話し合いを終えると、ソルシエールは時間が勿体無いとばかりに、再びアジトを後にした。血盟員への説明は盟主であるイディオフィリアが行う。側には頼りになる幹部たちがついているのだから、何ら心配はない。
けれど、バラウールの召喚にはどれほど時間がかかるかは判らない。師ベルトラムから命じられて既に3年だ。けれど未だに召喚できていないのがバラウールだった。
バラウールは水の神プリュデリの眷属の神獣であり、これを召喚することは魔獣よりも数倍難易度が高くなる。これまでの歴史の中で竜を召喚できた者はたったふたりしかいないほどに。竜の召喚に比べればフラウロスの召喚など児戯にも等しい。
ソルシエールはノーデンスケイブの地下へと降りた。このダンジョンの第4階層は海底にあり、そこにバラウールの棲家とされる場所があるのだ。
水中でも地上と変わらぬように行動できる『プリュデリの息吹』と呼ばれる特殊な薬品を飲み、ソルシエールはロデムとマーナガルムたちを従えて海底を進む。海底には水棲の魔族の他、瘴気の影響によって凶暴化した海獣がおり、ソルシエールとて油断は出来ない。尤も魔族にしろ野生のそれらにしろ、フラウロスであるロデムがある程度魔力を解放してソルシエールの側にいることによって、簡単には近寄ることが出来ないのではあるが。
ソルシエールは最奥にある洞窟の前で立ち止まる。冒険者たちが『水竜の棲家』と呼ぶ迷宮だった。
六竜はそれぞれ『棲家』と呼ばれるダンジョンに生息しているとされている。光竜ジルニトラはアヴァロンに、闇竜ジランダはピクト東方に、火竜アジュダヤはファグリア北方の火山地帯に、地竜ギーヴルは竜谷のダンジョンの地下に、風竜リントヴルムはミレシア西方の森に、そして水竜バラウールはこのノーデンスケイブの洞窟に棲むと言われているのだ。少なくとも光竜と水竜についてはそれが事実であることをソルシエールは知っている。
竜の召喚は基本的にはまず、この竜の棲家に出向かなくてはならない。魔族の召喚の場合は場所を選ばず、術者当人の魔力次第なのだが、流石に神獣だけあり、竜の場合は魔族に比べて手順が決まっており複雑なのだ。
その第1段階が『竜の棲家』へ出向いて竜に呼びかけることだった。『竜の棲家』はそれぞれが難易度が高いとされる迷宮の奥にあり、そこに辿り着けないことには話にならない。無事に辿り着けたとしても召喚する術者の魔力が低ければその言葉は竜には届かず、
ソルシエールの場合、第1段階は3年前の初めての試みの際に完了しており、それ以来3年間ずっと第2段階から先に進めずにいた。
「護衛ご苦労様、ロデム、シュヴァルツ、ノアール、ネロ。戻っていいわ」
〔レギーナ、気をつけるのだぞ〕
神獣との対話の場に魔族が同行することも出来ず、ロデムたち魔獣は姿を消す。これまで幾度も同じことを経験しているだけに、過保護な魔獣たちもあっさりと従った。
ソルシエールは呼吸を整えると、洞窟の中へと入る。洞窟の中は外とは違い、清浄な気に満ちている。ここは神の住む場所なのだとソルシエールが感じるほどに、痛いくらいに澄んだ気だった。
〔また来たのか、人の子〕
ソルシエールの脳裏に男とも女とも判らぬ声が響く。何処か呆れたような声音だった。
(どうしても貴方と召喚契約を結ばねばなりませんから、水竜バラウール)
ソルシエールは声に出さずに応じる。声を出す必要はない。人ならざるもの、神に等しきものとの対話なのだから。
〔ほう、以前とは気迫が違っておるようだ。それにその額飾り。懐かしいものを見たぞ〕
バラウールの姿はない。姿を消しているのか、神々の世界にいるのかは判らない。竜は特別な事情がなければ人に姿を見せることはないのだ。その特別な事情のひとつが召喚獣となっている場合となる。
〔そなたがブランの
バラウールは何処か感心したように呟く。太古の昔から生きているといわれる神竜だ。その額飾りのことも知っていた。フィアナ建国以前、バロールを封印するために聖者ブランの求めに応じて作られたものだ。白金の台座に6つの色の異なる宝玉が埋め込まれた額飾り。その宝玉は六竜の鱗に他ならない。──竜を召喚するための、六竜が唯一主と認めた者の子孫であることを示す額飾り【六竜の瞳】だった。
