早春の麗らかな日差しの中、ひとりの青年が村を歩いていた。
「イディオ、また魔物狩りかい?」
青年に老齢の漁師が声をかける。
「まぁね。でも今日は封印の綻びもなかったし、魔物はいなかったけどね」
イディオと呼ばれた青年は明るく漁師に答える。いつも顰め面の祖父と違ったこの明るさが彼が島民から可愛がられる所以でもある。
「そりゃ良かったよ。大賢者様が守りの結界を張っていなさるから魔物なんざ怖かねぇが、小物は作物荒らしたりして面倒だからなぁ」
笑いながら言う漁師に頷きながらも、イディオ──イディオフィリアはこのところよく考えていたことを再び考える。
「じっちゃん、この島は大賢者様が結界張って魔物が入らないようにしてくださってるんだよね」
今日の分の漁を終え、のんびりと日向ぼっこしていた漁師はちょうどいい暇潰しが出来たと思った。イディオフィリアが老人の目の前に座り込んで尋ねてきたのだ。老人はイディオフィリアのことを気に入っている。物怖じしない人懐っこい性格で、この歳の若者にしては素直で、明るくて伸びやかで……まさに愛すべき人柄をしている。だから老人だけではなく、島民は皆好意的にこの青年を受け容れている。偏屈で頑固者な祖父はそれを疎んじているようだが。
「おお、そうさな。大賢者様は20年前の糞忌々しい反乱の後、この島に結界を張りなさったんじゃて。この島に魔物が入らんようにするためのもんじゃから、人に害はないと仰せじゃった。儂らが安全に暮らせるのも大賢者様や魔術師様たちが結界で守ってくださっておるからなんじゃぞ、イディオ」
この島に住む魔術師は島民の尊敬を集める存在だった。病院も聖堂もないこの小さな島では、魔術師たちは医者であり神官であり教師であった。その彼らが畏敬の念を持つのが大賢者だ。大賢者自身は島民の前に姿を現すことはないが、その言葉は彼の弟子である魔術師たちによって知らされる。
「うん、この島が守られてるってのは判ってるよ。でもさ、フィアナ本土に結界はないんだよね。だとしたら、本土は魔物いっぱいなのかなって思ってさ」
結界に守られているこの島でも魔物は出る。その殆どは農作物を少々荒らす程度の小物でしかないが、時折島民では手に負えない凶暴な魔物も出没する。イディオフィリアはそんな魔物を狩り、そういったものが島民を襲わないように見回りをしているのだ。
「本土からの来る商人たちの話じゃあ、魔物は増えておるらしいからのう」
老人も眉を寄せ、イディオフィリアも深刻そうな表情になる。
「まぁ、本土には冒険者も大勢おるんじゃし、心配は要らんだろうて」
イディオフィリアの気を引き立てるように老人は言うと、そろそろ夕食の支度の時間だと立ち上がった。
「じっちゃん、気をつけて帰れよ」
「お前のようなひよっ子に心配されるほど老い
それもそうだとイディオフィリアは老人に別れを告げると、家路を辿った。心の中にひとつの決意を秘めて。
ここ数日、孫が自分に何かを言いたげであることを老人は感じ取っていた。何かを告げようとしては躊躇い、それを繰り返している。
「爺様、相談があるんだ」
ようやくそう切り出した孫の眼はいつになく真剣なものだった。
「なんだ、言うてみろ」
老人は孫息子を見返す。孫が何を言おうとしているのか、老人は
娘が赤ん坊だったこの青年を連れて逃げてきたのは20年前。わずかばかりの騎士に守られて、父である彼が隠棲しているこの島にやってきた。敵の手の者に追われボロボロになった娘は、それでも赤子を父親に預けると島から出て行った。追っ手の目をこの島から逸らすために、別の死んだ赤ん坊を抱いて。自らを囮にして息子を守るために。まもなく風の噂で娘が敵の手に囚われ処刑されたことを老人は知った。
「俺、この島を出て冒険者になろうと思う」
今や立派な青年へと成長した孫はそう言う。いつかは言い出すだろうと思っていた。
