白き狼

 20年ぶりの兄と妹の再会だった。その空白の時間は瞬く間に埋まっていった。兄と妹の時間を邪魔せぬようにとミストフォロスともうひとりのエレティクスは部屋を出ている。

「不思議だわ。兄様とお会いしたら、どんどん忘れていた記憶が甦ってきました」

 リチェルカと魔族討伐、イディオフィリアの教育と、日々追われているソルシエールは家族のことを思い出す時間など殆どなかった。特に、この次兄を思い出すことは皆無に近かった。反オグミオス血盟の盟主『イオニアス・ベイオウルフ』のことを考えることはあったが、兄としての彼の記憶は今の今まで思い出すことがなかった。

「僕はよく君を思い出していたよ。冒険者としても君は有名でよく噂を聞いていたしね」

 イオニアスは愛しげに妹を見つめる。

「君は、小さなころには僕の後ばかり付いてきて、何をするにも一緒にやりたがったんだよ」

 懐かしそうにイオニアスは言う。

「ええ、そうでしたわね。わたくし、兄様が大好きで、いつもくっついていましたもの」

 ソルシエールの中にも確かにその記憶はあった。忙しい父母、年の離れた長兄と過ごす時間は少なく、その代わり1日中イオニアスの側にいたのだ。文字を教えてくれたのも貴族の令嬢としての立ち居振る舞いを教えてくれたのも、この兄だったはずだ。

「僕がバーシヴァルと剣の訓練をするときも、いつもそれを見ていたね。パーシィばかりが僕の相手をするからずるいと、パーシィに食って掛かったこともあったな」

 当時を思い出したのかクスクスとイオニアスは笑う。

「そんなこと、ありまして? 覚えてませんわ」

 パーシヴァルは再従兄であり、父親同士が親友だったこともあって、幼いころからクロンティリス家によく遊びに来ていた。遊びというよりはムスタファやイオニアスとの剣の訓練が中心だったが。

「おや、覚えてないのか。あれは面白かった。君がパーシィに剣の勝負を挑んだのだからね。パーシィがとても困っていたな」

 わずか4歳のソルシエールが7歳のパーシヴァルに向かって短剣を構え『勝負ですわ、パーシィ』と挑んだのだという。パーシヴァルは困惑したものの、イオニアスも偶々同席していたふたりの父親たちも、堅物なムスタファでさえ笑うだけでパーシヴァルを助けてはくれなかった。

 とはいえ、7歳にしては成長が早く体を鍛えていたパーシヴァルと4歳の姫君では勝負になるはずもなく、パーシヴァルはただ幼い再従妹に怪我をさせぬようにと、それだけに気をつけて応対あしらったのだ。結局疲れ果てたソルシエールが降参して、この小さなイオニアス争奪戦は終わったのである。

「最後まで君は強気でね。『これくらいの腕があればお兄様の鍛錬の相手として不足はありませんわ。認めて差し上げます』なんて言うものだから、父上たちは大笑いだったよ」

 忘却の彼方にあった出来事を告げられ、ソルシエールは赤面する。いくら子供のころのこととはいえ、なんて恥ずかしい。パーシヴァルはそのことを覚えているのだろうか。少々気になったが、恥ずかし過ぎて尋ねることも出来ない。

「本当に君はお姫様だったんだ。5歳になったらベルトラム様の許へ行くことが決まっていたからね……、家族親戚、誰もが君を溺愛した」

「ええ……。覚えています。お忙しかった父様も、母様も、バルドゥイン兄様も……とても私を大事にしてくださった」

 長兄はソルシエールが3歳の時には宮廷に出仕をしていたが、帰ってくればイオニアスと一緒に遊んでくれた。母はいつも一緒にいたわけではないが、優しい眼差しで見守ってくれていた。忙しい父は共に過ごす時間は短かったけれど、可愛がってくれた。帰宅すればすぐにソルシエールを抱き締めソルシエールが苦しがるまで放さなかった。幼い娘の柔らかな頬に頬擦りしては『父様、お髭痛い』と抗議される毎日だった。