(私が誰の子孫なのか、そんなことはどうでも良いことです。宿命ゆえに貴方を召喚するのではありません。私の目指すもののためには貴方の力が必要なのです、水竜バラウール)
宿命だからオグミオスを倒すのではない。それが必要だと思うから倒すのだ。押し付けられた運命ではなく、己の意志で。
〔気迫が違っておるな。なんぞ、地上で起こっておるのか〕
これまでとソルシエールの持つ意志の強さが違っていることをバラウールは感じていた。これまでとてソルシエールは真剣に召竜することを望んではいた。けれど、今までとは明らかに違う。ソルシエールは宿命を知り、受け入れ、そしてもうひとりの預言の子と出逢ったのだとバラウールは理解した。
(近くアストヴィダーツが地上の村を襲います。それに対するには人はあまりに無力。1万のファーナティクス軍とアストヴィダーツの軍勢を同時に相手に出来るほど人の力は強くありません)
〔アストヴィダーツ……。バロールの八魔将か。確かにそれは厄介なこと〕
バラウールはしばし思案する気配を見せる。もうそろそろ良いだろうと思った。
ソルシエールとの対話は悠久の時を無為に過ごしていたバラウールにとって楽しい時間だった。バラウールが知らぬ人間たちの世界の話をソルシエールから聞かされ、変化する世界を知るのも興味深いことだった。
ソルシエールの魔力が高いことは初めから充分に感じ取っていた。己と同じプリュデリの眷族であることにも気付いていた。神々と当事者しか知らぬことだが、聖者ブランは水の神プリュデリの息子だ。そのブランの子孫なのだから、ソルシエールは紛れもなく己と同じプリュデリの眷属だった。
バラウールは本当はとっくにソルシエールを認めていたのだ。だが、気迫が足りなかった。まだ状況が差し迫っていないのだと判断したバラウールはソルシエールとの対話を楽しんでいたのである。
突然、周囲の気が重みを増した。思わずソルシエールが膝をついてしまうほど、空気が重くなったのだ。ソルシエールが渾身の力を以って立ち上がったとき、目の前には蒼銀色に輝く鱗に被われた巨大な竜がいた。
〔ソルシエールよ。我と同じくプリュデリの加護を受けし娘。そなたの呼びかけに応じよう〕
海よりも深い蒼の瞳がソルシエールを見つめる。
〔されど、これで召喚契約が終わったわけではないぞ。我を使役するにはもうひと段階乗り越えねばならぬ〕
それが最終段階となる。魔族の召喚の際には名を与えることで契約となるが、竜の場合にはこの神域から外界へ竜を連れ出さねばならない。巨大な竜の姿を肩に乗るほどに小さく変化させる【メタモルフォゼ】という手順を踏まねばならないのだ。
これは一時的に竜を神々の支配下から解放し、術者の使役する召喚獣へと変えるために必要な手順なのである。召喚獣となった竜は、その後は己の意志によって地上でも本来の竜の姿に戻ることも可能になるし、人型をとることも出来るようになる。ソルシエールの師匠であるベルトラムも時折、肩に金色の小さな竜を乗せていることがあったが、それがジルニトラがメタモルフォゼした姿だった。
メタモルフォゼさせ、名を与えることによって、ようやく竜の召喚契約が完了するのである。
〔これから先はここに来る必要はない。そなたが一番落ち着く場所から我を招け。祈りの強さ、覚悟の強さによって我はそなたの許へと現れる〕
「判りました、水竜バラウール」
バラウールの持つ神々しい強大な魔力に圧倒されながらも、ソルシエールは応じる。ようやく次の段階に進めたことに安堵しながらも、心にはわずかばかりの焦りもあった。第2段階から最終段階に進むまでに3年の歳月を要したのだ。最終段階にどれほどの時間がかかるのだろうと。時間はない。1ヵ月後にはアストヴィダーツが現れるというのに。
〔焦るでない、