「アヴァロンにだって魔物が出るようになってるんだ。フィアナ本土はもっと酷い状態だと思う。俺ひとり冒険者になったからって大したことは出来ないかもしれないけど、何もしないよりはマシだと思うし」
現在では最も多くの力ある魔術師たちが住むアヴァロンである。その魔術師たちによって魔族が入り込めぬように結界が施されている。それは魔族の被害から島を守るためではなく、この島に匿われ秘されていたふたりの運命の子を守るための措置だったのだが、イディオフィリアはそれを知るはずもない。
魔族を排除するためのものよりも遥かに強力な結界が張り巡らされているにも関わらず、この島にすら魔族が出現するようになっている。わずかな隙間から下位魔族が這い出てくるのだ。それだけ、マナの均衡は不安定になっており、だとすれば結界のないフィアナ大陸本土はもっと魔族の被害を受けていることだろう。
イディオフィリアはこの島に出没する魔物を倒している。誰に頼まれたわけでもないが、被害を受ける島民を放ってはおけなかった。少しでも人の役に立てればと、日々島を見回り結界に綻びがないかを確認し、出没する魔物を狩る。尤も魔力は殆どないに等しいため、島に隠棲する魔術師に結界が正常に作動しているかを確認できる術具を作ってもらい、それで確認して綻びがあれば魔術師たちに報告しているだけのことだったが、それでも何もしないよりは良いだろう。
武芸に関しては元々貴族だった祖父から基本は仕込まれているし、島に隠棲している元騎士たちの教えも受け、剣の腕はそれなりにあるはずだった。本土に渡り冒険者となってもある程度はやっていけるだろう。
「止めても無駄のようだな」
老人は溜息をつく。
だが、孫がこう言い出すのは当然のことだった。老人は孫に持てる知識と世界の状況を教え込んでいたのだから。オグミオスの反乱と魔族によるフィアナ王国の混乱。バロール召喚の影響による魔族の増加。それを知りながらこの島でのんびりと生きていける孫息子ではない。否、そんな孫息子であってはならないのだ。
老人はこの孫息子に娘婿と同じ輝きを感じ取っていた。もしかすると婿よりも強いかもしれない輝きを。それは孫がこの島で一生を終えるはずながないことを老人に確信させていた。
(預言の時が近づいておるのやも知れぬ)
老人はそう思う。25年前、師であったベルトラムに告げられた預言。娘が夫となる人物と出会ったときに、師は孫に関する預言を齎した。それは娘夫婦の死と孫の重い宿命を知らせるものであった。
「良かろう。エリンからアルモリカへ渡り、冒険者登録をすると良い」
あっさりと祖父が許可したことにイディオフィリアは拍子抜けする。絶対に反対されると思っていた。だからこそ、切り出すまでに時間がかかったのだ。
イディオフィリアにとってこのアヴァロンは魔族のことさえなければ退屈な場所だった。何もない孤島。島の人々は自分たちが生きるに必要なだけの作物を作り、漁をし、それで生活をしている。滅多に本土から人がやってくることはなく、年に一度か二度、旅芸人が来る程度だ。島に若者は殆どおらず、大抵の者は本土に渡ってしまっている。
幼いころにはイディオフィリアも何度か本土に行きたいと頼んだが、祖父は頑ななまでにそれを許さなかった。それどころか、この島に住む者とさえ、あまり接触はさせなかった。イディオフィリアが関わりを持ったことのある人物は祖父が連れてきた幾人かの騎士と魔術師だけだった。祖父は徹底して孫が外界と接することを禁じていたのだ。
長ずるに従って魔物を狩るようになり多少の交流を持つ島民も出始めたが、祖父はそれにもあまり良い顔をしなかった。
自分は一体何者なのだろう。イディオフィリアはそんな疑問を持つようになっていた。物心ついたときから祖父とふたりだけで暮らしていた。祖父から両親の話を聞いたことは殆どない。ただオグミオスの乱によって命を落とした、それだけしか教えられていなかった。
