(とはいっても……なんで爺様は名前を隠せなんて言ったんだろう)
セネノースのアジトの自室に比べれば簡素な部屋にイディオフィリアはひとりでいた。セネノースの自室とて決して贅沢な調度などはない。けれど半年以上住んでいれば多少なりは物も増える。イル・ダーナ女神の彫像や小さな絵画など気に入った装飾品も置いている。しかし、この部屋は仮住まいゆえにイディオフィリアが慣れ親しんだものは何もない。
昼間、ソルシエールと共に現れた神竜に言われたひと言。それがイディオフィリアに決心を固めさせた。否、決心というほど強いものではない。ただ忘れていたことを思い出させただけだ。自分の本名を仲間たちに教えていなかったことを。
育ったアヴァロンを出る前に祖父に言われた言葉。『本当に信頼できる仲間でなければ名を明かしてはならぬ』 それに従って島を出てからずっと『イディオフィリア・アロイス』を名乗ってきた。本当の名『イディオフィリア=レヴィアス・アロイス』を知っているのは自分の他にはソルシエールしかいない。しかし、すっかりそのことを忘れていた。彼の生活の中でそんなことは些細な問題ですらなかった。
(大体、俺の名前に何か意味あるのかな)
そんな疑問も湧く。レヴィアスという洗礼名があるということは、自分は本当は貴族階級なのかもしれない。庶民は洗礼名を持たないし、騎士階級も同様だ。洗礼名は爵位を持つ貴族のみに許されるものだ。アンスロポスならばミレシア大聖堂が授け、エルフやエレティクスは一族の祭祀長が授けるのだという。ならば、自分は貴族ということになる。尤も生まれて間もなく両親が死に母方の祖父に育てられているのだから、父方の家──恐らく貴族である家はもう廃絶してしまっているのだろう。
しかし、自分が貴族だったとして、それがレヴィアスという名を隠すことと何の関係があるというのか。この名は祖父と自分、ソルシエールしか知らない。大して重要なものとは思えなかった。
これが魔術師ならば判らなくもない。魔術師は名前の一部を隠す。それが師から与えられる聖なる名『ノーメン』だ。これは与えた師と本人しか知らない。
ともかく自分は魔術師ではないから、名前を伏せる理由にはならない。
ならば一体何故名を隠せと言われたのだろう。それが判らない。
(俺って一体何者なんだろう)
それはずっとイディオフィリアが抱いていた疑問だった。
物心ついたときにはあの島で祖父とふたりで暮らしていた。両親の顔も知らず、それどころか名前すら知らない。祖父から聞いたのは両親がとても愛し合っていたこと、イディオフィリアを慈しんでいたこと、そして反王オグミオスの乱によって命を落としたことだけだ。
祖父は時折両親の話をした。どうやら父と母は大恋愛の末、周囲の反対を跳ね除けて結婚したらしい。中でも一番反対していたのは祖父らしく、決闘までしたそうだ。両親のことを語る祖父の声は柔らかく、祖父が娘夫婦を愛おしんでいたことは間違いない。祖父が父を語るときの言葉から、父が祖父よりも身分の高い家柄だったことは想像がついた。しかし、具体的なことは何ひとつ判らない。父が何処の誰なのか。祖父は一切それを語らなかった。
ただそれなりに身分が高かっただろうことは自分が与えられた教育からも予想はつく。実際エリンに来て3人の王族と知り合い、それを確信した。知識という面だけでいえばイディオフィリアは彼ら3人よりもより高度で実践的な政治学を教え込まれていたのだ。──それが一層イディオフィリアの疑問を深くした。
(爺様に聞いてはっきりさせてからのほうがいいのかな)
あの祖父がそう簡単に教えてくれるとは思えない。きっと教えていないのには何か理由があるのだろう。だから祖父は『時』が来れば島に戻れと言ったのだろう。きっとその『時』が来るまで、祖父は真実を明かしてはくれないだろう。『時』は来れば自ずと判るとも祖父は言っていた。少なくともイディオフィリアは何も感じてはいない。だから『時』はまだ来ていない。
(あーっ、もう面倒臭ぇっ!!)