 家族だけではなかった。偶に顔を見せる祖父母、パーシヴァルの家族、皆がソルシエールを可愛がり愛してくれた。

 わずか5歳で家族と離れ離れになった。ベルトラムの許にいる弟子たちは皆同じように幼いころに預けられている。そのまま家族と疎遠になり、一生再会することもなく永別する者も少なくない。再会したとしても離れていた時間がそのまま壁となり他人よりも遠い存在となることもある。ソルシエールのように親しく再び家族として交流を持つことの出来る者のほうが稀だった。元々ソルシエールの実家は魔術との縁が深く理解があったこともその理由のひとつではあったが、家族がソルシエールに惜しみない深い愛情を注いでくれていたこととソルシエールがそれを実感していたことが大きかった。

 冒険者登録をしたその日に、すぐに母から会いたいと連絡を受けた。どうやらベルトラムが母に知らせたらしい。ミレシアの大聖堂に赴くとそこには母だけではなく、父と長兄もいた。そして父は10年前と変わらずにぎゅっとソルシエールを抱き締めた。『父上っ! アシャンティの骨が砕けてしまいますぞ!!』と長兄に引き剥がされるまで離れなかった。そんな父を見て母は昔と変わらぬ優しい笑みを浮かべていた。

 それからは王都に赴くたびに家族の誰かと会った。冒険者となっていたパーシヴァルと再会したのも長兄を介してだった。

 結婚適齢期になったソルシエールに求婚者が現れ始めると、父と長兄は片っ端から面談と称して相手を叩きのめした。父は文字どおり武芸という名の腕力で、長兄は理論という名を借りた屁理屈で。父と長兄の妨害を乗り越えた強者つわものことごとくベルトラムに『マナ的に不適格』という訳の判らない理由で退けられた。尤も、大賢者たるベルトラムが言うと妙な説得力があり、皆納得してしまったのだが。

 因みに父と長兄はソルシエールの兄弟子たちに相談して夫候補を送り込んでくることもあった。パーシヴァル・ミストフォロス・アルノルトもそういった求婚者だった。尤も本人たちはベルトラムが断ることを十二分に知った上で、父たちの顔を立てるために求婚してきたのだが。ミストフォロスなどは『絶対に有り得ねー結婚だろ』と笑ってソルシエール本人に言い、ソルシエールも激しく同意したくらいだ。

 ともあれ、10年離れていたとはいえ、再会してからは普通に独立した娘と実家の家族としての交流を続けている。──この次兄を除いては。

「僕だけが小さな姫君と会わせてもらえなくてね。自業自得とはいえ寂しかったし、すぐに自慢してきたムスタファ兄上には殺意が湧いたよ。まぁ、実の兄を殺すのもあれだし、ぶん殴る程度に留めておいたけどね」

 綺麗で優しげな顔をしてさらりと乱暴なことをイオニアスは言う。

 10年前、弱冠20歳にしてイオニアスは既に【自由の翼】血盟の盟主として指名手配を受けていた。

 20歳──今のイディオフィリアと同じ年齢だ。

 イオニアスが血盟を創設したのは17歳のときだ。パーシヴァルが冒険者となって王都を出たのを見届けてのことだった。イオニアスはパーシヴァルが王都を出るのと前後して表向きは病に伏したことにし、数ヶ月の病臥の後、公的には死亡したことになっている。実際には『イオニアス・ベイオウルフ』として冒険者登録し、ストラテォオティス昇格直後に血盟を創設した。

 志を同じくする騎士階級出身者と暗殺者アサシンとして活動していたエレティクスによって構成された【自由の翼】は、親オグミオス諸侯の領地での破壊活動を中心に行い、それによって『イオニアス・ベイオウルフ』は反逆者として指名手配を受けた。【自由の翼】はその性質上、構成員は明らかになっておらず、唯一判っているのが盟主であるイオニアスだった。とはいえ、イオニアス自身もその血盟員も細心の注意を払って行動しており、イオニアス・ベイオウルフの顔を知っている者は血盟幹部とギルド幹部だけであり、最古参のイロアスであるミストフォロスですら、今日初めてイオニアスの素顔を見たくらいだった。