けれど、祖父は自分に様々な厳しい教育を施した。剣・槍・鈍器・弓矢などの様々な武器の扱い、馬術、基本的な魔術。更には軍略や用兵術。或いは民を治めるための為政術や経済学など帝王学と呼べるもの。
何のためにそんなものまで学ぶ必要があるのか判らずに祖父に尋ねても、『いずれ時が来れば判る』としか答えてはくれなかった。
徹底した外界──特にフィアナ本土──との隔絶と、まるで王族に対するかのような教育。両親の名すら知らぬ。そんな自分にイディオフィリアが不安を抱いたとしても無理はないことだった。
だから、冒険者となり本土へ渡ることは自分が何者であるかを確かめたいという思いもあってのことだった。
「但し、条件がふたつある」
老人は鋭い眼光で孫を見据える。かつて王宮で辣腕を揮った老練な政治家の眼だった。
「ひとつに、本当に信頼できる者でなくば本名を名乗ってはならぬ。儂の名も教えてはならぬ。もうひとつは来たるべき時が来たら一度この島へ戻れ。時が満ちれば渡すものがあるゆえな」
祖父の出した条件はイディオフィリアにはよく判らないことだった。だが、この祖父が言うことには意味があるはずだ。自分のこれまでの状況と考え合わせても重大な意味を持つであろうことは予測がついた。
「本名を名乗っちゃいけないことと、来たるべき時ってのは関係してるんだね、爺様」
つまり、『時』が来れば全ての疑問は解けるのだろう。
「そうなるはずだ。お前が冒険者として名を成し、本当に信頼し合える仲間を得れば『時』は来る」
『時』はイディオフィリアにとって過酷な戦いへの幕開けとなる。その前にイディオフィリアに信頼し合える本当の仲間がいれば、彼の指名は幾分果たしやすくなるはずだった。何よりも、過酷な戦いでの支えとなる。そうするためにも冒険者として仲間を探すのは必要なことだろう。
「判ったよ、爺様。信頼できると判るまで、本名は明かさない。『来たるべき時』ってのがいつかは判らないけど、そのときが来たら戻ってくるよ」
イディオフィリアは確りと頷く。それに安心したように祖父は眼差しを柔らかくする。
「儂はお前を甘やかさんぞ。旅立ちの資金は最低限の旅費しか渡さん。後は自分で何とかするんじゃな」
武芸の点では心配していない。人懐っこい性格も有利に働くだろう。何より孫には人を魅了する不思議な輝きがある。早々に敵に見つかることさえなければ、巧くやっていけるはずだ。
「判ってるよ、爺様」
イディオフィリアは明るく笑った。
イディオフィリア=レヴィアス・アロイス・フォン・フィアナ。
彼は先王ディルムドの遺児だった。
イディオフィリアが旅立ちの準備をする傍ら、祖父であるユリウス=パトリック・ノイマンはかつての師であったベルトラムの庵を訪ねた。丁度ソルシエールがパーシヴァルらとエレキシュガル討伐のリチェルカを行っているころのことである。
「そうですか。遂に殿下は旅立たれるのですね」
ベルトラムは優しげな微笑を浮かべる。彼がこういった表情をするのは珍しい。愛弟子ソルシエールに関わらぬことで彼が本心からの笑みを浮かべることなど稀なことだった。それだけにベルトラムがこのときをどれほど待っていたかが察せられる表情だった。
「殿下のご使命を思えば、確かに冒険者となって信頼できる仲間を集めるのは必要なことでしょうね。そして殿下ご自身の目でこのフィアナの現状を見ることも」
ベルトラムが感じているマナの均衡の崩壊はかなり深刻な状況だった。このままであれば世界は10年のうちに崩壊し始め、50年を待たずに滅びるだろう。一刻も早く魔族を追い払うことが必要だ。そのためには魔族を呼び寄せる媒介である反王オグミオスを倒さなければならない。
