隠者の島・アヴァロン。
フィアナ大陸の南西にある小さな島には、わずかばかりの住民が漁業を中心に生活の糧を得て暮らしている。豊かではないが貧しくもなく、大陸本土に比べれば魔族の出現も稀なため、住民は穏やかでのんびりした生活を送っている。
弑逆者オグミオスがフィアナ王国の支配者となってから20年の歳月が流れている。フィアナ王国は表面上の平和を取り戻し、今ではディルムド王の名を口にする者も少ない。けれど、それは忘れてしまったのではなく、雌伏しているだけのことだった。善王といわれたディルムドを慕う者は
しかし、それでも全ての者がオグミオスの治世を受け容れたわけではない。ここアヴァロンに隠れ住む者たちのように。
20年前の出来事をフィアナの民たちは『オグミオスの乱』と呼び、オグミオスを『反王』と呼ぶ。それは決してオグミオスを『フィアナ王国の正統な支配者』とは認めていないことを意味している。ゆえに『乱』であり『反王』なのだ。いずれ正しい血統──善王ディルムドの血統の者によってフィアナに真の平和が訪れることを信じているのだ。
アヴァロンには20年前の反乱から逃げ延びた者たちが数多く住んでいる。その中でソルシエールは育った。反乱当時まだ5歳であったソルシエールは師匠であるベルトラムが住むこの島へと匿われた。
フィアナ大陸北部にあるアヴェリオンには【琥珀の塔】と呼ばれる研究機関があり、そこには国中から高位の魔術師・聖職者が集まり、研鑽を積んでいた。20年前の反乱の折、オグミオスはこの研究所の存在を懸念し、魔族に真っ先にこの塔を破壊させ、研究者たちを滅ぼそうとした。それぞれが高位の魔術師でもあった研究者たちは事前に魔族の出現する次元の歪みを感知し、また大賢者ベルトラムの預言もあったため、各々逃げ
乱が収束を見せると、一部の研究者はアヴェリオンに戻り、密かに琥珀の塔を再建した。オグミオスも魔術師であり、魔法研究の重要性を理解していたこと、魔族そのものが異界へ戻ったこともあり、現在では研究所の存在を黙認している。
また、比較的歳若い魔術師はフィアナ全土に散らばり、冒険者として情報を集めつつ機を窺っている状態だった。
魔族を追い払い、人の手に王国を取り戻すために。
転移魔法でアヴァロンに戻ったソルシエールは師ベルトラムの庵に入り、弟子としての礼をとって跪いた。
「師、お呼びとのことですが、何か」
呼ばれて振り返ったベルトラムは数百歳を超える老人である。当然、深い皺を刻んだ顔に真っ白な髪──ではなかった。すらりとした長身に床に届こうかという髪はうっすらと青みがかった銀糸。20代半ばにしか見えない顔は女性かと思うほど優しげな美貌である。
ベルトラムの素性は謎に包まれており、彼の実年齢を知る者はいない。一部の噂によればエルフとアンスロポスとの間に生まれたハーフエルフであるとか、神とアンスロポスの間に生まれた半神であるとか……。真実を知る者は本人以外にはいないが、ハーフエルフにしろ半神にしろ、アンスロポスよりもずっと長寿で魔力も高くなるため、どちらでも頷けるというものである。ベルトラム自身はそれらの噂を全く気に留めず、我が道を進んでいる。
年齢に関しては200歳を超えているミストフォロスが物心ついたときには既に大賢者として名が知れ渡っていたというから、少なくとも300歳は超えているのではないだろうかというのがソルシエールたち弟子の見解だ。
取り敢えずソルシエールが弟子入りした20年前から外見的には全く歳を取っていない。尤も、100歳だろうが1000歳だろうが、この師匠の性格に変わりはないわけで、ソルシエールにしてみればどうでもいいことだった。
「用がなければ呼ぶわけはないでしょう。嫁き遅れの不肖の弟子を」
優しげな声は毒を吐き出す。尤も、ソルシエールはこの師匠に育てられていることもあり、全く堪えない。それに不肖の弟子や出来損ないといった厳しいことを言うこの師が、周囲にはソルシエールを最高の愛弟子と自慢していることも知っている。素直ではない師匠の性格と口の悪さをソルシエールは熟知している。