『月白のスコル』と異名をとるイオニアスはその異名が示すとおり、活動そのものは過激な破壊者である。虫も殺さぬような優しげで風雅な貴公子が破壊者だなどとは誰も思いもしないのだ。

 ソルシエールの兄ふたりはその外見と内面が共に相反している。一見無骨で粗暴で熱血漢に見える長兄ムスタファは冷静沈着かつ冷徹な実務政治家であり、優しげで温和おとなしやかな次兄イオニアスは深慮遠謀に長けた過激な破壊者だ。

 クロンティリス家は代々軍の重鎮として王と国に仕えてきた一族である。前線指揮官と参謀のどちらも輩出しており、クロンティリス家の一族だけで充分に一軍を組織できるだけの力を持っている。反王オグミオスが当主バルタザールを処刑しなかったのもこの一族の力を考慮してのことだ。一族に生まれれば男女の別なく一流の軍人となるための厳しい教育が施される。当然、ムスタファもイオニアスもその教育を受けている。

 今は文官として出仕しているムスタファではあるが、指揮官として有能なことは領地でのファーナティクスとの戦闘で証明されており、一族の信頼も厚く次期当主として誰もが認めている。義と理、双方を兼ね備えたムスタファは正統派の騎士であり、国軍指揮官といえる。

 一方のイオニアスは虫も殺さぬ優しげな風貌からは想像も出来ないほどの苛烈さを持つ指揮官である。彼の異名である『月白のスコル』はその冷徹さに由来している。スコルとは古代の神話において世界の終末に太陽を喰らう魔狼のことである。それだけではなく、古の言葉で『嘲る者』を意味する名には冒険者たちの隠れた心情が込められている。反王とその配下の領主たちを『嘲る者』、それが『月白のスコル』なのだ。

 政治的な配慮と人道的倫理観から一般庶民を害することはない。略奪には正規軍よりも厳罰を以って対処する。活動の中で領主から奪った食料や富は、搾取されていた領民に返還する。

 だが、自分たちの活動に有利になると判断すれば、領主の悪逆な非行をも利用する。領民を切り捨てることもある。飽くまでも自分たちの目的は反王オグミオスの打倒であり、その過程での被害は仕方ないことなのだと割り切っているのだ。無辜の民の命が奪われればイオニアスとて虚心ではいられない。心は罪悪感に苛まれ、良心は痛む。それでもイオニアスは己に課した責務を全うするために進んでいる。歩みを止めるわけにはいかない。

 今、世界がどんな状況なのかはイオニアスも知っている。各地を巡る仲間たちからの情報。同胞にはエルフもいる。ソルシエールほどではなくとも、有能な魔術師もいる。魔力の高い彼らはマナ崩壊の危機をイオニアスに告げ、1日も早い挙兵を訴えている。

「焦ってはならん、ベネディクト。全てはイル・ダーナの導きのままに。そのためにアシャンティはベルトラム様の許へ行った。今焦って行動しては全てが無駄になる」

 父の言葉は挙兵を迷うイオニアスに向けられたものだった。イオニアスとて妹に告げられた預言は知っている。行方不明の先王の遺児とソルシエールが反王打倒の要だ。預言は反王の滅亡とそれによる新しい時代の到来を示している。ベルトラムの預言が外れることはない。ならば時期を待たなければならない。それは彼にも判っていた。──あまり時間がないことを彼が知らないことも幸いした。滅亡までに残された時間が10年余りしかないことは各種族の族長とソルシエールら特級冒険者しか知らないことなのだ。

 確かにフィアナは刻一刻と滅亡に近づいている。魔族の出現頻度も上がっている。だが、それでもイオニアスは挙兵を促す同胞たちを説得した。未だ機は熟していない。天の時も人の和も整っていない。時期尚早なのだと。今挙兵しても民の大半がついてこないことも彼は知っていた。フィアナの大半の民は世界が滅亡の危機に瀕しているなどとは想像もしていない。気付いているのは力のある魔術師くらいなものだ。そんな状況で挙兵したとしても反王の治世に不満のない民たちからの支持は得られない。