オグミオスは元々魔術師だ。その力は魔族の王バロールをこの地に召喚するには足りなかったが、異界とフィアナを結びつける門の役割を果たすには充分なものだった。オグミオスは魂を魔族に売り渡し、彼自身が異界との接点──次元の歪みとなっているのだ。彼を倒さなければいくら魔族を追い払ったとしても根本的な解決にはならないのである。
そして、この反王を倒し魔族を追い払う宿命を背負っているのが先王の遺児である王子イディオフィリアと聖者ブランの末裔であるソルシエールだった。
25年前、ソルシエールが母の胎内に宿り、王子の両親である賢王ディルムドとディアドラが出会ったとき、ベルトラムは啓示を受けた。
賢王の血が流れ
反王が世界を支配する
魔族が目覚め
渾沌の世界が訪れる
世界は崩れ落つ
聖騎士の
血盟の許に集いし勇者を率い
聖者の裔
古の盟約により神竜を招し
以って
魔族を払い反王を誅す
新しき世の創世とならん
聖騎士とは聖王マナヴィダンを指し、聖者はその弟ブランを示す。マナヴィダンはかつてこの地に溢れていた魔族を追い払い、ブランと妻である聖魔女アリアンロッドと共に異界への扉を封印し、現在のフィアナ王国を建国した。
それと同じことを
「殿下がご自身から冒険者になると仰ったのは幸いでした。どうやって殿下を世に送り出すべきかが問題でしたからね」
ユリウスがイディオフィリアにその出自、与えられた使命を告げ旅立たせることは簡単だ。側にはソルシエールと彼女の仲間をつければ良い。けれど、それは宿命を押し付けることに他ならない。イディオフィリアにとって祖父から告げられた使命は血に課せられた義務に過ぎず、与えられた仲間は心から信頼する友ではない。そこにイディオフィリアの意志による選択は存在しない。
ただ『役目だから』とオグミオス打倒の軍を起こしたとして、果たしてどれだけの者がイディオフィリアについてくるだろう。義務感のみの盟主に命を預けて戦う者がどれだけいるというのか。
フィアナを支配するオグミオスに対して戦を起こすのだ。支配者に抗うこと、そしてフィアナの国土に戦いを齎すこと、兵をはじめとした多くの命を背負うことになる。義務感しかない者にその過酷な責務を負うことは出来ない。
ゆえに飽くまでもオグミオス打倒の軍を起こすことはイディオフィリア自身の意志でなくてはならない。彼自身がそれを必要なことだと信じ、覚悟を持って決断しなければならないことなのだ。
既にイディオフィリアは現在のフィアナの状況を『このままでいいはずがない』と思っている。少なくとも魔族の増加に不安を抱き、少しでも魔族の被害を減らすために、まずは自分に出来ることをしようと冒険者になることを選んだ。
これから広い世界を見、様々な経験をしていく中で、イディオフィリアが何を感じ、どう判断するのかが鍵になる。
「もうひとりの預言の子、ソルシエールも冒険者です。あれに殿下と共に行動するよう命じましょう。既にソルシエールは己が何をすべきか自身の判断として理解しています」
この時点では、まだベルトラムはソルシエールに何も告げてはいない。
けれど、既に冒険者として10年魔族討伐に関わっているソルシエールは、フィアナの状況を正確に把握している。ベルトラムの見るところ、ソルシエールの魔力は自分に匹敵しており、その高い魔力を以って既にこの世界のマナが限界に近いことも感じ取っている。それを正すためには何をどうすべきなのかも恐らく判っている。
ソルシエールに対してベルトラムが何らかの役割を与えようとしていることにも気付いているようで、未だに何も命じないのは時期が来ていないからだということも理解し、今は時が来るのを待っているという状態だろう。
その一方で、パーシヴァル、ミストフォロス、アルノルトといった勇者たち、王都にいる両親・長兄とは常に連絡を取り、反オグミオス勢力や王都ミレシアの情報を得ている。冒険者階級が特級であるソルシエールの報酬はかなり高額なのだが、その報酬の半ば以上を冒険者育成のための訓練施設に寄付しているのも、いずれ起こるオグミオスとの戦いを見据えてのことだとベルトラムは見ている。