今は判らないことだらけだ。真実を知っている祖父は口を噤んでいる。ならば考えても無駄だ。自分は自分だ。冒険者で【トリスケリオン】の盟主で、信頼する仲間と共に少しでも魔族を減らすために戦っていて、今はエリンを守るためにここにいる。それだけで充分だ。
「よし、決めた!」
イディオフィリアは寝転がっていたベッドから勢いをつけて起き上がると、左耳に手を添え、血盟心話で呼びかけた。
〔ヴァル、ティラ、フィン、パーシィさん、フォロスさん、ソル。俺の部屋まで来て。話したいことがある〕
それぞれから了承の返事を得、続いてアルノルトにも心話を送る。同じように話したいことがあるから来てほしいと。アルノルトは驚いていたようだが、やはり了承してくれた。
(取り敢えず、信頼してる仲間にこれで隠し事はなし! それでいいや)
最大の秘密はまだ彼自身が知らない。
イディオフィリアの突然の召集だったが、数分後には7人全員が集まっていた。
「突然来てもらってごめん。何か問題が起こったとか、そういうんじゃないから安心して」
揃った7人にイディオフィリアはそう告げた。つい先日アストヴィダーツ来襲というとんでもない情報が入っていただけに7人は程度の差はあれ、緊張していたのだ。
「この戦いとか、血盟とか全然関係なくて、俺の個人的な話で来てもらったんだ」
その言葉に7人は安堵する。と同時に一体何事かと不審げな表情を浮かべる。
「んと……ソルは知ってるんだけど」
そうイディオフィリアが切り出したところで、ソルシエールは『ああ』と得心した。彼がそれだけの信頼をこの7人に置いたということだ。この7人ならば納得できる。
「俺、皆にちゃんと名乗ってなかったんだ。『イディオフィリア・アロイス』ってのは便宜上の通称で、本名は『イディオフィリア=レヴィアス・アロイス』っていうんだ。隠しててごめん!」
言うと同時にイディオフィリアは頭を下げる。何故隠していたと問われるかもしれない。怒られるかもしれない。そう思うと中々顔を上げられない。これで信頼や友情に亀裂が入るとは思わないが、怒られても仕方ないとも思う。
「ふーん、そうだったんだ」
「洗礼名あったのか」
「レヴィアスか。中々格好いいじゃん」
だが、そんなイディオフィリアの耳に届いたのはいつもどおりの友人3人の声だった。怒った様子は微塵もない。恐る恐る顔を上げるとそこにあるのはやはりいつもどおりの彼らの顔だった。
「隠してたこと、怒ってない?」
「何で怒るんだよ。何か事情があるんだろ? 冒険者ってそういうの結構あるし。寧ろちゃんと話してくれたことのほうが嬉しいんだけど」
イディオフィリアの問いかけに応じたのはヴァルターだ。
「だな。ま、隠してた事情は知りたいところだけど。話せる範囲内でね」
ティラドールもいつもと変わらぬ声調で続く。
「爺様が隠せって。何で隠さなきゃいけないのかは俺も知らないんだ。ソルは俺の名前知ってたけど、理由は知ってる?」
唯一名前を知っていたソルシエールにイディオフィリアは尋ねる。
「さぁ? でも仮に知ってたとしても、老師が隠してらっしゃる以上、私から教えることはないわね」
ソルシエールはどちらとも取れる答えを返す。それをパーシヴァルら特級以外は『知らない』と判断する。
「名前隠せって言ってその理由も教えないって、結構訳ありかな?」
厳重に隠されているらしい事情にフィネガスが言う。
「さっぱり判らないんだ。ただ島を出るときに爺様に言われたんだ。名前は隠せ、本当に信頼できる仲間以外には教えるなって」
イディオフィリアの言葉に7人は喜びを感じた。イディオフィリアが名を明かしたのは『本当に信頼できる仲間』と自分たちを思ってくれたからなのだと。イディオフィリア本人ですら知らぬ本名を知るソルシエールら特級4人とてその喜びを感じた。
「ソルは爺様の知り合いだから、最初から知ってたし改めて言うのもなんだと思ったけど、やっぱ、ちゃんと自分で言いたかったし」
「そうね。嬉しいわ。私は師匠にイディオを助けろと命じられてここに来たけど、気に入らなきゃさっさと見捨ててるし」