 だからこそ、イオニアスはずっと待っていたのだ。両親から『アシャンティと会え』といわれるその時を。機が熟するその契機きっかけを。

「アシャンティ、僕がどれほど君との再会を心待ちにしていたか判るかい?」

 イオニアスは目の前の妹に微笑みかける。溺愛している妹。だがそれだけではない。自分と妹が再会するとき──それは歴史が加速を始めるときなのだと彼は知っていたのだ。運命の子が出逢い、宿命に向かって進み始める。そのときこそ、自分が妹と再会すべきときなのだと。

「兄様、わたくしもそうですわ。兄様とお会いすれば運命の歯車は周り始める。そう思っておりましたの。──イディオフィリア様とお会いしてから」

 ソルシエールは兄の眼を見返す。妹ではなく、賢者にしてソフォス、ひとりの戦士として。

 そのソルシエールの反応にイオニアスは笑みを零す。流石は一流の冒険者だ、短い言葉から全てを理解しているのだ、と。

 妹に会いに来たのは彼女が【トリスケリオン】に属しているからだ。パーシヴァル、ミストフォロスと特級3人が属し、5級冒険者数名もいる、創設数ヶ月ながら魔族討伐に目覚ましい実績を挙げている血盟。そして冒険者登録からわずか半年でストラティゴスまで昇格した血盟主イディオフィリア・アロイス。ギルドレーラーたちは何処か誇らしげに彼のことを語る。

 それまで長く何処かの血盟に属することはなかったソルシエールたちがひとつの血盟に集まっている。しかも創設当初から。時が来たのだとイオニアスは知った。妹は王子と出会ったのだと。

「アシャンティ。──否、賢者ソルシエール殿。【トリスケリオン】の幹部としての貴女にご相談がある」

 イオニアスの表情と声色が一変する。優しい兄から【自由の翼】血盟主へと。

「何か起こる前兆でも? 月白のスコル」

 兄はただの冒険者ではない。反オグミオス血盟の盟主だ。その彼が血盟幹部としての自分に相談があるというのなら、それは即ち戦いへの協力要請に他ならないだろう。単なる魔族討伐に『イオニアス・ベイオウルフ』が出向くことはないのだから。

「近いうちにファーナティクスがエリンを襲うという情報を得た。大規模な軍を起こすらしい。恐らく1万は下らない」

 イオニアスの言葉にソルシエールは息を飲んだ。

 この数年、ファーナティクスが大軍を動かしたことはない。精々小競り合い──100人かそこらの部隊だった。人口わずか2000余人の辺境の地方都市に過ぎないエリンを襲うには多すぎる数だ。フィアナ王国軍の総数が2万5000人なのだから、1万といえばその4割に相当する。尤も、実際にはファーナティクスからの援軍を含めて約6万の兵がフィアナ中に配置されているのだが。

「──狙いはエリンではなく……」

 エリンを襲うにはあまりにも膨大な兵力。そんな軍を動かすということは本当の狙いが別にあるはずだ。

 ソルシエールの呟きにイオニアスは首肯する。

 エリンはアヴァロンへ繋がる唯一の道だった。アヴァロンへ行くにはエリンからの定期船に乗るしかなく、しかも定期船に乗るにはミレシア大聖堂が発行する渡航証が必要だ。冒険者ギルドと大聖堂が認めた旅芸人、商人、魔術師のみがアヴァロンへ入ることを許されるのだ。

 また、アヴァロンへは魔法で転移することも不可能だった。他の都市間は琥珀の塔から派遣された転移術者による転移が可能だが、アヴァロンへ送ることの出来る術者はいない。よほど強大な魔力の持ち主でなければ、アヴァロンを護る結界に阻まれ命を落としてしまう。このフィアナで大陸側からアヴァロンへの転移が可能なのはベルトラムとソルシエールのふたりくらいなものだろう。因みにアヴァロンから大陸の都市への転移は問題なく琥珀の塔の転移術者でも行える。島から出る分にはなんら問題はないのである。