つまり、ソルシエールは自分の使命は知らぬまま、己の意志でその使命に沿った道を進んでいるのだ。王子イディオフィリアにも同じように自らの意志で道を選ばせることは可能だろう。
「殿下が挙兵し反王を倒すまで、短く見積もっても5年はかかるでしょう。そして、魔族を討伐し、マナを正常化しなければなりません。時間は……ないのです」
祖父に決意を告げてから7日後、イディオフィリアはアヴァロン唯一の港から出る定期船に乗って本土最南端の村エリンへと旅立った。エリンから冒険者ギルドのあるアルモリカへと旅し、ようやく目的地に着いたのはアヴァロンを出てから半月が経ったころだった。
エリンからアルモリカに旅をする間にも、幾度も魔物に遭遇した。幸い殆どが下級の魔族で、アヴァロンでも魔物との戦闘経験があったイディオフィリアは問題なく旅をすることが出来た。しかし、強くはないものの数の多いそれらの魔物にイディオフィリアは秀麗な眉を顰めた。彼の予想以上にフィアナ大陸本土は魔物が多かった。
それでも、この地域はまだ良いほうだということをイディオフィリアは知らなかった。エリンやアルモリカのあるフィアナ大陸南部は比較的魔物の少ない地域なのだ。魔物が多いのはオグミオスの住む王都ミレシアとその周辺であり、ミレシア、ノーデンス、セネノースといった都市部とその周辺にはかなりの上位魔族も出現するのである。
アルモリカに到着したイディオフィリアはその足ですぐに冒険者ギルドへと向かった。まずはここで冒険者登録をしなければならないのだ。
冒険者ギルドとはその名のとおり、冒険者を管理する組織である。本部は商業都市セネノースにあり、その他王都ミレシア・ノーデンス・アルモリカ・クロンターフに支部がある。冒険者登録が出来るのは本部のセネノースの他はこのアルモリカだけとなっている。
魔族討伐をはじめとする仕事──リチェルカといわれる──はまずこのギルドに依頼される。各地のギルドに持ち込まれた依頼は掲示され、それを冒険者たちが見て引き受けるのだ。報酬もギルドを通して支払われる。そのため依頼者と冒険者が顔を合わせるのは護衛の依頼のみとなる。
リチェルカには様々な種類があり、代表的なものは魔族の討伐となる。その他、隊商や旅人の護衛、手紙や物品の配達、薬草や鉱産資源の収集、町や村の警備など、多種多様な依頼がギルドに持ち込まれる。
それらのリチェルカは難易度によって5段階に分けられ、冒険者の階級によって受諾できるリチェルカに制限が設けられている。
冒険者の階級は通常5段階で、初級から2級、3級、4級、5級と昇格していく。基本的に登録したばかりの冒険者は初級から始めることになる。
「ではまず、精神鑑定と適性検査を行います」
受付に行くとイディオフィリアはそう言われた。ギルドの一室に連れて行かれ、目の前には聖職者らしき人物がいる。
「気を楽にして、目を閉じてください」
聖職者の言葉に従い、イディオフィリアは目を閉じる。穏やかで何処か厳かな聖職者の声が何かの呪文を唱え、イディオフィリアの体を暖かな空気が包み込む。
「精神状態に問題はありません。至って健やかな青年ですよ。合格です。魔力はあまり高くないようですから、戦士系がよいでしょう」
ほんの数分で鑑定は終わった。元々冒険者になるのに制限はない。しかし、犯罪者や精神的に問題のある者──残虐性の高い者、異常嗜好者などの犯罪者に成り得る可能性の高い者──を登録させないために行っているのだ。
「では、この書類に必要事項の記入を」
そういって手渡された書類には登録に関する基本情報を記入するようになっている。姓名・年齢・出身地・出身階級・登録職種の5項目で、姓名の欄には通称可との記載もあり、また、住所の記入欄はない。冒険者となる者の中には様々な事情を抱えている者もいるため、本名や住まいの登録は必要ないのだ。