師匠の命令ゆえにではなく、自分の意思で側にいるのだと告げれば、イディオフィリアも嬉しそうに笑う。その表情に彼の思慕を知る者──つまり全員──は微苦笑する。
「あれ、姐御のお師匠様って伝説の大賢者ベルトラム尊師ですよね。何でそんな方が態々そんな命令を……」
フィネガスが呟く。ソルシエールの師匠ベルトラムは普通の、市井の魔術師ではない。宮廷魔術師になっていないほうがおかしい大魔術師であり、フィアナで最も高名な魔術師だ。全魔術師の尊崇を受け、頂点に君臨するほどの人物なのだ。建国の三英雄に次ぐ伝説的な人物でもある。何故そんなベルトラムが、態々1冒険者の許に自身の後継たる愛弟子を派遣したのか。
「うちの爺様もベルトラム様の弟子だったらしいから、その縁だとは思うんだけど……」
そう答えながら、イディオフィリアも改めて不思議に思った。初めはソルシエールが高名な魔術師であることも、その師匠が伝説の大賢者であることも知らなかったから、それを疑問に思ったりしなかった。けれど改めて考えてみればおかしなことだ。やはりこれも自分の知らぬ出自と関係しているのかもしれない。
「あー、ベルトラム尊師は身内に甘いところがあるからなー。ソルにしろオクタヴィアにしろ、弟子が冒険者になるときにはそれなりの護衛つけてたし。冒険者なりたてのソルの護衛にイロアスの俺とかアフセンディアのアルノルトとか、どんだけ過保護だって話だし」
それまで黙っていたミストフォロスが言う。ソルシエールが最初の首領級魔族討伐──ジェイエン──に向かったときに護衛として呼ばれたのはミストフォロスだった。準王家出身のソルシエールは既に
だが、それは伏せておく。今はあまりイディオフィリアに特別なことだと思わせないほうが良い。どうやら彼は己の出自に疑問を持っているようだが、今はそれよりも目の前の戦いに集中させたほうが良い。そうミストフォロスは思ったのだが、ソルシエールの考えは違うようだった。
「イディオは何か疑問を持ってるのね? 本名を隠さなくてはならないこと、私が師匠の命令で貴方の支援をしたこと、そして他にも何かあるのかしら」
ソルシエールに声がわずかに低くなる。長く深い付き合いのパーシヴァル、ミストフォロス、アルノルトにしか判らぬほどごくわずかな変化。しかし、それだけで彼らには判った。彼女は今、大賢者として、宿命の子のひとりとしてイディオフィリアに語りかけているのだ。彼に自分が何者なのかを深く考えさせるために。未来のために。
「うん……。俺さ、物心ついたときからアヴァロンで爺様とふたりで暮らしてたんだ。両親は反王の乱のときに死んだらしくて顔も知らない。それどころか名前も知らないんだ。俺洗礼名持ってるから、貴族なのかもしれないとは思うけど、それも本当かどうか判らない。それに爺様、俺に色んな教育を与えてくれた。武芸は勿論、歴史や政治のこと……まるで王族並みの帝王学だなって思ったくらいだよ。実際、俺、バレンティアやディレットも知らないこと、教えられてた。グラーティアは知ってたみたいだけど。──俺って一体何者って思っても変じゃないだろ?」
イディオフィリアの告白に、ヴァルター、ティラドール、フィネガスも思案顔になる。真実を知っている4人は内心、『流石ユリウス卿、必要なことは教授済みなのか』と感心していた。必要な知識を全て与えた上で彼は孫を世に送り出したのだろう。
「確かに変だな。実はイディオ、王子だったりして」
ヴァルターの言葉にソルシエールら4人はギクリとする。言った本人も言われたイディオフィリアも本気ではないが、それは紛れもない事実だ。
「でも王子って、20年前の乱で亡くなってるんだよな?」
フィネガスがそう言えば、それに応じたのは王子生存を信じているエルフ族出身のティラドールだ。
「先王の旧臣とかエルフとかエレティクスは王子が生きてるって信じてるぞ。今も探してるし。でも名前も顔も判らないから探しようがないって状態」
「え? 王子の名前も顔も判らないのに探すって無茶じゃん」
ティラドールの言葉にイディオフィリアもヴァルターもフィネガスも同情めいた視線をティラドールに送る。ティルナノグを出ている彼も『王子探索』の役目があるのだろうと容易に想像はつく。