「然様でございますね。何処かのツラだけは若いくせに物臭な陰険ジジィの世話をしてたら嫁に行きそびれて折角の美貌も妖艶な肢体も無駄になりかけてる不肖の弟子ではございますがそれなりに忙しゅうございますのでとっとと用件言いやがれ耄碌師匠」
当然、ベルトラムに育てられたソルシエールも口の悪さでは負けていない。
「嫁にいけないことを大恩ある師のせいにするなんて、なんと情けない弟子でしょう。ああ嘆かわしい。とはいえ、今動ける者はお前しかいないのだから仕方ありません」
ベルトラムは大仰に溜息をついてみせる。
「そうですね。私も別の方が師匠だったらもっと
棘のある言葉の応酬はふたりの信頼の証でもある。ソルシエールはなんだかんだといってもこの師匠の魔力の高さ、知識の豊かさを尊敬している。性格に難有りとはいえ愛情を持って育ててくれたことも理解しており、師として父として敬愛しているのだ。
ベルトラムにしても本人には決して言わないながら『ソルシエールを得たことは魔術の指導者として最高の栄誉』と語るほど、彼女の実力を高く評価している。見込みがないと思えばすぐさま指導をやめてしまうのが本来のベルトラムなのだ。そして何よりも彼がこの20年アヴァロンに隠棲し、この地に何重もの強固な結界を張っているのは、この愛弟子を守るためだった。
「王子がアヴァロンを出ました。冒険者になるそうです」
突然舌戦を止め、師の口から発せられた言葉にソルシエールは目を見開いた。そして瞬時に師の言葉から複数のことを読み取る。
王子──先王ディルムドの遺児。反王オグミオスが20年前に取り逃がし、以来ずっと探している『正統な』王位継承者。
公には死したことになっている王子だが、それを信じている者は殆どいないといっていい。反王側は自分たちの権力と命を脅かす者として警戒し探索している。先王を慕う者たちはフィアナを取り戻すために探し続けている。しかしこの20年、王子は一向に噂ですらその居場所が掴めていない。
「やはり王子殿下はこのアヴァロンにいらしたんですね」
ソルシエールは溜息をつく。王子が隠されているとするならばこの島しかないと思っていた。この島にはそれだけ堅い守りが敷かれていたのだ。
アヴァロンは狭い島だ。半日もあれば島の全てを探索できるくらいに。しかし、この島には特殊な結界が施されている。外界からの魔術的な干渉を撥ね退けるもの、そして異界からの進入を防ぐためのもの。王都ミレシアを守るよりも遥かに高度で強固な結界が張られているのである。それを
この島に住む者の3分の1は魔術師だった。その中には3級以上の上級魔術師もいる。更にその結界を補強しているのが大賢者ベルトラムだ。そこまでしてこの島を守る理由はひとつしかない。守るべき王子がこの島に隠されているからに他ならない。
「王子の祖父ユリウス=パトリック・ノイマンは私の弟子でもありました。彼がこの島にいることは判っていましたが、何処に住んでいるのかは私でも知りませんでした」
魔術師にとっての師匠は親以上の存在である。その師匠──しかも大賢者であり世の魔術師全てから尊敬を受けるほどの人物──にすらユリウスは居場所を明かさなかった。それほどの用心をユリウスはしていた。そして、王子が旅立ってからようやくユリウスは居場所を師に明かしたのである。尤も、ベルトラムがその気になれば居場所の特定は容易だったのだが、彼の意図を理解していたことから敢えて何もしていなかった。
「ソルシエール。時が動き出しました。お前も、お前の宿命に従い旅立つのです」
これまでにない厳しく真剣な眼差しをベルトラムは愛弟子に向け、告げた。
ベルトラムから語られた『宿命』はソルシエールを驚かせるには充分なものだった。だが、驚き呆然としている時間はなかった。王子は既に旅立っている。そして何よりも『時間がない』のだ。
ソルシエールも高い魔力を有する魔術師である。今の世界の状況には気付いていた。だからこそ、冒険者をしているのだ。けれど、師から告げられた現実はソルシエールの予測以上に深刻なものだった。
「お前も気付いているでしょう。今、この世界はマナの調和が崩れている。聖なる力と闇の力の均衡が崩れている。けれどそれは、闇の神ハフガンの力ゆえではない」
