フィアナ暦892年。
「陛下、逆賊が遂に城門まで迫って参りました。
常の落ち着きをかなぐり捨てて、宰相ディカルデンが玉座の間に駆け込んできた。
先の宰相ユリウス・パトリック・ノイマンの片腕として冷静沈着、その
「王が城と玉座を棄てて逃げ出してどうするというのだ、宰相。それは国と民を見捨てるということなのだぞ」
王は一向に慌てる様子もなく、泰然として笑った。
賢君よ、名君よ、善王よと煽てられ、自分は驕っていたのかもしれないと王は思う。妻を迎え、世継ぎも生まれ、20余年の後に自分は王子に玉座を譲り渡す。当たり前のようにそう思っていた。
王妃ディアドラは先の宰相のひとり娘で、その可憐な美貌と聡明さでミレシアの華と謳われた少女だった。ひと目で互いに恋に落ちた。父王に仕える名宰相といわれたユリウスは己が外戚として権を揮う意志のないことを示すため、王の結婚と共に職を辞し、己が師の住むアヴァロンへと隠棲した。
今考えれば、その隠棲はこのときを見越してのことだったと理解できる。国を守るため、民を守るために彼は身を隠したのだと。
王妃を迎え幸せな日々が続いた。国は問題もなく治まり、民は平穏な暮らしを送っていた。やがて王妃は身篭り、王子を産んだ。誰もが待ち望んでいた跡継ぎの王子を。
王子の誕生によって運命の歯車が廻り始めたことを知っていたのは、ごくわずかな者だけだった。
伝説の大賢者によって、王はそれを知らされた。己が死する運命を。生まれたばかりの我が子に課せられた宿命を。
自分は今、玉座を追われようとしている。共にフィアナ王国を護ってきたはずの一族の者によって。だが、王座を追われるのはそれが運命だからではない。自身が招いたことのなのだと彼は思っている。
「ディカルデン、私の世は終わる。全ては私自身の不徳が招いたことだ」
彼が不満を持っていることに気付かなかった。心に闇を宿していることにも。そして、彼と同じ不満を抱き、呼応する者がいたことにも。
自分の治世を否定する者がいたことに気付かなかった。万人に喜んで受け容れられているとまでは
「けれど、私の終わりがフィアナ王国の終わりであってはならない。民に罪はない。私の愚かさによって民が不幸になってはならぬ。ゆえにディカルデン。そなたはオグミオスに下るのだ。そなたの能力はオグミオスも知っていよう。粗略には扱わぬはずだ」
目の前で膝を就く宰相に王は語りかける。
「誇り高いそなたは恥と思うだろう。屈辱であろう。酷な願いとは判っている。だが全ては民のため。民がこれまでどおり平穏に暮らせるよう、そなたは新たな王に仕えてくれ。愚かな王の最期の頼みだ」
王の真摯な眼差しにディカルデンは言葉を詰まらせる。逃げろとは言ったが、王が決してそうしないことは彼にも判っていた。
王に逃げる気があれば、とっくに逃げている。今も王の側に控えている側近中の側近、クロンティリス元帥とフェーレンシルト将軍が万難を排して王を逃がしているはずだ。
「…………御意。来たるべき日のため、今は耐え難きを耐え忍び難きを忍びましょう。正統なる血によって歴史が正されるその日まで。我が天命が尽きるまでしばしのお別れです、我が君。我が忠誠は永遠に貴方様──ディルムド陛下の御許に」
ディカルデンにも判っていた。これは終わりではなく、始まりなのだということが。先代の宰相が託された『預言』がそれを示している。ならば、自分の役目はそのときまでこの国を、民を守ることだ。王の望みどおりに。
ディカルデンは片膝をつき臣下としての最敬礼をすると、両脇に控えるふたりの騎士と視線を交わし、最後に穏やかな表情の王を眼に焼き付けて退室していった。
「やれやれ、最後まで堅苦しいお人だな、ディカルデン殿も」
場にそぐわない明るい声でフェーレンシルト将軍──王の
「仕方あるまい。あの御仁はそういう方だ。お主と違うてな」
苦笑しつつバルタザール=ラファエル・クロンティリス元帥は応じる。ボルスと共に傅役として王に仕えてきた日々が元帥の胸に去来する。
最後まで王の傍らに残るのは彼らふたりだけだった。他の王の側近は既に逃がしてある。彼らは自ら逃げ出したのではない。彼らとて最期まで王と共にあることを望んだ。けれど、王が未来のため、民のためにと説得し、それぞれの役割のために各地に散っていったのだ。ある者は賢者の住むアヴァロンへ、ある者は商人の町セネノースへ、ある者は剣士の町アルモリカへと。残っているふたりは、ひとりは王と死出の旅路を共にするため、ひとりは全ての後始末をするためにここにあるのだ。
「しかし……まさか魔族を召喚するとはな」
ボルスが苦々しげに吐き棄てる。フィアナ王国建国の際に聖王が封じた魔族。魔族の住む異界との道は全て閉ざし、翡翠の塔の建設を以って全てを封じたはずだった。
「軍才はないが魔術の才はあったからな、公爵殿は」
オグミオスの挙兵からわずか5日。辺境の村エリンを突如襲った魔族とファーナティクスの軍勢は今、王都の城門まで迫っている。