ソルシエールが水竜の棲家にいるころ。召喚獣たちは全て人型になり、ひと足先にマグメルドの隠れ家にやってきていた。ここがソルシエールにとって一番心安らぐ地であり、竜の棲家に行く際にはいつもここを拠点としているのである。
メイドのベルタに10日から1ヶ月程度の長期滞在になる可能性を伝え、セイレーンはソルシエールの居室を整える。ロデムたちもセイレーンを手伝い、あれこれと邸の中を動き回っていた。そうしていなければ落ち着かないのである。
やがて5人は一様にホッとした表情になった。主が第2段階を達成したことを感じ取ったのだ。それから程なく、ソルシエールが転移魔法で別荘に現れた。
「第2段階達成おめでとうごさいます、ソルシエール様」
召喚獣たちは喜びと安堵の表情を浮かべていた。元々は敵であった神の眷属と仲間になる日が近づいていることに関しては複雑な気分のようではあったが。
「珍しいわね、ロデムもその姿なんて」
「……仕方あるまい。セイレーンの手伝いをしておったのだ」
「あら、良い子ね、ロデム」
「こ……子供扱いするでない!」
ロデムの頭を撫でるソルシエールに、満更でもない表情をしつつ、ロデムは抵抗する。
「お疲れになられましたでしょう、お嬢様。お湯浴みなさって、今日はゆっくりとお休みなさいませ」
人型をとると乳母になってしまうセイレーンは早速甲斐甲斐しく世話を焼き始める。そんなセイレーンの姿にベルタが苦笑して下がっていくと、ロデムとマーナガルムたちは動物姿へと変化した。この姿のほうが主の精神的な癒しになることを理解しているのだ。
「確かに今日は疲れたから、早めに休むわ。明日からはずっとメタモルフォゼのために祈らなきゃいけないものね」
神域である竜の棲家の清浄すぎる気とバラウールの強大な魔力、そして対話のための極度の緊張と過度の集中によって、ソルシエールは疲れきっていた。今後のためにも、今日は体を休めたほうがいい。
「食事が終わったら、すぐに休むわ。皆一緒に寝ようね」
〔勿論です、レギーナ〕
ネロが嬉しそうに尻尾を振り、ロデムですらご機嫌な様子で尻尾がピンと立つ。
──水竜の召喚が完了したわけではないが、その日が近いことを感じ取って、皆が安堵を覚えていたのである。
翌日から、ソルシエールはメタモルフォゼのための祈りに入った。
母に頼んで届けてもらった聖水で身を清め、普段は使うことのない祈祷室に篭る。精進潔斎しての祈りであるために、魔族である召喚獣たちは祈祷室の中には入れず、ソルシエールの私室で落ち着かない様子でソルシエールの祈りが終わるのを待つ。体力を考えても祈祷室に篭るのは半日が限度であり、ソルシエールが無理をし過ぎないように切り上げさせるのも彼らの役目だった。
〔レギーナは深い集中に入っているようだな〕
精神が繋がっていてソルシエールの見聞きした体験を共有できるとはいえ、考えが読めるわけではない。ただソルシエールが精神を統一し、深い集中状態の中にいることだけが判る。
〔瞑想状態になるまで、深く集中しなければなりませんからな〕
ロデムの言葉にシュヴァルツが応じる。彼はこれまでに3度ソルシエールの召喚契約に立ち会っている。ノアール・ネロ・ロデムの召喚契約のときに。
〔ソルシエール様も大賢者になられるのですわね〕
何処か感慨深げにセイレーンは呟く。
彼女がソルシエールの召喚獣となったのは、もう19年も昔のことだ。ソルシエールはわずか6歳の童女であり、そんなにも幼い人間に召喚されたことに、彼女は衝撃を受けた。
魔族は本来異界に存在している。その異界にまで次元の壁を越えて呼びかけるのが召喚だ。当然強大な力が必要になる。力が弱ければ異界の壁に跳ね返され、声が異界の魔族の許へ届くことはない。しかし、それをわずか6歳の幼女がやってのけたのである。
通常であれば、魔族の召喚は次のような手順を以って行われる。
まずは術者が召喚したい種族に対して呼び掛ける。術者が呼びかけると、その魔力に応じた個体に声が届く。魔力が弱ければ当然声は届かないし、術者との魔力の差が大きすぎる個体は声を受け取ることが出来ない。