 アヴァロンはこのフィアナ王国で唯一ファーナティクスの攻撃を受けていない。アヴァロンには多くの高位魔術師が住み、その強力な結界により堅く護られている。理由のひとつはイディオフィリアとソルシエールがいたことだが、それだけではなく、呪術的な意味もあり強固な結界で護っているのだ。ミレシア大聖堂から琥珀の塔、琥珀の塔からティルナノグ、ティルナノグからアヴァロン、アヴァロンからミレシア大聖堂へと線を繋ぐことでフィアナ大陸を包む結界を張っている。この結界がなければとっくにマナは枯渇し、フィアナは滅びていたであろう。

 ファーナティクスに侵されないアヴァロンは、大賢者ベルトラムの存在と共に、フィアナの民にとって希望であり、最後の心の砦でもあった。

 そのアヴァロンが陥ちれば、心の拠所でもある高位の魔術師たちが滅びれば、民の心は一気に崩れ落ちる。アヴァロンが在り、ベルトラムが在るからこそ、フィアナの民は絶望せずに済んでいるのだ。

「アヴァロンは厄介だからね。ベルトラム尊師の存在も。ファーナティクスとしてはどうあっても消し去りたいのだろう」

 光竜を召喚できる唯一の大賢者ベルトラムの存在意義は大きい。だからこそ、アヴァロンを護るためにもエリンへの侵攻は防がなくてはならない。

「まぁ、師匠がそうやすやすと侵略を許すとも思えませんけれど。あのジジィ……じゃなくてあの方を斃そうとするならバロールでも召喚しなくては無理ですわ。とはいえファーナティクスがアヴァロンへ向かうのを止められなかったら、後で死ぬまで嫌味をネチネチと言われてしまうでしょうね」

 ベルトラムが死ぬとも思えないし、あの師匠なら死んでも枕元で延々と嫌味を言い続けそうだとソルシエールは思ったが、取り敢えずそれは口にしなかった。大抵の人はベルトラムの性格が捻くれまくって迷宮化していることなど知らない。大賢者に相応しい人格者に相違ないととんでもない誤解をしているのだ。捻くれ過ぎて一見真っすぐに見えるベルトラムの極道な人柄を知っているのは、ごく一部の直弟子──イディオフィリアの祖父・ユリウス、パーシヴァルの妻オクタヴィア、そしてソルシエール──とその関係者である特級冒険者くらいのものだ。

「ああ、アヴァロンが侵攻される──陥ちなくとも、その影響は大きい。侵攻される可能性があるというだけでね。実際うちの魔術師たちですら、酷く動揺したよ。なんとしてもエリンで留めなくてはならない」

「ええ、勿論ですわ、お兄様。ところで、近々と仰っていましたけれど、時期は判っていらっしゃいますの?」

「あと1ヶ月程しか猶予はない」

 ソルシエールの問いにイオニアスは深い嘆息をつきながら答えた。

 わずか1ヶ月。そんな短期間に1万人以上の兵力を整えるのはどう考えても無理だ。正規軍は出てこない。正規軍、つまり王国軍はオグミアスのものなのだから。つまり、冒険者だけで兵を集めなくてはならない。

「時間を稼いで、兵力を削ぐように指示は出している」

 こうして話している間にもイオニアスの部下たちは兵を集めている。同時にファーナティクスに密偵を潜入させて様々な工作も行っているのだ。

「幸いファーナティクス内部にも不満分子はいるらしくてね。今、せっせとそいつらを煽って内部分裂するように仕向けているんだ。その甲斐あって、ファーナティクスの幹部4人が2対2に分かれて対立しているらしい。巧くいけば半数程度には兵力を減らせるだろう」