闇の神ハフガンの力が増しているためならば、それは人の祈りによって不均衡を正すことが出来る。元々アンスロポスは闇の神ハフガンの眷属だといわれている。闇の神即ち悪神ではない。光と対を成すものが闇であり、闇もまた善なる神の力なのだ。
しかし、闇はその特性ゆえに魔族もまた惹かれ、光と対極にある闇に力を及ぼす。光を憎む魔族の齎す瘴気が闇を汚染し、善なる闇を悪へと染めているのだ。それが今のマナ均衡の崩壊へと繋がっている。
「崩壊は深刻です。このままでは……世界はあと10年のうちに滅びへと導かれてしまうでしょう」
師の言葉にソルシエールは愕然とする。このままではいずれ世界が崩壊するであろうことは予測していた。けれど、わずか10年しかないとは……。
「崩壊に拍車をかけるように、数年のうちに魔族とファーナティクスのダークエルフがフィアナ全土を襲うでしょう。今のフィアナにそれに抗する力はありません。戦乱──いいえ、蹂躙と虐殺の世が訪れます」
オグミオスは老い、かつては魔族やファーナティクスの干渉を阻んでいた覇気も既にない。それが崩壊を加速している。
各地には都市を治め軍を持つ諸侯もいるが、全てオグミオスに任じられた者であり、兵の半数──しかも主力であるほうの半数──はファーナティクスから派遣されているダークエルフで構成されている。大半の兵はファーナティクスや魔族に抗することは有り得ず、寧ろ呼応してフィアナを攻めるだろう。戦争にすらならない。人は抗する
「反王を倒さねばなりません。オグミオスがいる限り、魔族が消えることはありません。魔族が消えねばマナの崩壊は止まらない」
ソルシエールはじっと師の目を見つめ、言葉を聴く。
反王を倒せば魔族がフィアナに出てくることは難しくなる。マナの崩壊は止まる。そうなればファーナティクスが攻めてきてもまだ勝機はある。少なくとも現状よりは。
「イル・ダーナの愛し子ソルシエールよ。貴女が生まれ出でたとき神より与えられた使命に従いなさい。これより先王ディルムド陛下の遺児を探し出し、彼を援け、反王を討つのです。それがこの世界の崩壊を止める唯一の術なのですから」
ソルシエールはただ頷いた。迷ったり悩んだり反発している時間はないのだ。『使命』という言葉に反発を感じても、反王を倒し魔族を追い払うことは元々ソルシエールが目指していることだった。だからこそ、パーシヴァルやミストフォロス、アルノルトらと行動を共にしているのである。
それに、『宿命』を聞いてようやくこれまでの師の教育に納得が出来た。まさか自分に預言などという大層なものがあったとは思いもしなかったけれど。ベルトラムが自分に施した教育、自分に求めた高難度の術や知識。それらが『宿命』を聞いたことによって全て納得できたのだ。
ソルシエールが初めてベルトラムと会ったのは5歳のときだった。引き取られるそのときに初めて顔を合わせたのだ。
なんて綺麗な人なのだろうと思った。それと同時になんと恐ろしい人なのだろうと。殊更冷たい目を向けられたわけでもない。厳しいことを言われたわけでもない。ただ、彼から発する気はあまりにも大きく重くソルシエールを押し潰そうとした。今であれば、それはベルトラムの魔力の大きさを感じ取っていたと判るが、まだ魔法について何も知らなかった5歳のソルシエールにとっては、ただただ恐ろしいと感じるだけのものだった。
「お前がソルシエール=アシャンティですね。お前は今日から私の弟子となり、魔術師の修行をするのです」
優しい声ではあったが、厳しさを含んだものでもあった。ベルトラムの発する気が恐ろしくてソルシエールはとっさに母の影に隠れたくなった。けれど、大貴族の姫として育てられた矜持がそれを許さなかった。青ざめ震えながらもソルシエールはベルトラムに礼を返した。
「これからよろしくお願いいたします、お師匠様」
その気丈な様子にベルトラムは笑みを零した。そのときふっとベルトラムを取り巻く気が和らぎ、ソルシエールは安堵した。自分を押し潰そうとしていた力は途端に包み込むような優しいものへと変化したのだ。
「良い眼をしている。将来が楽しみです」
ベルトラムはたおやかな手でソルシエールの頭を優しく撫でた。
