍2000名が到着したとの報せを受けたのだ。

「2000とは心強いな」

 その報せにバレンティアとディレットは嘆息した。王の両翼とも称される武門の名家。それがクロンティリス家とフェーレンシルト家だ。その二家が一族の騎士の半数を率いてきているのだ。心強いことこの上もない。

「しかも主将はクロンティリス家次期当主のムスタファ=バルドゥイン卿、副将はフェーレンシルト家先々代当主ガナトフ老。おまけに現当主のパーシィもいるし、クロンティリス3兄弟妹も揃ってるから、兵たちの指揮は頗る高い。僕の頭が痛くなるくらいにね」

 そしてイオニアスは続いて告げる。両家軍はエリン防衛軍の指揮下に入ること、総司令や指揮系統に変更はないこと。

「本当に良いんでしょうか? 武の名門である二家の将軍が、俺みたいな素人の冒険者が総司令官で納得するんでしょうか」

 イディオフィリアは不安げに問いかける。血盟主間では納得も出来た。他の血盟主では不都合があるからこその自分だったのだと。血盟の動員数が最大であることも理由のひとつだった。しかし今回加わったのは2000人を超す大兵力だ。ならばその主将に指揮を委ねるべきではないのかと。

「クロンティリス家に……というか兄のムスタファに任せるには問題があるんですよ、イディオフィリア卿。兄は一応王宮で官位を得ているんでね。私と──反逆者イオニアス・ベイオウルフと堂々と一緒に戦うというわけにもいかないんです。まぁ、総指揮官でなきゃいくらでも言い訳は立つんですが。兄がいる以上、他のクロンティリスの将がその上に立つわけにもいきませんし、フェーレンシルトにしても当主のパーシヴァルを差し置いて総司令官になれるはずもない。そんなわけで、両家とも納得済みなんで問題はありません。というかうちの連中はアシャンと戦えるっていうんで浮かれてるし、フェーレンシルトにしてもパーシィと同じ戦場にいるだけで大満足みたいですよ」

 最後は呆れた口調を隠しもせずにイオニアスは言った。

「で、今日から軍議に兄とガナトフ老も加わります。ふたりともファーナティクスとの戦いの経験もありますから、役に立つと思いますよ。特にガナトフ老は魔獣兵団と戦ったこともありますから、大いに参考になるかと」

 軍師の表情でイオニアスは告げる。それには何処か『クロンティリスの者』としての誇らしさも垣間見えた。

「ああ、それと。兄は滅茶苦茶アシャンに甘いです。ガナトフ老はとてもお茶目なジジイです。色々と覚悟しといてください」

 ではふたりを連れてきますね、そう言うとイオニアスは聖堂を出た。

「クロンティリス家とフェーレンシルト家が来たんなら心強いな」

「ああ、両家の戦いが間近で見れるってのは楽しみだな。尤も観戦してる余裕なんてないだろうけど」

 王族というよりも軍人といった面を強く持つディレットは両家と共に戦えることに興奮を隠し切れない様子だ。

(そんな場合じゃないって判ってるけど、まさかこんなときにソルのもうひとりのお兄さんと会うことになるなんて)

 イディオフィリアは防衛戦とは関係のないところで緊張していた。しかしすぐに気持ちを切り替える。そんなことを考えている場合ではない。当初の予測したファーナティクス侵攻の日まであと5日だ。恐らく2~3日のうちに斥候からファーナティクス進発の報が届くはずだ。気を引き締めなければならない。

(3500人もの人が集まってる。エリンを守るために。俺は総司令官なんだ。確りしなきゃ)

 どんなときでも冷静に。自分が慌てたり狼狽えたりしてはいけない。自分が動揺すればそれは全軍に影響を与えかねない。各隊の将たちがいるから、自分よりもずっと経験豊富なイオニアスやバレンティア、ディレットたちがいるから大丈夫だと思うが、それでも自分は総大将なのだから、どんなときでも泰然と構えていなくてはならない。何も出来ないからこそ。

(俺は総大将。3500人の命を背負って戦場に立つんだ。全ての責任は俺にある)