声を受け取った魔族は当然ながら、人の支配下に入ることを拒み、抗うことになる。そこからは術者と魔族の精神力の戦いとなる。術者に抗うことが出来ず、召喚を受け容れると、術者から名が与えられる。それで召喚契約は完了となるのだ。
ところが、セイレーンは抗う暇もなく一瞬でソルシエールの支配下に置かれた。決してセイレーンの魔力が弱かったわけではない。元々セイレーンはハルピュイアの一部族の女王であり、当然ながら魔力も高く格の高い個体だったのだ。そのセイレーンですら一瞬で召喚するほど、ソルシエールの魔力は高かった。
〔あれほどの魔力をお持ちですからな、レギーナは〕
シュヴァルツも同意する。彼はマーナガルムの中でも中核となる大部族の王弟であり、衆望厚い一族の重鎮だった。その彼もソルシエールの召喚には半時も抗うことが出来なかった。
〔確かにそうですな。レギーナならば当然だろうが〕
〔ええ。我らをあっさりと召喚なされたのだから〕
ノアールはシュヴァルツとは別部族の王族、ネロはシュヴァルツの兄の息子、つまり王子だった。それぞれ、やはり半時もかからずにソルシエールの召喚に応じる結果となった。
〔流石にロデム殿のときには苦労しておられましたが〕
〔当然だ〕
少しばかり誇らしげにロデムはシュヴァルツに答える。
ロデムはフラウロスの中でも最も力があるとされる部族の次の王と目される王子だった。彼の父は四魔公爵である黄泉の騎士の第一軍の軍団長をしている。当然ロデムもそのまま行けばその地位を受け継ぐはずだった。それほどに力の強い個体だったのだ、ロデムは。
通常のフラウロスは赤い瞳をしているがロデムの瞳は金色をしており、これはロデムの魔力が突出して高いことの現れでもある。これまでにこの金の瞳を持ったフラウロスはロデムの他にはベルトラムの召喚獣となったレーヴェしかおらず、ロデム出身部族の現在の長であるロデムの父ですら、この金の瞳は持っていない。
それほどまでに力の強いロデムであったから、流石のソルシエールもそれまでのようには行かず、かなりの苦労をした。ロデムが彼女の召喚に応じたのは3日目のことだったのだ。3日間不眠不休で対峙し続けたソルシエールとロデムは、召喚契約が終わると同時に、一緒になって泥のように眠ったのだった。
〔ロデム殿でも3日かかったのですから、神竜ともなればどれほどの時間がかかることか〕
セイレーンは心配そうな表情をして言う。魔族でいえばバロール配下の四魔公爵を呼び出すようなものであり、セイレーン程度の中位魔族であれば姿を見ただけで存在が消滅してしまうほどの強大な魔力を持っているのが四魔公爵だ。それと同等かそれ以上の存在を支配下に置くのだから、相当な困難が予想される。
セイレーンたちはソルシエールの魔力の高さを身を以って知っているし、ソルシエールが必ず竜の召喚に成功すると確信している。それでも時間は掛かると予測していた。恐らく最短でも10日、下手をすればファーナティクス軍侵攻に間に合うかどうか微妙なあたりになるだろう。
〔レギーナのお力を信じましょう、セイレーン殿。きっとレギーナは成し遂げられます〕
〔それは心配しておりませんよ、シュヴァルツ殿。ただ、時間がかかればそれだけソルシエール様のお体にも障ります。それが心配なのです〕
母親のような心配をするセイレーンに他の4頭は苦笑する。自分たちソルシエールの召喚獣は主に対して甘く、心酔している自覚はある。しかし、セイレーンは群を抜いていて、しかも明らかに自分たちとは違って過保護な母親目線になってしまっている。唯一の女性だからなのかもしれない。
〔レギーナのことだ。心配は要らぬだろう。それよりも心配なのは、レギーナがバラウールになんと名付けるかだ。メタモルフォゼに成功しながら、変な名をつけてバラウールが機嫌を損じて契約を蹴ってしまっては洒落にならん〕