この方がこれから私の師匠。父とも呼べる方となる。ソルシエールはその優しい手を感じながら思った。元々両親から5歳の誕生日を過ぎれば魔術師となるために師匠の許へ預けられることは告げられていた。家族との別れも覚悟していた。だから、師と旅立つことを忌避する
「父様、母様、行ってまいります」
ベルトラムに手を引かれ、ソルシエールは家族に別れを告げた。両親とふたりの兄は寂しげな、けれど笑顔でソルシエールを見送ってくれた。
その数日後、首都ミレシアが反王の手に陥ち、先王は殺された。ソルシエールのアヴァロン行きはギリギリの脱出だった。
アヴァロンに移ってからは毎日が修行の日々だった。貴族の姫君として既に文字は習得していた。しかし、魔術に使う古代文字や古代語、様々な理論など、わずか5歳のソルシエールには難しすぎるものばかりだった。
それでも生来の勝気さと両親から受け継いだ自尊心の高さはソルシエールに弱音を吐くことを許さず、ソルシエールは
魔術師として必要な知識。世界を構成するマナについて、基本の魔術や魔術体系について。これらは魔術師としての基礎であり、学ぶことを不思議に思うことなどなかった。けれど、ソルシエールにベルトラムが施した教育はそれだけではなかった。
世界の成り立ち、歴史に始まり、政治学・経済学・政治思想・兵学・用兵術。ベルトラムの教育は帝王学ともいうべきものだった。
更には市井の魔術師であれば不要なほどの高度の理論、禁呪とされるほどの強大な魔法。
召喚術などは幼いうちから叩き込まれ、最初のハルピュイアを召喚したのはわずか6歳のときだった。
召喚術とはフィアナと異なる次元──異界と呼ぶ──にいる魔族を召喚し使役する魔法のことである。この召喚された魔族を通常【魔獣】と呼ぶ。その術者の能力によって召喚できる魔獣は異なり、当然力の弱い魔術師は下位魔族しか召喚できない。
既にフィアナに生息している下位魔族は契約を結ぶことなく、ある程度の魔力があり呪文を習得していれば召喚することは可能だ。ゆえに大抵の魔術師はこれらの下位魔族を召喚する。下位魔族とはいえ、一般の民たちにとっては充分な脅威であり、魔術師が護衛として使うには充分なのだ。ただ、下位魔族はその分知能も生命力も低く、殆ど使い捨てのようなものであり、召喚する毎にその個体は異なる。
それに対し、中位以上の魔族を召喚する場合は、召喚する種族の特定の個体と契約を結ぶことになる。中位以上の魔族の場合はそれなりに知能があるため、個を特定しての契約が必要になるのだ。その種族によって難易度は10段階に大別され、難易度10とされるのは神獣である六竜となる。
ソルシエールが最初に契約をしたハルピュイアは、全身を白い羽毛で被われ大きな翼を持ち、上半身はアンスロポスの女性の姿をした鳥系の魔族だ。これは難易度4の召喚獣であるから、わずか6歳にしてそれを召したことでソルシエールはその能力の高さを示した。
その次にソルシエールが契約したのはマーナガルムで、これは13歳のときだった。通常の3倍ほどの体躯を持つ漆黒の狼の姿をしたマーナガルムは上位魔族であり、この魔獣を召喚できることが上級魔術師の条件と言われている。13歳という若年でマーナガルムを得た速さに周りの魔術師たちはソルシエールを天才だと評した。しかし、ベルトラムは出来て当然だという顔をしていた。
13歳から15歳の間に3頭のマーナガルムを得、次の種族と契約をしたのは20歳のときだった。この契約により、ソルシエールは賢者となった。賢者の条件はフラウロスを召喚できることである。
フラウロスは四魔公爵の一である黄泉の騎士の第一軍を成す種族であり、異界における地位も高い魔族だ。それだけにかなりの魔力を持つ高位の魔術師でなければ召喚できず、ソルシエールの知る限り、フラウロスを召喚できる魔術師は師であるベルトラムを含めフィアナ大陸で3人しかいないはずだった。
魔獣は名を与えることで契約が成立し、術者が死ぬか解放の呪文を唱えることで契約の破棄となる。このフラウロスは流石に高位術者でなければ召喚できないだけあって、かなり魔族としての矜持が高い。ソルシエールが豹=猫科だからという理由で『にゃーこ』と名付けようとした瞬間、異界へ帰ろうとしてしまったほどだった。尤も、師ベルトラムや兄弟子たちに言わせればソルシエールの名付け感覚はかなり可笑しいものなのだが。