 静かに強い決意を秘めてイディオフィリアは伏せていた顔を上げる。

 そのとき、イオニアスに伴われてムスタファとガナトフ、ソルシエールとパーシヴァルが聖堂へ入ってきた。ソルシエールとパーシヴァルはイディオフィリアの表情にいつもと違うものを感じ取り、息を呑んだ。そこにいるのはいつもの明るくて素直で何処にでもいるような青年の彼ではなかった。義務と責任を自覚したひとりの将だった。

「お初にお目にかかる、イディオフィリア卿。ムスタファ=バルドゥイン・クロンティリスにございます」

「フェーレンシルト当主代理、ガナトフ=ミヒャエル・フェーレンシルトと申します」

 ムスタファとガナトフが進み出、名乗る。危うく膝を就き臣下の礼を取ろうとしたがふたりは何とか堪えた。イディオフィリアが王子であることはムスタファだけが知り、ガナトフは知らない。しかしガナトフもひと目でイディオフィリアが何者か判った。容姿ゆえにではない。父王に似た意志を秘めた瞳ゆえに。王子だから跪こうとしたのではない。イディオフィリアから感じた『王の気配』が膝をつかせようとしたのだ。

「遠路ご苦労様です、ムスタファ卿、ガナトフ卿。クロンティリス兵団、フェーレンシルト兵団の参加はとても心強いです」

 イディオフィリアはふたりと握手を交わす。その堂々とした態度はエリンに来た当初とは比べものにならない。総大将としての自覚を持ち、そう遇されるうちに身についたものだった。

「当主たる父バルタザール=ラファエルから言付かって参りました。此度公の立場ゆえに参陣できぬことをお許しいただきたい、と──」

 そこまでムスタファは如何いかにも大貴族の次期当主らしい重々しい口調で告げ、次の瞬間には明るく砕けた調子に変えた。

「親父殿が参陣する気満々だったのは、可愛い末娘と家を出た放浪息子と一緒に戦いたいってだけですけどね。王都守備隊の将軍が何言ってんだって話です。あんまり駄々を捏ねるんでいつもは大聖堂に篭ってる母まで出てきて『ベネディクトに罵られ、アシャンに呆れて嫌われますよ』と言う始末。アシャンに嫌われたくない、ベネディクト怖いってわけで、親父殿は王都で留守番です」

「父様……」

「父上……」

 長兄の暴露に弟妹は顔を覆う。仮にもクロンティリス家当主で先王の元帥だった人物とは思えない言動だ。恥ずかしくて顔から火が出るというのは、きっとこんな状況なのだろうと思う。長兄も長兄だ。そんなことをこの場で言わなくてもいいだろうに。

「はぁ……」

 案の定イディオフィリアら首脳陣も戸惑った顔をしている。パーシヴァルとミストフォロスはバルタザールをよく知っているためにさもありなんと苦笑しているだけだったが。

「親父殿は参陣できませんが、兵は両家とも最精鋭です。ファーナティクスとの戦闘経験があり、特に魔獣兵団と戦ったことのある者を中心として連れて参りました。王都の両親からも必要な情報は適宜送られてきます」

 ただ巫山戯ふざけているだけのムスタファではない。宮廷きっての能吏といわれる彼は必要な手は全て打っている。エリン防衛軍に不利になる情報は王や近臣の耳には入らないように手配してある。王の無能な側近たちはファーナティクスの侵攻を見て見ぬふりだ。だから正規軍は送られてこない。しかしムスタファたちは書類を書き換え、或いは密かに手を回して様々な手配をした。連盟傭兵団の半数は休暇中の王都守備隊と入れ替わっている。ギルド連盟から送られる武具の大半は王宮の武器庫で眠っていたものだ。エリン防衛軍は飽くまでも義勇兵の集まりであり、そこには血盟もどんな組織も一切関わっていない──王の近臣たちはそう思い込んでいる。