「ピクトのグィディオン公爵はアヴェリオンに逃れたんだったよな」
ディルムド王に信頼され、辺境地域の統治を任されていたグィディオン公爵は徹底的に魔族に抗しようとした。自分が食い止めなければと。しかし、ディルムド王はグィディオン公爵に抵抗しないように指示を出した。民の命を損なってはならないと。相手が魔族では人間に勝ち目はない。そして、今はまだグィディオン公爵に死なれては困るのだ。
ゆえに王はグィディオン公爵にひとつの指輪を託した。【聖賢王の指輪】と呼ばれるそれは王の証のひとつである。その指輪を来たるべき日まで隠し通してくれと、王は公爵に依頼した。やがて公爵の前に現れるであろう息子にその指輪を渡してくれと。
王の教師のひとりであった公爵は涙を飲んだ。ただ『御意』と搾り出すように答え、彼は雪に閉ざされた北の町へと逃れたのである。
「オグミオスがここに辿り着くまであと一刻といったところか。最期の宴というわけにもいかんだろうな」
「当たり前だ。将兵たちは決死の思いで戦っておるのだぞ」
間もなくそれぞれが死出の旅路へと赴くとは思えぬふたりの会話に、ディルムドは薄く笑みを零す。
王位に就くまでの数年間、冒険者として身分を隠して各地を旅した。そのときにも側にいたふたり。既に妻子のあったふたりは可愛い妻と子に会えないと文句を言いつつも共に旅をしてくれた。
自分が生まれたときには既に傅役として一生側に仕えることが決まっていたふたりの騎士。兄のように、親友のように、時には師として自分を支え導いてくれたふたりだった。
「兵たちには無駄死にせぬよう、早めに逃げよと命じたはずだが」
王は戦う
負ける戦いであることは判っていた。戦意や戦術の問題ではない。どうやっても勝てないのだ、人間には。相手は魔族だ。魔族を相手にするには準備が不足している。
かつてフィアナは魔族の横行する大陸だった。そして、その魔族を封じて聖王は王国を創った。その聖王ですら、大魔術師と聖者と共に数十年をかけてようやく勝った戦いなのだ。その間に国土は荒廃し、聖王の御世は国土の再建に全てを費やしたほどだった。
「仕方ありませんよ、陛下。奴らは貴方と共に在りたいんだ。貴方と共に逝きたいんですよ。俺と同じようにね」
精悍な顔に笑みさえ浮かべてボルスは告げる。
多くの兵たちが王と共に逝くことを望んだ。その気持ちは十二分に理解できたが、それを許すことは出来ない。だからボルスとバルタザールは殉死の戦に連なる者に年齢制限を課した。王よりも年少の者は未来の来たるべき日のために逃げ延びよと説得した。王子が成人し王国を取り戻す戦いを必ず起こす。そのときにこそ力を尽くせと。その年齢であれば10数年後、或いは20数年後に起こる王位奪還のための戦いにおいて、充分にまだまだ戦力と成り得るはずだ。
「確りお供をしろよ、アクセル。俺を差し置いてお供をするのだからな。大体、どうして一番年寄りの俺が生き残らねばならんのだ」
納得がいかないというようにバルタザールは呟く。3人の中では彼が最年長──といっても30代半ば──だった。
「お前と俺、ふたりともお供したら軍が崩壊するだろうが。俺よりもお前のほうが将兵の信頼が厚いんだから仕方なかろう。恨むんなら自分の人徳を恨め」
王の死後のことはこれまで何度も話し合ってきた。王の死は終わりではない。新たな歴史の序章であることを彼らは知っている。だからこそ、そのためにも軍の力を落とすわけにはいかなかった。
「ラファエル、そなたは妻のマリアと共に
自分の生は間もなく終わる。そしてそこから新たな歴史が始まるのだ。新たな時代が始まるのだ。
フィアナ王国建国より900年近くが経過している。様々な歪みが生じている。社会の不正や腐敗、汚濁がある。この反乱はその結果なのだ。自分の死とそれによる変化は世界にとって必要なことなのだと王は感じていた。
「ソルシエールは逃れたのだな」
「はい、10日前にに大賢者ベルトラム様と共に」
「妃殿下とイディオフィリア殿下も既に本土を出ておられることでしょうな」
「済まぬな、アクセル。パーシヴァルも共に逃せば良かったのだが……」
「息子が一緒では足手まといです。あれはまだ子供です。殿下方が無事にユリウス卿の許へ辿り着くためにはパーシヴァルは邪魔でしかない。何、大丈夫ですよ。あれが殿下にお仕えする
預言によって運命が定められているふたりの幼子と、彼らを助けることになる少年。魂が信頼の絆で結びついている自分たち3人の子供たちもいずれ出会い、共に運命に立ち向かうことになるのだろう。
「……そろそろ時間のようだな。アクセル、遅れを取るなよ。ラファエル、くれぐれも短慮を起こして命を粗末にしてはならぬぞ」
「──御意」
善王と讃えられたディルムドはわずか25年の短い生涯を閉じた。
それはフィアナ王国にとって、混乱の時代の始まりでもあった。