因みにマーナガルムは狼というよりも性質は犬に近く、術者=飼い主として懐いており従順である。ハルピュイアは女性らしく口煩い面もあるが母親のような存在だ。実際、ソルシエールが6歳の時点での召喚契約だったせいか、殆どソルシエールの母親役となっており、身の回りの世話をずっとしていたのは彼女だった。
ハルピュイアはセイレーンと名付け、マーナガルムはシュヴァルツ・ノアール・ネロとなっており、自尊心の高いフラウロスは半日の名付け闘争の末ロデムと名付けた。
現在は4種族めの召喚獣と契約すべく交渉中なのだが、これは難航している。何せ、最大最強の召喚獣である六竜のうち、ソルシエールと最も相性のいい水竜バラウールを得るようにベルトラムから命じられているのだ。
バラウールは魔獣ではなく神獣である。それだけに魔族を召喚するよりも数段その難易度は高くなる。長いフィアナの歴史の中でも竜の召喚契約に成功した魔術師はふたりしかいない。そのひとりがミレシア大聖堂の創始者であり初代神官長にして聖者といわれたブランであり、彼は最強の竜・光竜ジルニトラを召喚できたといわれている。そしてまた、ソルシエールに神獣を召喚しろと無理難題を吹っかけた師匠ベルトラムもこのジルニトラとの召喚契約を結んでいる。
ソルシエールは師匠が召喚したジルニトラと対面したことがある。光り輝く優美な姿を今でも鮮明に覚えている。そのジルニトラに対してベルトラムはソルシエールに竜を与えたいと言い、光竜は『ならば、水竜バラウールが良かろう』と答えたのだ。それから3年が経っているが、未だにソルシエールは水竜との契約には成功していない。
師に命じられたときには何故神獣を……と不思議に思いもした。しかし、ソルシエールの使命が王子を援け魔族を打ち払うのであれば、確かに神族の力の一端は手に入れておくべきものだろう。魔族を打ち払う──フィアナを建国した三英雄と同じことをしなければならないのだから。
そして、魔術師らしからぬ教育を施されていたことも思い出す。騎馬訓練に剣術、弓術、杖術を叩き込まれた。尤も戦闘には殆ど才はなく、なんとか弓術で雑兵程度には使えるというものでしかなかった。
また、冒険者として世界を見て回るように指示され現在に至っている。因みにソルシエールはその魔力ゆえに冒険者の間では『氷雪の魔女』という通り名で知られるようになっている。
何よりも、ソルシエールは既に25歳になっている。
フィアナにおいての結婚適齢期は15~18歳であり、この年齢まで結婚していないのは婚姻を禁じられている巫女くらいなものだ。
況して、能力の高い魔術師はその血筋を残すために早期の結婚と多産を奨励されているフィアナである。上級の魔術師ともなれば、適齢期になれば大々的に配偶者を募集することも珍しくはない。けれど、ソルシエールはまだ結婚も出産もしていないのだ。
決して醜い容姿をしているわけではなく、寧ろ黙っていれば美女といっても差し支えない。かなり口は悪いが姐御肌で面倒見もよく、15歳を過ぎたあたりからはそれなりに求婚者もいたのだ。
しかし、ベルトラムは
当初、周囲の魔術師たちは『愛弟子を下手な男には嫁がせたくはないのだろう。なんだかんだといっても師はソルシエールを溺愛しているのだ』などと暖かく見守っていた。しかし、次第にそうではないことに気付き始めた。
ソルシエールの兄弟子に当たる魔術師や王都に住むソルシエールの家族が夫の候補者としてベルトラムに推薦したパーシヴァル、ミストフォロス、アルノルトでさえ、ベルトラムは却下したのである。当時はミストフォロス以外はまだイロアスではなかったとはいえ、当代最高の冒険者──勇者であることに代わりはない。その彼らでさえ夫として不適格というのであれば、ベルトラムはソルシエールに結婚をさせる気はないのではないか。
結局、ベルトラムは徹底的に完膚なきまでに求婚者を退け、遂に20歳を越えたころには誰ひとりとしてソルシエールに求婚するものなどいなくなった。