(姓名……通称でもいいんだ、よかった。爺様が本名明かすなって言ってたからな。イディオフィリア・アロイスでいいか)
本名が必要ないことにほっとしながら、イディオフィリアは書類を記入していく。
姓名 イディオフィリア・アロイス
年齢 20歳
出身地 アヴァロン
と記入したところで手が止まる。
「あの……出身階級って?」
何故階級を聞かれるのだろうと不思議に思い、説明をしてくれた担当者に尋ねる。
「ああ、身分によって登録時の冒険者階級が違ってくるんですよ。騎士階級以上の出身であれば、登録可能年齢までにある程度の訓練や教育を受けていますからね」
平民であれば初級、騎士・貴族階級であれば2級、王族・諸侯であれば3級での登録となるのだと担当者は説明する。勿論、本人が希望すれば騎士や王族であっても初級からの登録は可能だ。また、平民出身の初級冒険者の場合は、格安で訓練所の講義を受けられるという特典もあるという。
「なるほど」
本来であれば3級での登録が可能なのだが、己の出自を知らないイディオフィリアは平民と書き込み、初級での登録となった。
登録職種は戦士と魔術師から選ぶことになっており、魔力があまり高くないイディオフィリアは戦士で登録した。
「受付完了です。では、冒険者階級とリチェルカについて説明をしますね」
担当者は書類に不備がないことを確認し、説明を始める。この説明の間にギルド側で冒険者章と支給する初期装備を準備するのだ。
「冒険者の階級は通常5段階に分けられています。その階級によって受けられるリチェルカと報酬額が変わります。イディオフィリアさんは戦士ですから、初級のキニゴスから始めることになります。その後、リチェルカをこなしていくことによって、2級のフィラカス、3級のストラテォオティス、4級のストラティゴス、5級のアフセンディアと昇格していくことが出来ます」
因みに魔術師の場合は初級から順にマゴス・モナホス・カログリア・イエレアス・プロフィティスとなる。
「リチェルカは初級であれば一番難易度の低い【ひとつ星】のみが受けられます」
リチェルカの難易度は星の数で表され、星の数が増えるほど難易度は高くなる。ひとつ星リチェルカの場合は主に近距離の配達や薬草・鉱物の採集が中心となる。
「ひとつ星のリチェルカを30件完了した段階で2級に昇格します。2級になると【ふたつ星】リチェルカが受けられるようになります」
初級と同じようにふたつ星リチェルカを30件完了することにより昇格し3級となる。3級は3つ星リチェルカまでは受諾可能で、やはりこれを30件完了することにより4級へと昇格するのである。
「4級以上はリチェルカの難易度制限はありません。4級までは自動的に昇格しますが、4級から5級への昇格には審査があります。また、血盟の創設は3級以上で可能となります」
4級から5級への昇格には冒険者ギルド評議会──本部及び支部のギルドレーラーと副レーラー、他の各種機関の代表者の合計25人で構成される──における選考を通過しなくてはならない。リチェルカの完了件数は選考基準に入っていないが、冒険者となってからの全てのリチェルカの完了状況や内容も審査されるため、この選考を通過するのはかなり厳しい。5級ともなればその待遇は諸侯並となることもあって、この3年ほどは5級に昇格したものはいなかった。
「ここまででご質問は?」
担当者はにこやかにイディオフィリアに問いかける。
「さっき、通常5段階って仰ってましたけど、通常ってことは他に何かあるんですか?」
態々通常と言うからには通常ではない場合もあるわけで、イディオフィリアは気になったことを尋ねてみた。すると担当者は『よくぞ訊いてくれた』といわんばかりに顔を輝かせる。