「とても心強いです、ムスタファ卿。共にエリンを守り、ファーナティクスを打ち払いましょう」

 イディオフィリアは再度ムスタファと握手を交わした。

 二度目の握手を交わしながら、ムスタファは目の前の青年を見つめた。様々な思いが胸に湧き起こる。20年ずっと求めていた彼の『主君』なのだ。生後7日目に初めて対面したのは当然ながらまだ赤子の彼。赤子なのに既に母王妃に似て美しい顔立ちをしていた。敬愛する王の御子。自分はこれからこの方にお仕えしお守りするのだ。父が王の側にいるように、自分は王となるこの幼子を支えていくのだ。そう思った。

 あの日から1日たりとも王子のことを忘れたことはなかった。王子の生存を疑ったこともなかった。再従弟のように王子を探しに行けぬことを悔しく思わないでもなかったが、仕方のないことだと割り切った。自分にしか出来ぬことをしようと思った。幸い自分は宮廷に職を得ている。ならば王子がこの王宮に戻る日のために、王となる日のために準備を進めよう。そうしてムスタファは反王の王宮に『王子の登極を雌伏して待つ能吏』の集団を作り上げた。歳若い官吏を育てる中でそれをしていった。

 そして今ようやく『主君』と再会した。膝を就きたくなる。頭を垂れたくなる。『我が君』とその手を額に押し頂きたくなる。それをぐっと我慢する。主君はまだ己が何者であるのかを知らない。今はまだ、何も言うことは出来ない。今の自分は彼にとって傅役もりやくではない。仲間であるソルシエールの兄であり、パーシヴァルの親類、ただそれだけなのだ。

「ところでイディオフィリア卿、妹がお世話になっております。あれは何かご迷惑をおかけしておりませんか?」

 再度表情を崩し、ムスタファは何処か悪戯っ子の顔でイディオフィリアに訊く。

「え? あ、いや、ソルシエールには寧ろこっちがお世話になりっぱなしというか」

「然様ですかな? アシャンは幼いころから寝起きが悪く目覚めて半刻はいつもぐずっておりましたが」

「ああ、そういえばそうだね」

「バルド兄様、ベネト兄様!! それは3歳のころのことです!」

「負けん気が強くて、パーシィに剣の勝負を挑んでは困らせておりましたし」

「ええ、あれには参りました。ソルに怪我でもさせたら私の命が危ないと……」

「覚えてたの、パーシィ!? 忘れて!!」

「25にもなろうというのに未だ嫁の貰い手もなく……」

「もう充分な嫁き遅れで心配だよ、兄としては」

「散々邪魔しまくった兄様が言わないでよ!!」

 クロンティリス3兄弟妹+再従兄弟の漫才のような会話に血盟主たちは呆気に取られる。イディオフィリアはソルシエールが振り回される姿が新鮮で笑いを漏らす。

「それに再従弟のパーシィもお世話になっておりますな」

「今度は私ですか!?」

「これはどうしてこうも堅物なのか……。ストーンゴーレムくらいならば頭突きで倒せるのではないかと思うほどですよ」

「兄様ほどじゃないでしょ」

「拳でなら倒せますよ」

「そのくせ口は悪いし」

「確かにそうね」

「ソルとフォロス限定です」

「口の悪さは確かにマクブランの血を引いていると思わせるよね」

 ポンポンと交わされる軽口に皆クスクスと笑い、場の雰囲気は和やかなものへと変化していく。

「ったく、ムスタファもそれくらいにしとけ。久しぶりに妹たちに会えてはしゃいでるのは判るけど」

 呆れたようにミストフォロスが言い、それによってようやくムスタファの軽口は収まる。

「ともあれ、イディオフィリア卿には今後ともふたりをよろしくお願い申します」

「はい。おふたりとも尊敬する素晴らしい先輩冒険者です。こちらこそよろしくお願いしますと申し上げねばなりません」

 面白いお兄さんだな、本当にソルやパーシィさんのことを心配してるんだ、そう感じながらイディオフィリアは応じた。

「さて、ムスタファ卿の暴走も収まったようだし、軍議を始めようか」

 何事もなかったかのようにパンパンと手を叩くイオニアスに『兄様も悪乗りしてたくせに』と思ったが、言えばまた漫才が始まることを察知していたソルシエールはそっと心の中で呟くに留めた。






 ファーナティクス侵攻まで、あと5日。