「王子殿下の名は秘されていますからね。王位継承者の名は成人までは一般には秘されます。知る者は近親と一部の側近くらいなものですよ」
実際に王族とはいえ遠縁であるバレンティアとディレットは知らず、従姉のグラーティアしか名を知らなかった。パーシヴァルは生後7日目に
「それに冗談でも王子なんてのは止めとけ。反王側だって王子を探してんだ、殺すために。イディオは王子と同年だし、人違いで命狙われたら洒落にもならんぞ」
いつもの軽い雰囲気を消して言うミストフォロスに、イディオフィリアたちは神妙な面持ちで頷く。
実際、これまでも王子を僭称した者がいなかったわけではない。王子と称し反王に対して乱を起こそうとした者、或いは取り入ろうとした者もいた。しかし、それらは悉く抹殺されているのだ。
ソルシエールらにしても、まだイディオフィリアが名乗りを上げるには時期尚早だと思っている。信頼できる仲間は集まりつつある。イディオフィリアも実力をつけてきている。血盟主としての実績も上げており、今では冒険者ギルドから初心者育成血盟として信を置かれ、ギルドの紹介による加盟者もいるほどだ。恐らく次の認定会議でイディオフィリアはアフセンディア昇格が承認されるだろう。だとすれば、初級で登録した冒険者としては最速での認定となる。
それでも王子として名乗りを上げるにはまだ早い。実力云々ではない。イディオフィリアの覚悟の問題だ。王子として名乗りを上げればそれは即ち反王との戦いに突入することになる。イディオフィリアの意志ではなく、周囲が必ずそう仕向ける。だから、仮に彼が自分の出自を知ったとしてもそれを隠さねばならない。けれどイディオフィリアはそれを良しとはしないだろう。『王子』である自分に課せられた両親の復仇と王国奪還という期待。それに応えようとすることは容易に想像がつく。そして、その本意ではない戦いの中で失われていく命の重さが、彼の心を蝕んでいくことも。だから今はまだ、彼に出自を明かすことも出来ない。
望ましいのはまず、イディオフィリアが反王打倒の志を持つこと。反王を倒さねばこの世界が滅びるという事実を知ること。否、それは知らずとも良い。反王がいる限り魔族の脅威はなくならず民が平穏に暮らせる世は来ないことを知ればよいのだ。それを知ればイディオフィリアは考えるだろう。そして辿り着くはずだ。そのときこそが、彼に王子であることを告げる『時』だ。
「まぁ、今はまず、エリンを守ることだな」
思考を切り替えさせるようにアルノルトは言う。否、発展させるために。
「そうですね。そのために我々はこの地に集ったのですから。エリンの民は日々ファーナティクスの脅威に曝されながらも懸命に生きている。反王政府が民を守らぬのであれば、我々が守らねばなりません」
「だよな。ファーナティクスが近いせいで、ここらには時々強い魔物も出るし……。何の罪もない民が被害受けるのを見過ごしちゃおけねぇ」
「おまけにアストヴィダーツですもの。出現するだけでマナの崩壊は加速するわ。早急に封じなきゃ。それには出現後すぐに叩くのが肝要よね。フィアナの大気に馴染む前であれば、八魔将とはいえ本来の力は出せないもの。カイアもいるからアストヴィダーツの封印は問題ないわ」
次々と言葉を発する特級冒険者にイディオフィリアらは頷く。
「エリンが落ちる──俺らが負けるなんてことになったら、えらいことだ。ファーナティクスの軍勢はそのままアヴァロンに押し寄せる。アヴァロンにゃ大賢者ベルトラムと光竜ジルニトラがいるから心配はいらんだろうが、万が一にもアヴァロンが落ちればフィアナの結界は消えちまう」
「そうなれば、フィアナは1000年前の魔族横行時代に逆戻りね。まぁ、師匠がそんなヘマやるとは思えないけど。六竜全部召喚して叩き潰しそう」
「あれ……? ならエリン素通りさせてアヴァロンに向かわせたほうが良くないか? 尊師と六竜にお任せって」
「アル、それをやったら、我々は一生尊師に無能扱いされますよ。今ですら低脳扱いなんですから」