けれど、それもまた、ソルシエールに課せられた使命ゆえなのだと今ならば納得できる。結婚し子供を成し家庭に入ってしまえば、使命を果たすことは難しくなる。余程度量の大きな夫でなければ、妻が戦いに身を置くことを許しはしないだろう。
「とはいえ、なんか癪に障るわね」
荷造りをしながら、ソルシエールはぶつぶつと不満を零す。
全てが、自分の人生が『使命』という言葉で決定されているのだ。自分の意思に拠らずに。
否、ソルシエールが目指してきたことは、師から語られた『使命』そのものだった。自ら選び進んできた道と『使命』は重なっていた。自らの意志によって進んできたはずの道が実は『使命』によって誘導されていたのだろうかと思ったのだ。
けれど、そうではないと信じたい。自分の目で見たもの、体験してきたこと、感じたこと。それら全てから自分自身で選んだ道だ。それが偶々使命と同じだっただけのこと。使命とは関係なく、自らの意志で選んだ道だと信じたかった。
それにしても……とソルシエールは荷造りの手を止め、師から渡された額飾りを手に取る。強大な力を引き出すことが出来るとされ、来たるべきときまで身に付けることを禁じられているものだ。代々母の家に伝わってきている一種の神器。いつ着けるのかは『その時』が来れば判るとも言われていた。
「神獣たる竜の力を以って……か」
恐らく、この額飾りは竜を召喚し使役するために必要なものなのだろう。
ソルシエールは改めて師の語った『使命』を思った。ソルシエールの宿命、そして使命。それは正確にはソルシエールの母の血族・マクブラン一族に課せられた使命だった。
ベルトラムはこのアヴァロンに100年とも200年ともいわれる長い歳月を隠棲して過ごしていた伝説の大賢者だった。
25年前、ベルトラムは不思議な輝きを持つ星を見た。それは更に大きな力を持つ星に添っている星だった。その光が示したのは王都ミレシア──そこに生まれたひとりの赤子だった。それがソルシエールである。
ソルシエールは王国でも有数の旧家クロンティリス家に生まれた。父バルタザール=ラファエルは王国軍の元帥を勤めており、当時はまだ王太子であった先王ディルムドの剣の師でもあった。母マリア=マグダレーネはミレシア大聖堂の女神官長だった女性であり、結婚して職を退いてはいたものの、聖魔法に関しては王国随一といわれた聖職者だった。
父の家系は代々軍の重鎮として王と国を守っており、母の家系は初代国王の弟であり初代ミレシア大聖堂神官長であった聖者ブランから生まれた一族だった。このマクブラン一族は代々魔術師として王に仕え国を支えてきたのである。
【王国に危難あるとき、神獣たる竜の力を得、これを救え】
そう言い継がれてきた魔術師の一族。その血をソルシエールはひいている。一族の誰よりも高い魔力とともに。
未だ王国に何の翳りも見えなかった25年前、ソルシエールはクロンティリス家の第3子として生を受けた。
ソルシエールが生まれたのは暁のころ。ソルシエールを出産した母マリアはこの娘が尋常ではない星の下に生まれたことを感じ取っていた。それを証明するかのように、バルタザールとマリアの許にベルトラムが現れた。
「星が示した。その娘は預言の子。私が預かろう」
ベルトラムは告げた。ふたりはただ首肯し、何の異も唱えなかった。王家と魔術に深い関わりを持つふたりはベルトラムをよく知っていた。恐らく王国の誰よりも。伝説の大賢者にして預言者。それだけではないことも。
彼の預言により、マリアは大聖堂を出てバルタザールと結ばれた。いつか自分たちの間に生まれる子が王国の運命の鍵を握るひとりになるのだと知らされていた。それがこの娘なのだ。
ベルトラムは夫妻にいくつかの言を残した上で、ソルシエールが5歳になったら迎えに来ると告げた。両親とふたりの兄はわずか5年しか共にいられないソルシエールに惜しみない愛情を注ぎ育てた。
そして、5年後、ソルシエールはベルトラムと共にアヴァロンへと移った。──善王ディルムドが死去する10日前のことだった。
ソルシエールの家族は現在でも健在である。