 それでも自分たちに比すれば大軍には違いない。今の自分たちの勢力は多く見積もっても1000に届くかどうかだ。

「バレンティアやディレットにも協力要請はしてある。彼らは戦いに慣れているから頼りになるだろう。だが、それでも人が足りない」

 イオニアスの【自由の翼】と同じく反オグミオス血盟であるバレンティアの【フェンリル】、そして傭兵を活動の主体としているディレットの【ヴァイシュピール】。どちらも兵士としての質は高いが規模からいえば50人に満たない小規模な血盟だ。【フェンリル】には副構成員ともいうべき冒険者も多いことからその数倍は人を集めることは出来るだろうが、それでも200人に届くかどうかという兵力でしかない。

「うちと合わせても500まで届かない。だからこそ、アシャンティ、君たちの助力が必要なんだよ」

 今では【トリスケリオン】は大規模血盟のひとつに数えられるほどになっていた。尤もその半数は初心者かそれに毛が生えた程度でしかないのだが。

「【トリスケリオン】が約200人。やはり、グラーティア姫にも力を貸していただきましょう。先日リチェルカをご一緒いたしましたし、アルノルトもいますから、何とかなります」

 【プリッツ】は300人近い大所帯だ。しかも血盟員の殆どが4級であり、戦力としてもかなり期待できる。【トリスケリオン】と【プリッツ】、この2血盟の人員は欠かせない。

 イディオフィリアは恐らくイオニアスの要請に応じるだろう。そもそも彼は誰かに強制されたわけでもなく、自らの意志で冒険者となったのだ。魔物を討伐し、少しでも民が安全に暮らせるようにするために。そんな彼が大軍に襲われようとする貧しい村を見捨てられるはずがない。

 実のところ、ソルシエールたちもそろそろ動く心算つもりではいたのだ。エリンやピクトのようなファーナティクスの脅威に曝されている町へ赴き、その実態をイディオフィリアに知らせようと思っていた。そうすることでイディオフィリアにオグミオスの支配下にあることの危機感を持たせようと考えたのである。

 とはいえ、いきなりの大軍相手の戦争には不安も残る。イディオフィリアをはじめ血盟の殆どの幹部はこれまでに軍の部隊を指揮した経験がないのだ。今まではダンジョンでの魔族討伐が主な活動だったのだから。

「お兄様、殿下はまだ軍を指揮した経験はおありではありません。10人程度のパルスの指揮であれば経験は積んでいらっしゃいますけれど」

 今では確かに大規模血盟といえるほどの人数を抱えるに至った【トリスケリオン】ではあるが、『軍』としての訓練などしてはいない。飽くまでも皆『冒険者』であり『兵士』ではないのだ。

「ああ、判っているよ。今回、殿下には戦いがどういうものなのかを知っていただくだけで充分だ。最終的な戦いであっても僕が殿下に期待するのは実戦指揮官の役目ではない。殿下の役目は戦いの結果に責任を持っていただくことだ。それこそが最高指揮官の役割だからね。実戦の指揮は僕らがやる。僕にバレンティア、ディレット、それにパーシィ、ミストフォロス、アルノルト、セアド、そして君。僕の下にも指揮官となれる者はいるし、大丈夫だよ。殿下は旗印だ。殿下の存在こそが僕らの戦いの大義名分であり、何よりも大きな力になる」

 イディオフィリアの役目は軍の象徴となり兵士と民を励ますこと、民に希望を齎すこと、そして未来を作ることなのだとイオニアスは言う。誰もイディオフィリアに最前線で指揮を執ることを望んではいないのだ。

「そうですわね。殿下はわたくしたちの希望ですもの」

 ご本人はまだ何もご存じではありませんけれど、とソルシエールは笑う。しかし、心中は複雑だった。この話の中でイディオフィリアの人格は無視されているのだ。『イディオフィリア=レヴィアス・アロイス・フォン・フィアナ』その名と血だけが必要とされているといっても過言ではない。

「君やフォロスを見ていれば判るよ、アシャンティ。殿下はきっと素晴らしい方なのだろう。皆に希望を齎すようなお人柄らしいね。だからこそ、血盟創設してわずか4ヶ月でこんなにも大きな血盟へと成長したのだろう」