「無能扱いで済めばいいんだけど。一生どころか来世でも下僕扱いでしょうね」
話を聞きながら深刻な表情になっていたイディオフィリアたちだったが、ベルトラムの話題によってそれが薄れた。ソルシエールたちはいつの間にか軽口を叩いている。彼らは悲観などしていないし、この戦いに自信を持っている。己の力を過信するわけでもなく、心に余裕を持っている。
「あの……ベルトラム尊師って一体どんな方なんですか?」
「陰険嫌味な顔だけ綺麗なクソジジイ」
恐る恐る尋ねたフィネガスにソルシエールが即答する。
「ソルの育ての親、ソルの口の悪さは師匠に鍛えられた結果といえば判り易いでしょうか」
「天下のイロアスたる俺らを呼びつけて庭の草むしりさせるような御仁」
「フィアナ罵詈雑言選手権やりゃ、ぶっちぎりで優勝だな」
パーシヴァル、ミストフォロス、アルノルトも言う。その返答に魔術師として『大魔術師ベルトラム』に憧れを抱いていたフィネガスは衝撃を受ける。
「人格には大問題があるけど、魔術師としては文句のつけようのない方よ。フィアナの護りの要は間違いなく師匠だもの。ジルニトラ以外の契約していない神竜も召喚できるし。師匠なら反王が失敗した魔王バロールの召喚も可能だわ。まぁ、バロール召喚は多分私も出来るけど」
「怖いことさらっと言わないでください、姐御」
「大丈夫。師匠と本気の喧嘩したときに危うく召喚しかけたけど、ロデムに頭叩かれて止めたから。ったく、主を殴るなんてとんでもない
「寧ろ全フィアナの住民がロデム良くやったと褒めると思います」
「だな。今度ロデムに最高級の肉やるわ、俺」
すっかりいつもの漫才的な会話が繰り広げられている。イディオフィリアの出自にまつわる疑問は有耶無耶になっている。
「ったく、ソルがいると真面目な話がいつの間にか
緩んでいた表情を引き締めイディオフィリアは問いかける。
「琥珀の塔の研究じゃ、あと数十年で世界は滅ぶかもしれないって出てる。100年はもたないって」
研究者だったフィネガスが答える。それゆえに彼は研究所を出て冒険者になったのだ。少しでもマナの崩壊を遅くするために。
「──爺様が言ってたんだ。反王がいるから魔族がどんどんフィアナに現れるって。魔族がいるからマナの調和が崩れるって。爺様は詳しいことは教えてくれなかった。ソル、貴女なら知ってるんだよね。大賢者で、ベルトラム尊師の愛弟子である貴女なら」
真剣な眼差しでイディオフィリアはソルシエールを見つめる。それにソルシエールは戸惑う。今そこまで話すべきなのかと。
{話すべきです、ソル。殿下に出来るだけ判断材料を与え、ご自身で考えていただくべきです}
{話してやったほうがいいと思うぞ。今濁したら殿下が逆に不審がる}
{ここまで来たら話したほうがイディオ様のためだ。大丈夫、潰れるような方じゃないさ}
パーシヴァル、ミストフォロス、アルノルトがそれぞれ心話でソルシエールの背を押した。それに頷いて応えると、ソルシエールは出来るだけいつもの声音で言葉を紡いだ。
「魔族の齎す瘴気によってマナの調和は崩れるの。正確に言えば、闇のマナが汚染されて力を増し、聖のマナが弱まっているわ。魔族は次元の裂け目から現れるけれど、それを作り出す大元の次元の歪み──『異界の門』がある限り、魔族の出現はなくならない。そして、その『門』となっているのは、反王オグミオスその人よ。彼は魔族との契約で永遠に等しい命を得ているから、彼が自然死することはなく、魔族はフィアナに現れ続けるわ」
「反王が『門』だってのは最上位の極秘事項でね。知っている者は少ない。大賢者ベルトラム尊師、エルフ族長アラウン、精霊の母マザーツリー、エレティクス族長ベディヴィア、後は先王の家庭教師だったグィディオン公爵くらいか。ああ、この前グラーティア姫には教えたな。勿論俺たち4人も知ってる」
ソルシエールの話にミストフォロスが補足する。
「反王側でも知ってるのはわずかだろうな。下手すりゃ本人以外知らない可能性もある」