「この5段階の他に特級といわれる特別階級があるんですよ。これが非常に条件が厳しくて! いない時期のほうが長いくらいです。冒険者ギルドの長い歴史の中でも、これまでに認定されたのはたった10人しかいないんです。10人ですよ! どれだけ難しいか判るでしょう? 戦士ならイロアス、魔術師ならばソフォスと呼ばれています」
冒険者ギルドの歴史は長く、フィアナ王国建国以前から存在し、この年で創設1151年目を迎える。その中で10人しかいないというのであれば、確かに『特別』階級だ。
「そもそも5級ですら難易度が高いのに、その上で各地の冒険者ギルドのレーラー3人以上の推薦を受けて、評議会での選考もあるんですからね。満場一致出なければ承認されないですし。能力だけではなくて人物も見られるんですよ」
担当者は生き生きと語る。冒険者ギルドの者にとっては憧れの存在である特級冒険者。その存在は英雄とさえいわれるのだ。そんな冒険者が同じ時代にいると思えば、興奮するのも無理からぬことだ。
「今は凄いんですよ。その10人のうちの4人は今現在活動している現役の冒険者なんですから!!」
最早イディオフィリアの質問に答えているというよりも自ら語りたくて語っている状態の担当者である。
「但し、ご本人たちは目立つことがお嫌いだそうで、一般にはあまり知られていないことなんですけどね。現在はイロアス3名、ソフォス1名だそうです。ただ、そのうちおふたりは特級認定されていながら登録は未だ4級に留めていらっしゃるそうなんですよ。5級や特級になるとリチェルカ報酬が高額ですからね」
冒険者はある程度知名度が上がると指名でのリチェルカ依頼が入ることがある。指名リチェルカは通常よりも報酬が高額になるため、5級以上の冒険者ともなれば、小さな町や村では到底依頼できないほどの高額となってしまうのだ。それを避けるために敢えて4級に留めているのだという。
「流石に特級になる方は人物も出来てますよねぇ」
まるで夢見るような熱っぽさを以って担当者は語る。
「因みにリチェルカの難易度にも実は【星無限】というものがあって、これは特級の4人の方に直接ギルドレーラーから依頼が行くそうです」
担当者の熱弁は止まらず、圧倒されたイディオフィリアは呆然と相槌を打つことしか出来なかった。
「イディオフィリアさんもそういう特級は無理だとしても、5級目指して頑張ってくださいね」
ニコニコと笑って担当者はそう締め括った。
──後にこの担当者とは意外な再会を果たし、彼は重要な役割を果たすようになる。
冒険者ギルドでの登録を終え、初級冒険者用の武器と防具を支給されたイディオフィリアは、早速ひとつ星リチェルカを受けることにした。元々所持金はあまり多くはなく、アルモリカに到着するまでに更にそれは減っていたから、当座の生活資金のためにも稼ぐ必要があったのだ。幸いにしてこれまでの旅の過程で収集しておいた薬草と鉱物を集めるリチェルカがあり、それを受諾。受けたその場で品物を渡し、即座に完了できた。これでまずはひとつ星リチェルカを2件完了したことになる。
少々資金に余裕が出たイディオフィリアはギルドを出ると宿を取った。約半月ぶりのまともな宿である。これまでは殆ど野宿だったのだ。
宿に入ったイディオフィリアは支給された武具を確認する。ブロードソードと革鎧・革兜・革の盾といった簡素な武具である。元々イディオフィリアが持っていたものと大して変わりはないが、使い古してボロボロになっていたものが新品になっただけでも充分有り難かった。
「冒険者としての始まりだ」
フィアナ大陸本土にやってきて、その魔族の多さには驚かされた。イディオフィリアが本土で出会ったものはアヴァロンにもいたような低級の魔族ではあったが、数が多すぎる。祖父から聞かされていた以上に、フィアナは危険な状態なのかもしれない。
自分が何処までやれるかは判らない。自分の力などちっぽけなものだ。だが、それでも。何もやらないよりはずっと良いはずだ。