危うく『にゃーこ』なんて可愛い名前をつけられるところだったロデムが溜息混じりに言う。過保護なセイレーンの気を逸らすためだけではなく、半ば本気で心配していた。
〔確かにそうですね。私もクロちゃんとつけられるところでしたし。止めてくださったセイレーン殿には感謝しております〕
シュヴァルツが苦笑混じりに応じ、ようやくセイレーンも必要以上に心配することを止めた。
〔しかし……神竜ともなれば、当然我ら召喚獣の中では別格の最上位ということになるのでしょうな〕
召喚獣の中では一番下っ端扱いされるネロがこれも溜息混じりに言う。
魔族としての位階からいえば最下位になるのはセイレーンだが、最初からいる召喚獣であることと女性であることから、5頭の中ではロデムに次ぐ地位を確保しているのだ。オスよりもメスのほうが強いのは人間も魔族も変わらないらしい。
〔……仕方あるまい。相手は神の眷属だ。既に数千年を生きているというしな〕
これまで最上位で威張っていたロデムも、流石に相手が神獣では譲らざるを得ないだろう。それが少しばかり面白くないロデムである。位階の高さとその出自の高貴さから、彼の矜持は高いのだ。
〔まぁ、そうそう竜を召喚することもあるまい。四魔公爵や八魔将が現れたときくらいなものだろう〕
まるで自分に言い聞かせるようにロデムは言う。
これまで位階の高い魔族を狩るときにソルシエールが召喚するのは、常にロデムだった。ソルシエールが最も頼りにする召喚獣は自分なのだという自負がロデムにはある。本人は認めたがらないが、まだ子供であるロデムはそれがとても嬉しいのだ。大人であるセイレーンやシュヴァルツ、ノアールはそのあたりも実は把握していて、ロデムを温かい目で見守っている部分もあったりする。
〔そうですね。まぁ、同じレギーナの召喚獣同士です。バラウールが召喚されたら仲良くやって行きましょう。ああ、付き合い方はいっそレーヴェ様に伺っても良いかもしれませんね。あの方も神竜と仲間になっておられますし〕
シュヴァルツの提案にロデムは拒否の意を示す。同じフラウロスとはいえ、レーヴェは自分などよりも遥かに強大な力を持っている。とても怖くて近づけないのである。
〔今から色々と心配しても仕方ないのではありませんか。なるようにしかなりますまい。それにレギーナの面倒を見るという点では同じでしょう。バラウールもきっと我々と同じ苦労をすることになるでしょうから、理解しあえますよ〕
暢気に欠伸をしながら言ったノアールの言葉は妙に説得力を持っていて、ロデムもセイレーンもシュヴァルツもネロも納得するのだった。
ロデムたちの予想どおり、流石にバラウールの召喚契約完了には時間がかかった。既に祈りに入って8日が経過している。毎日早朝から祈りに入り、深夜になる前にセイレーンかシュヴァルツによって強制的に床に就かされる日々だった。
〔そうだ、ソルシエール。我の姿を思い浮かべよ。それを徐々に小さくし、そなたの肩の上に乗る小竜を思い描くのだ〕
脳裏に響くバラウールの言葉に従い、ソルシエールは小竜の姿を思い描く。掌に乗る小さな竜。蒼く銀色に輝く姿の気高き獣。思い描いた小竜を実体化させるように膨らませ、精神を研ぎ澄まし集中する。
(もう少し。もう少しで……。早くしなければ、間に合わなくなる)
だが、もう一歩のところで集中が切れてしまう。いつもそうだった。あと一歩まで来ると必ず焦りが生まれる。気が乱れてしまうのだ。
〔ソルシエール、焦るでない。間に合う。大丈夫だ。己を信じよ〕
(はい、バラウール)
流石にソルシエールにも疲労の色が濃くなり始めている。1日の3分の2近くを祈りに費やしているのだから無理もないことだ。
〔しばらく休息をとろう〕
バラウールは集中の途切れたソルシエールに休むように言い、雑談を始める。張り詰めた精神を一度休ませねば、効率が悪くなるのだ。
〔我に与える名は考えたのか、ソルシエール。そなたの名付けはあまりよくないとジルニトラ様に伺っておるのだが〕
(光竜がそんなことを? 師匠から聞いたのかしら?)