「寧ろ反王は誰にも明かしていないと思いますよ。オグミオスは猜疑心が強い。だからこそ、20年前の乱の折、彼は魔族やファーナティクスと結んだのです。同族が力を得ることをオグミオスは警戒した。今の王宮にオグミオスが信を置く者など存在しません。全ての部下は彼にとって駒でしかない」
だからこそ、先王の宰相だったディカルデンやムスタファが仕えることも出来ているのだ。全ての臣下を信用せず駒としか見ていないがゆえに、オグミオスは能力さえあればそれに見合った地位を与える。決して無能な為政者ではないのだ。魔族との契約さえなければ。
「つまり……反王を倒さなきゃフィアナから魔物はいなくならない、魔物がいる限りフィアナは滅びるってことだね」
「ええ、そうね。少なくとも魔族とファーナティクス以外の種族は滅亡するでしょうね」
大陸そのものが消え失せるとは限らない。けれど少なくとも今この世界にある6種族のうち半数は滅び去ることになるだろう。
「正直なところ、オグミオスは王としちゃ有能なんだよ。少なくとも3代前・4代前の王よりは遥かに優れた王だ。先王や先々王には劣るけどな。だからオグミオスが『門』でなけりゃ、別に放置しても問題ない。まぁ、それでも俺やパーシィはオグミオスぶっ殺したいけどな」
「そうですね。私にとっては父の仇、フォロスにとっては友人の仇ですから。本当に驚きましたよ。フォロスがソルや私の父と一緒に冒険者をしていたなんて」
「俺としちゃあのボルスの息子が堅物のパーシィだってことのほうが驚きだ。バルタザールの息子ってほうがまだ納得できる」
「そうね。ボルスおじ様はお茶目な方だったもの。ガナトフ大おじ様もゼノヴィアおば様も豪快な性格をしてらっしゃるのに、どうしてバーシィだけこんな堅物なのかしら」
「それを言うならソルだって同じでしょう。あの真面目なバルタザールおじ上と淑やかなマリアおば上の娘なのにどうしてこう……」
「いや、それ、育てたベルトラム尊師の影響だろ」
「でもマリア殿の万分の1でも淑やかだったらとは俺も思うぞ」
「って……ソル! パーシィさん!! またリデルになってる! 話逸れすぎ!!」
再び漫才を始めた特級4人にイディオフィリアが突っ込みを入れる。ヴァルターらもあまりにもいつもどおりな4人に笑いが漏れる。いつだってこうなのだ。真面目な話をしていたはずなのに、ミストフォロスやソルシエールが話を逸らし始め、それにパーシヴァルとアルノルトが便乗し、完全に漫才になる。それに突っ込みを入れて話を元に戻すのはいつもイディオフィリアだ。しかしそれでヴァルターたちも肩から余計な力が抜ける。
「あー、うん。まぁ、フィアナのことを考えりゃ、反王は倒さなきゃいかん。けど、それは誰の義務でもないってことだ。イディオが反王を倒すってんなら協力する。っつーか同じ志持つことになるしな」
「イディオフィリア殿がそこまではしないというなら、反王との戦いに関しては別行動、普段の生活と魔族討伐は共に。まぁ、今までどおりということですね」
「誰かに強制されたり、促されたりしての行動じゃ本気で取り組めないでしょうしね。何しろ簒奪者とはいえ現国王との戦いだし。戦うとなれば他人の命も背負うことになるんだもの。イディオは如何したいのか、貴方自身の考えで動いてほしいわ」
己の意志で反王打倒を決めてほしい。4人はそう望んでいる。それを勧めも強制もしない。4人ともイディオフィリアに課せられた宿命は知っている。けれど預言があるからといって、否、預言があるからこそ、それを強要したくはなかった。
「俺さ、島にいるときに顔馴染みの婆ちゃんが魔物に襲われて大怪我したんだ。いつも俺に菓子とか作ってくれた優しい婆ちゃんで……何もしてないのに魔物に襲われて怪我して……。そんなのイヤだから魔物狩りしてた。でもさ、魔物っていて当然だと思ってたけど違うんだよね。反王がいる限り魔族が出るってことは、反王がいなくなりゃ魔族は出なくなるんだ。そうすれば婆ちゃんみたいに怪我する人もいなくなるよね。魔族のせいで家族失ったり、村を捨てなきゃいけない人ももなくなるんだよね。なら、俺、魔族出なくするために反王倒したい。反王には何の恨みもないけど、反王──オグミオスって人間を殺す覚悟はまだ出来ないけど、それでも倒したいって思うよ」