 初心者支援として創設した【トリスケリオン】だったが、今では初級・2級の冒険者は全体の4割程度でしかない。人との繋がりが密接で何処か家庭的な【トリスケリオン】は居心地がいいらしく、3級昇格後も残留する者が多いのだ。

「パーシィはさぞかし鼻高々だろうね。我が君はこんなにも魅力に富んでおられるのだって」

 クスクスと笑いながらイオニアスは言う。決してイディオフィリアを旗印という『物』として見ているわけではないとソルシエールに知らしめるように。

「まぁ、パーシィが自慢に思うのも無理はない。冒険者になって半年余りで既にストラティゴスまで昇格しているのは尋常なことじゃない。いくら君やパーシィが側についているとはいえ、殿下ご自身の素質が高く懸命に努力なさった成果なのだろう」

「……ええ。とても努力なさってますわ、イディオフィリア様は」

 常に血盟主らしくあろうと努力し、自分に厳しいのがイディオフィリアだった。それでいて血盟員の前では明るい表情を絶やさない。悩んでいないわけではない。彼なりの苦労も悩みもある。

 だが、それを知るのはごく一部の幹部のみだ。血盟創設当初の創設メンバーにしかイディオフィリアは悩みを打ち明けない。弱音を吐くこともあるが、それは吐き出して次に進むための準備でしかなかった。弱音を吐く相手もヴァルターかティラドール、フィネガスと限られていて、その回数も決して多くはない。尤も血盟員ではないものにはよく愚痴を言っていた。正確には血盟員どころか人間でもないモノに愚痴を零すのだ。一番そのとばっちりを受けているのは、実は魔族のくせに人の好いシュヴァルツなのだが。

 ひととおりの愚痴や弱音を吐いた後は、また前に向かって進んでいく。決して立ち止まったりはしない。日々確実に成長していっている。それがイディオフィリアだった。

「早くお目にかかりたいものだ。イディオフィリア殿下に。……なにやらいずれ弟になる可能性もありそうだしね」

 意味ありげに笑うイオニアスにソルシエールは絶句する。どうしてそんなことまで知っているのか。

 ソルシエールとて、イディオフィリアから向けられる真っすぐな思慕の念には気付いている。だが、無視している。仲間以上の態度は取らない。今のソルシエールは恋愛など眼中にないのだ。それどころじゃない、というのが正直なところだった。

「お兄様……そんな情報何処から手に入れるんですか」

「伊達にフィアナ中に酒場と娼館を持ってはいないよ。情報を集めるには一番だからね」

 ニッコリと人の悪い笑みをイオニアスは浮かべる。

 世界最古の商売といわれる娼館と酒場。どんな時代にあっても決して消滅することのないこのふたつの商売は人が集まる。人が集まれば情報も集まる。更に酒と快楽は人の警戒心を溶かし口を軽くするのだ。様々な情報収集には最適な商売だ。イオニアスの経営するそれらの店はフィアナ中に散らばり、ファーナティクスにさえも店を構えている。そして、そこで働く者たちは全て同志であり、協力者だった。

「ともかく、今回は殿下は参戦してくださるだけでいい。僕やバレンティアとの顔繋ぎ程度の認識でいい。だけど、アシャンティ。君とパーシィ、フォロス、アルノルト、セアドには相当働いてもらうことになると思う。殊に魔術師──聖魔法の使い手にはね」

 一瞬でイオニアスの表情が変わる。

「聖魔法の使い手……まさか、お兄様……」

 その意味するところはひとつしかない。

「ああ、ファーナティクス単独ではやってこない。奴らは魔族を召喚する心算だ。だからこそ、部下たちがファーナティクスの内部分裂を促進してるんだよ。戦力を殺ぐためにね」

 ファーナティクスの東にあるピクトの城には首領級の魔族が封じられている。その名をアストヴィダーツ。魔族の王バロール配下の八魔将の一。

「──初めての戦いから、厳しいものになりますわね」

 ソルシエールは深く溜息をついた。一刻も早く、セネノースへ戻り、準備を始めなければならないと思いながら。