〔さてな。だが、フラウロスはあまりの名の酷さに異界へ戻りかけたというではないか。我にも変な名を考えておるのではあるまいな〕
一体どういう情報をジルニトラはバラウールに与えたのだろうとソルシエールは頭が痛くなった。あの神々しい光竜はその姿とは裏腹に性格はひと癖もふた癖もあるのだ。流石はあの師匠の召喚獣というべきだろう。
とはいえ、ジルニトラが言ったことは嘘ではない。確かに『にゃーこでいいよね?』と言った瞬間にロデムが断ると言って背を向けようとしたことは事実だ。シュヴァルツも『クロちゃん』と言ったら眉間に皺を寄せて尻尾と耳が垂れ下がり全身で拒否の姿勢を示していた。
(一応、他の子たちにも相談してみたので、変な名ではないと思います。彼らもそれを心配していたので……。『カイアナイト』という名を考えています)
ロデムたちは本気で心配していたらしく、初日の祈りの後に考えている名を問い質されたのだ。そこでこの名を告げたところ安堵していたから、どれだけ不安に思っていたのかが判るというものだった。
〔ほう、我の鱗に似た宝玉のことだな。そなたにしては中々良いではないか。それを聞いて安心したぞ、ソルシエール。その名であれば、我も安心してメタモルフォゼしてそなたの召喚に応じられるというものだ〕
揶揄うようにバラウールは言い、ソルシエールは苦笑する。まさか本当に名前が不安でメタモルフォゼしなかったわけではないだろうが、意外にこの神獣は洒落が通じるようで、ソルシエールとしても気が楽だった。
〔念じるときにその名で呼びかけてみよ。己の決めた名のほうが、そなたの祈りも強くなるであろう〕
バラウールとの会話で精神の疲れから回復したソルシエールは頷くと、再び深い集中へと入っていった。脳裏に小竜の姿を思い描き、『カイアナイト』と呼び掛ける。今度は気が乱れることもなく、精神はどんどん深い底へと入り込んでいく。
どれほどの時間が過ぎたか判らなくなったころ、変化は訪れた。目を閉じ深く意識を集中させていたソルシエールにも、はっきりと祈祷室の空気が変わったことが判った。それは竜の棲家で感じたのと同じ、清浄な気だった。
〔目を開けよ、ソルシエール。否、我が主よ〕
その言葉にソルシエールが目を開くと、目の前に小さな竜が宙に浮いていた。蒼銀の体をしたそれは、紛れもなくバラウールのメタモルフォゼした姿だった。
〔我、古の契約により、汝ソルシエール=アシャンティ・クロンティリスを主と認め、我が力を捧げる〕
「水竜バラウール、汝にカイアナイトの名を与え、我が死するときまで我が僕となることを命ずる」
大賢者ソルシエールが誕生した瞬間だった。
ソルシエールの私室で待っていた5頭は、ソルシエールが大賢者となったことを感じ取っていた。喜んで祈祷室に駆けつけた5頭は、泥のように眠っているソルシエールとその枕頭で困惑している小竜の姿を見ることになった。
「……取り敢えず、レギーナを寝室に運びます」
〔よろしく頼む……〕
人型になったシュヴァルツがソルシエールを抱き上げ、動物姿の4頭と小竜がそれに続いて祈祷室を出て行く。
〔驚かれたでしょう、バラウール……〕
〔いきなり、倒れたからのう……〕
〔疲れておいでだったのでしょうけれど〕
寝室に運ばれ、ぐっすりと眠るソルシエールの枕頭で、新旧の召喚獣は主抜きで自己紹介をしあい、そのまま手のかかる主への複雑な心境を共有することになったのである。
エリン侵攻まで、残り約20日のことであった。