イディオフィリアの言葉にソルシエールらは4人は驚き目を見開く。まさか今の段階でイディオフィリアがそれを思い立つとは予想していなかった。けれど自分たちが予想していたよりもずっと多くのことをイディオフィリアは見聞きし、考えていたのだ。
「うん……魔族を完全にいなくならせることなんて出来ないって思い込んでたからな。方法があるならそうしたいよ。冒険者になって色んな人に会って、思ってた以上に魔族の被害大きかったんだって実感したし……」
ヴァルターもイディオフィリアに同意する。町の護衛のリチェルカなどはまだ受けた経験はないが、情報収集の際に様々な人と出会っている。中には魔族襲撃によって村を失った人もいた。それゆえに冒険者となった者も血盟にはいるのだ。
「だね。イディオの言うとおり、じゃあ反王を殺せるかっつーと、まだそんな覚悟は出来てないけど。世界が滅ぶってのも実感湧かないし……。でも、魔族が完全にいなくなれば、仲間やその家族が危ない目に合うことも減るし、だったらそうしたいよな」
ティラドールも賛同を示す。世界のことなど大きすぎて判らない。けれど身近な人たちが安心して暮らせるようになることは判る。
「俺は研究者だから、多分姐御と感覚は近いかも。マナの崩壊抑えたくて冒険者になったんだし、完全に止めることが出来るなら、それをやるよ。俺みたいなヘナチョコ魔術師に何処まで出来るか判らないけど」
フィネガスまでもがそう告げる。意図せずして【トリスケリオン】幹部が反王打倒の志を持ち始めたことに、ソルシエールたちは驚きつつも喜びを感じた。
「ぶっちゃけて言うと、アンヌンは既に何度かオグミオス暗殺に動いてんだ。でも失敗してる。王宮にもオグミオスの居室にも強力な結界と守りがあってね。俺もベディヴィア様でもオグミオスの許には辿り着けなかった。オグミオスを倒すには王宮から引きずり出すしかない」
「あの結界は師匠ですら破る方法が見つからないの。無理矢理破ることは可能だけど、その場合はミレシアが消滅するくらいの反動があるらしいわ。どうやらバロールが施した結界みたい」
現時点では反王のみを倒す方策が見つかっていない。反王だけを暗殺できるのであれば、犠牲は最小限で済む。しかし、王が暗殺されれば王国に訪れるのは混乱だ。そうならないためにも『王子』に起ってもらいたいのだ。先王の遺児が王国奪還のための戦いを起こし反王を討つ。それによって政権は王子へと移り、同時に魔族の脅威も消え失せる。
「ファーナティクスの問題もあります。王国が弱体化すれば空かさず侵攻してくるでしょうね。フィアナを手中に収めるために」
ただ反王を倒すだけでは駄目なのだとパーシヴァルは告げる。深刻な事態にイディオフィリアたちは言葉を失う。今自分たちの生きている世界がそんなにも危機にあるとは思ってもいなかった。
「王国のことは、王や貴族に任せよう。俺たちは冒険者だ。魔族から民を守るのが仕事だよ。だから反王討伐を目指す。まだ方法は見つかってないけど、動き出さなきゃ何も始まらない。どんどん魔族倒していけば、バロールの結界が弱まるかもしれないんだしさ」
沈黙の後、イディオフィリアは口を開いた。その瞳には確かな意志がある。
「ヴァル、ティラ、フィン。この戦いが終わったら、血盟の方針変更して再編するよ。血盟員の対応で忙しくなるかもしれないから覚悟しておいて」
「了解。俺たちは何処までもお前と一緒だぞ、イディオ」
ソルシエールたちの予測以上の早さで、【トリスケリオン】は反オグミオスの志を示すことになった。
{というわけですわ、老師}
イディオフィリアの部屋を出た後、ソルシエールはユリウスへと心話を送った。イディオフィリアが反王討伐の志を抱いたことを告げるために。
{然様でございますか。あれは仲間に恵まれたのですな}
応じるユリウスの声は感慨深げだった。
{ソルシエール様、このたびの戦いが終わったら、名を知る方々と共にイディオフィリアに島に戻るようにお伝えくだされ。全てを話すと}
イディオフィリアが『王子』となる日が近づいている。そして、その前には過酷な戦いが控えていた。