父は元帥職こそ解かれてはいるものの、王都守備隊で将軍職に就いている。オグミオスも国軍の信頼を集めるバルタザールを殺すことは出来なかった。国王とフェーレンシルト将軍が死んだ今、バルタザールまで殺してしまえば、国軍は決してオグミオスの命令など受け容れないことが判っていたのだ。それに、いくら協力関係にあるとはいえ、信頼しているわけではない魔族とファーナティクスへの備えとして有能な指揮官を失うことも出来なかった。バルタザールも不本意ながら来たるべきときに備え、主君ディルムドと盟友ボルスとの約束を果たすため、表面上はオグミオスに
母のマリアは乱の後、再び神官として大聖堂に戻った。バロールの分身の出現によりマナの均衡が崩れること、それが深刻な崩壊へと繋がることをマリアは予測していた。崩壊を食い止めるためには彼女の祈りの力は不可欠なものだった。そうして、夫と同じく来たるべき日のために今もマリアは大聖堂で祈り続けている。
長兄ムスタファ=バルドゥインは文官として宮廷に出仕し、現在では財務副大臣となっている。オグミオスに仕えることは決して本意ではなかったが、政治の実務を司る宮廷の官吏を掌握するために出仕しているのだ。反乱当時、ムスタファは既に15歳の成人年齢に達しており、末の妹の背負った使命を彼もまた知っていたのである。尤も、本来は家を継ぐ者として父と同じく軍人になるところを文官になったのは、せめてもの反抗の現われだった。
ソルシエールは冒険者となってから聖堂に母を訪ね、密かに父・長兄との対面を果たした。それからはミレシアを訪れるたびに家族の誰かと会い、互いの情報を交換している。ただ、次兄とだけは未だに顔を合わせたことがなかった。
次兄イオニアス=ベネディクトは公には死亡したことになっている。しかし実は王都を出て、オグミオスに抗する組織の長となっている。父や兄と連携を図りながら地方を中心に反王に対抗する勢力の組織作りを進めているのだ。それもまた来たるべき日のためである。
王子を援け反王を討つのであれば、この次兄の許を訪ねるのが良いだろうとは思う。しかし、次兄の正確な所在は両親も長兄も知らず、ソルシエールは次兄の顔も覚えていない。尤もソルシエール5歳のときには兄もまだ10歳だったのだから、覚えていたとしてもあまり役には立たないだろうが。
それよりは王子を探し出すほうが早いはずだ。アヴァロンを既に出ているとはいえ、冒険者となったことははっきりとしている。冒険者同士であればギルドを通して連絡を取ることも可能になる。それにソルシエールほどの冒険者であればギルドはあらゆる便宜を図ってくれる。捜索は難しくないだろう。
とはいえ、王子の安全のため、祖父ユリウスはベルトラムにすらその所在を明かさず、王子の名前も容貌も何もかもが全て不明だった。
「これで探せっていうのは相当無理難題じゃないかしらね」
荷物をまとめながら、ソルシエールは再び呟く。
これを機に、ソルシエールは完全に師の下から独立することになった。これまで師の庵に置いていた己の所有物を全て整理しなくてはならない。魔石(魔法発動のための触媒)、導石(魔石の原料)、術具、武器、防具。必要なものは全て【鋼鉄の門】の倉庫に預ける。鋼鉄の門に預けていれば、フィアナ大陸の何処の倉庫からでも必要なときに必要なだけ取り出すことが出来るのだ。不要なものは全てフィアナ商団──王都に拠点を持つ商業ギルド。何でも買い取ってくれる──に売り払う。
「出逢えば判るっていうけど……」
ソルシエールと同じように王子も預言を受けているひとりだという。預言の者は出逢えば判るとベルトラムは言った。飽くまでもソルシエールの魔力の高さがあってこそのことだとも言われたが。つまり、ソルシエールは王子に会えばそれが王子と判るが、王子は何も判らないということだ。
「早く王子を探さなきゃね。10年しかないんだし」
王子がアヴァロンをいつ出たのかは不明だが、冒険者となっているのならば何とかなる。まずはユリウスに会うことからだ。王子がどの程度の情報を持っているのかも確かめなくてはならないし、何よりも外見や名前を知らなくては探しようもないのだから。
翌日、全ての準備を整えたソルシエールは師に暇乞いをし、旅立った。